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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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27/43

二十五杯目:「えーっと。これが歯ブラシでしょ? それから、スキンケアのセットに——」

「い……一ノ瀬さん。もう、本当に大丈夫だから」


 どれほどの時間、あのみっともない泣き声を晒していたのだろう。  

 視界は涙で膨れ上がり、呼吸を整えるだけで精一杯だったが、頭頂部に伝わる彼女の手の温もりだけは、驚くほど鮮明に脳に刻まれていた。

 その優しさに心底救われたのは間違いない。


 ……けれど、いざ冷静さを取り戻し始めると、猛烈な羞恥心が後から追いかけてくる。  

 いくらなんでも、泣き止んだ後も撫でられ続けるのは、男として、いや一人の人間として限界がある。

 ましてや相手は、学校でも注目の的である一軍ギャルの一ノ瀬琥珀だ。

 こんな姿、誰かに見られたらと思うと生きた心地がしない。


「いいよ。気が済むまで、まだまだ泣いてていいんだからね」


「……いや、もう枯れた。完全に泣き止んでるから、その……やめてくれるかな、その手。

ありがたいのは、本当なんだけどさ」


 俺が顔を伏せたまま消え入りそうな声で言うと、彼女は「そっか」と短く返して、名残惜しそうに、けれど潔く手を引っ込めた。  

 顔を上げると、そこには夕闇が差し込み始めた部屋の中で、聖母か何かのような慈愛に満ちた笑顔を浮かべる彼女がいた。

 その真っ直ぐな表情に、俺は思わず視線を逸らして照れ隠しをする。


「もう、大丈夫?」


「ああ。……ありがとう、一ノ瀬さん」


 胸の奥にこびりついていた黒い塊が、すべて消えたわけじゃない。

 けれど、彼女が無理やりこじ開けてくれた風穴から、澱んでいた空気が抜けていくのがわかった。

 誰にも言えなかったあの「敗北」を言葉にできただけで、世界の見え方が少しだけ変わった気がする。


「一ノ瀬さん」


「なーに?」


「……そもそも、どうやって俺の家を突き止めたんだ? ここ、学校から結構あるだろ」


 彼女には「一時間半くらいかかる」と大雑把な情報しか伝えていない。

 この広い大阪の中で、具体的な住所も知らずに一軒の家を探し当てるなんて、超能力でもない限り不可能なはずだ。


「えっとね、これだよ、これ!」


 彼女は制服の胸ポケットをごそごそと探り、四つ折りにされてクシャクシャになった白い紙を誇らしげに差し出してきた。


「なんだよ、これ……」


「花ちゃんに教えてもらったの! 『白河がピンチなんです! 住所を教えてください!』って、職員室でお願いしてきたんだ!」


 なるほど、花ちゃん……担任の浅野先生か。  

 確かに学校の書類を見れば一発だが、それにしても、だ。


「……それ、普通に個人情報保護法とかに触れるだろ。簡単に教えちゃダメだろ、教師が」


 いくら心配だからといって、生徒に住所を渡す教師のコンプライアンスはどうなっているんだ。

 そもそも、俺は体調不良(という建前の精神的死)で休んでいたはずなのだが。


「いいの! 私が無理やり、泣き落とし気味に聞き出したんだから! 花ちゃんだって、白河のこと心配してたんだよ?」


 一ノ瀬さんの「無理やり」の威力は、この数ヶ月で痛いほど理解している。

 一度こうと決めたら、テコでも動かないし、相手が折れるまで突き進む。

 あの猪突猛進なエネルギーに抗える人間なんて、この世にそうそういないだろう。


「そんなことより!」


 彼女は突然、膝を叩いて勢いよく立ち上がると、ビシッと俺の鼻先に指を突きつけ、頬を膨らませて睨んできた。


「さっきから聞いてれば、『一ノ瀬さん』って何!? ずっと琥珀って呼んでたじゃん! なんで急にそんな他人の呼び方して、距離置いてるの!?」


 ……そこかよ。  

 深刻な過去の告白とか、不法侵入(に近い訪問)とか、話すべき重要事項は山ほどあるはずなのに、彼女が一番に噛みついたのは、俺が防衛本能で戻してしまった「呼び方」だった。

 実になんというか、彼女らしくて、おかげで俺の緊張は完全に粉砕された。


「いや、流石に気まずくて」


「気まずいとかじゃないでしょ! 私嫌だよ? せっかく仲良くなったのに、今さら『さん』付けなんて、そんなの絶対なし!」


 俺たちは本当に「仲が良かった」のだろうか。  

 どこか、教える側と教わる側、あるいは不器用な店長と口うるさい従業員。

 そんな、名前のつかない境界線の上に立っていたと思っていた。

 だが、彼女にとってその境界線はとっくに踏み越えられた過去のものだったらしい。

 とにかく彼女は、苗字に付けられたその二文字の敬称が、我慢ならないほど嫌なようだ。


「分かったよ。……分かったから。一ノ瀬」


 いい年をして、呼び捨てにするかしないで揉めていることが急激に恥ずかしくなり、俺は視線を泳がせながら、指先で頬をポリポリとかいた。


「うん! やっぱりそれがいい! ……あっ、なんなら琥珀って呼んでくれてもいいんだよ?」


 途端、さっきまでの不機嫌が嘘のようにパッと表情を輝かせ、彼女はさらなる提案をぶち込んできた。

 期待に満ちた、キラキラした瞳が俺を捉える。


「い、いや。……一ノ瀬、でいいかな。十分だ」


 流石に下の名前で呼ぶのはハードルが高すぎる。

 心臓が持たない。

 俺は全力で首を横に振り、妥協点として苗字の呼び捨てを死守することに決めた。


「えー。別に減るもんじゃないのに。……まぁ、いいんだけどなー」


 一ノ瀬は不満そうに唇を尖らせ、手持ち無沙汰そうにサイドの髪を指でくるくると弄る。 その寂しげな横顔に微かな罪悪感を覚えたが、これ以上踏み込ませるわけにはいかない。


「てか、一ノ瀬。学校はどうしたんだよ。まだ授業中だろ」


 窓の外を見れば、陽光はまだ高く、街が最も慌ただしく動いている時間帯だ。  

 制服姿の女子高生が、この時間に他人の家でくつろいでいるのは、どう考えても異常な状況だった。


「学校? そんなの、途中で抜け出してきたに決まってるじゃん」


「抜け出したって……お前、なんでだよ。普通に早退するとか、放課後に来るとかあっただろ」


 何当たり前のこと聞いてるの? と言わんばかりに首を傾げる彼女。

 その迷いのない瞳を見ていると、俺の常識の方が間違っているのではないかという錯覚に陥りそうになる。


「だって、白河が心配だったんだもん」


「は?」


 耳を疑った。  

 いくらクラスメイトの様子が気になるからといって、授業を放棄してまで、一時間半もかかる道のりを駆けつけてくるものだろうか。

 そんな、短絡的というか、純粋すぎる理由は、俺のこれまでの人生には存在しなかったものだ。


「駄目だろ、普通。学校抜け出すなんて」


「駄目じゃないよ! 友達がピンチの時に、机に座って教科書読んでる方がよっぽど駄目だよ! 私にとっては、これが一番大事な理由なの!」


 一ノ瀬琥珀という人間にとって、「心配」という感情は、校則や世間体よりも遥かに重い優先順位を持っているらしい。

 その真っ直ぐな言葉が、理屈を並べて逃げようとする俺の胸を突く。


「はぁ……。分かった。……ありがとうな。わざわざ心配して来てくれて」


「どういたしまして!」


 えへへ、と子供のように屈託なく笑うと、彼女は再び、俺の隣で腰を下ろして座り直した。


「一ノ瀬のおかげで、もう落ち着いたから。……いい加減、学校に戻るべきだ。浅野先生も、他の先生にサボりがバレたら心配するだろ」


「ううん。戻らない。……今日は、白河の家に泊まるから」











 ……は?  

 今、この女はなんて言った?  

 聞き間違いだ。

 そうに決まっている。  

 俺の耳が、泣きすぎて一時的にバカになっているだけだ。  

 そんな、倫理観を置き去りにした爆弾発言が、こんな静かな部屋で飛び出すはずがない。


「一ノ瀬。いや、一ノ瀬琥珀。いいから、大人しく学校に戻りなさい。先生も、友達のみんなも心配してるはずだから。な?」


 俺は今の発言をなかったことにするため、努めて冷静に、子供をあやすような口調でもう一度促した。  

 しかし、彼女から返ってきたのは――


「だから。白河の家に泊まるから、大丈夫だってば」


 寸分違わぬ、二度目の死刑宣告だった。  

 今度はそらさず、しっかりと俺の目を見据えて言った。  

 一体、何が「大丈夫」なのだろうか。  

 意味が分からなかった。

 論理が飛躍しすぎていて、処理が追いつかない。

 俺の言葉のどこをどう解釈すれば、「泊まる」という結論に着地するのか。


「一ノ瀬? ……お前、本当は風邪でも引いてるんじゃないのか? 熱とか」


「風邪? 何言ってるの。風邪引いたって嘘ついてサボってたのは、白河の方でしょ」


 確かに俺は先生にそう伝えていた。

 嘘をついたのは俺だ。  

 だが、今聞きたいのはそういう話ではない。

 会話のドッジボールが、場外まで吹っ飛んでいる。


「いや、違くて。いや、確かに俺はサボりだけど……。えーっと、俺が言いたいのはだな」


「もう! さっきから何が言いたいのよ!」


 俺の困惑を理解できない彼女は、ぷくっと頬を膨らませて、逆ギレ気味に俺を睨みつける。


「……お前、正気か?」



―――――――――――――――――――――――――



 状況を整理しよう。  

 過去のトラウマに押し潰され、絶望の淵で学校を休んでいた俺。  

 そんな俺の異変を察知し、担任から住所を(無理やり)聞き出し、あろうことか授業中に学校を脱走してまで駆けつけてくれたクラスの美少女、一ノ瀬琥珀。  

 彼女は俺の閉ざされた心を見事にこじ開け、救い出してくれた恩人だ。  

 だが、その恩人は今、何食わぬ顔で俺の家に一泊しようとしている。


 ……うん。  

 客観的に状況を噛み砕けば噛み砕くほど、脳の処理能力が追いつかない。


「一ノ瀬。……『泊まる』って、本気で言ってるのか?」


「うん、本気。今日は白河を一人にしたくないもん。あ、着替えとかあるかな? 貸してくれたら嬉しいな。別に女の子用とかじゃなくて、白河のTシャツとかで全然いいよ。ご飯も私が作ってあげるから。期待しててね! 最近、内緒で練習してたんだから」


 彼女は鼻歌交じりに鞄を漁り始め、中から洗面用具やらポーチやらを次々と机の上に広げていく。  

 その様子は、まるでお泊まり会を楽しみにしている子供のようだ。

 持ち前のマイペースという名の暴走特急がフルスロットルで加速し、俺の困惑など置き去りにして話がどんどん進んでいく。


「待て待て待て! 違う違う違う! 服とかご飯とか、そういう物理的な準備の問題じゃなくて!」


「えーっと。これが歯ブラシでしょ? それから、スキンケアのセットに——」


 駄目だ。  

 俺の制止の声は、彼女の強固な鼓膜を一切透過していない。  

 彼女の脳内では既に「白河奏救済お泊まり作戦」のタイムスケジュールが完成しているらしい。


 いいか一ノ瀬。

 服があるかとか、ご飯が美味しいかとか、そんな次元の話じゃないんだ。  

 これはもっと、社会通念上というか、倫理的というか……とにかく、健全な男子高校生の部屋に、クラスの女子が、それも学校をサボって泊まるなんて、問題がありすぎるんだ。


「ストーーップ! 一旦、一旦手を止めてくれ一ノ瀬!」


「ふぇ? どうしたの?」


 右手に歯ブラシ、左手に手鏡を持ったまま、彼女は不思議そうに首を傾げる。  

 そのキョトンとした表情を見る限り、彼女は本当に、自分の言動がどれほど突拍子もないことなのかを微塵も理解していない様子だ。


「ちょ、ちょっと待てって! 本当に、ガチで泊まるつもりなのか?」


「え? うん。何か駄目な理由ある? あ、白河のお父さんお母さんには、ちゃんと帰ってきたら私から挨拶するよ? 不法侵入してごめんなさいって」


「……問題はそこじゃない。それに、親は仕事でしばらく帰ってこないから、そこは心配しなくていい。いや、じゃなくて!」


 本当の本当に、彼女は本気だった。  

 親に自分から説明しようとする責任感(?)は立派だが、何度も言うように、論点はそこじゃない。


「一ノ瀬。……言いにくいんだけどさ。年頃の男女が、二人きりで、同じ屋根の下で泊まるっていうのは……その、世間的にというか、道徳的にというか、問題があるというか……」


「えっ!」


 俺の必死の訴えに、彼女がハッとした表情を見せる。  

 ようやく気づいたか。

 そう、俺たちは「男女」なんだ。  

 心配してくれたのは、心から感謝している。

 そこまで俺を想って動いてくれたことも、一生忘れない。  

 けれど、越えてはいけない一線というか、現実的な壁というものが存在するんだ。


「……白河、もしかして……えっちな事考えてる?」


 一ノ瀬は上目遣いで俺を見つめ、頬を林檎のように赤く染めながら、すっと顔を逸らした。


「……っ!? ち、ちが、……違うわ! そういう意味じゃない!」


 想定外のカウンターに、俺の心拍数は一気に跳ね上がった。  

 違う、俺はただ健全な良識の話を……!


「なっ……! そ、そんなつもりじゃねぇよ! 違う、断じて違う! 俺が言いたいのは世間体の話だ! それに明日も学校だろ? 着替えはあっても制服はどうするんだよ。他にも、ほら、親御さんに連絡もしてないだろ!? 理由なんて挙げればキリがないんだよ!」


 心拍数が限界を突破し、自分でも何を言っているのか分からなくなるほど早口でまくし立てる。

 誤魔化せ。

 この、熱を帯びた空気を一秒でも早く霧散させるために、俺は必死に正論という名の盾を振り回した。


「セケンテイ……? よく分かんないけど、制服は明日も同じのでいいし、歯ブラシだってちゃんと持ってきたし。……後は、その、白河が……。変なこと、何もしないって約束してくれるなら……」


 彼女は手元の歯ブラシをギュッと握りしめ、視線を泳がせながら、蚊の鳴くような声で言った。  

 ……さっきからその歯ブラシへの信頼度は一体何なんだ。

 護身用か何かなのか?  

 それに、「何もしないって約束」なんて、そんな台詞をこんな距離感で言われたら、意識しない方が無理がある。

 上目遣いで頬を林檎のように赤く染めている一ノ瀬を見て、俺の顔面も沸騰したように熱くなっていくのが分かった。


「……するわけねぇだろ! 俺をなんだと思ってんだ。……っ、分かったよ。お前がそれでいいなら、もう……俺からは何も言わねぇよ」


 半ば自棄やけだった。  

 今の彼女を説得して追い返すエネルギーなんて残っていないし、何より、一人になるのが怖かった俺の心の隙間に、彼女の強引な優しさが心地よく入り込んでしまったのだ。

 俺は、完敗を認めて折れることにした。


「じゃ、じゃあ問題解決だね! あ、っ! そういえば靴、ベランダに脱ぎっぱなしだった! 取ってくるね!」


 流石にこの奇妙な沈黙と熱気に耐えられなくなったのだろう。

 彼女は不自然なほど明るい声を出すと、バタバタと騒がしい音を立てて階段を駆け降りていった。


「……」


 一人残された自室で、俺は力なくベッドの端に腰掛け、手で顔を覆った。    

 一ノ瀬琥珀が、俺の家に泊まる。  

 あの、クラスの誰もが憧れる一軍ギャルが、ゴミ溜めのような俺の部屋にいて、さらに一晩を共に過ごす。  

 これだけを切り取れば、まさにラノベの主人公のような非日常だ。  

 数時間前まで、過去の亡霊に怯えて「死にたい」とさえ思っていた自分の身に、こんな展開が待ち受けているなんて、誰が想像できただろう。


「白河! 鍵閉まっちゃってる! 玄関開けてー!」


 階下から、彼女の突き抜けるような明るい声が響く。  

 俺はまだ現実を受け入れられないまま、重い腰を上げて階段を降り始めた。  

 昨日まで、冷たい鉄格子のように見えていた階段の手すり。

 色を失い、白黒のノイズに塗れていたはずの世界。  

 それが今は、夕陽を反射して、驚くほど綺麗な生成り色に輝いて見えた。


 玄関に辿り着き、内鍵を回す。  

 ガチャリという無機質な音と共に扉が開くと、そこには少し息を切らした彼女が立っていた。


「ありがと、白河」


 右手に靴を持った彼女が、当たり前のような顔をして敷居を跨ぐ。


「えーっと。改めて……お邪魔します。えへへ、本当は最初に言うべきだったよね」


 彼女は琥珀色の髪を少し恥ずかしそうに指で弄りながら、はにかんだ。  

 その瞬間、モデルルームのようだった冷たい廊下に、彼女の体温と、淡い香水の匂いと、そして確かな「生」の気配が、一気に満ち溢れていった。


「靴、ここでいい?」


 手に持ったサンダルを掲げながら尋ねる彼女に、俺はまだ意識が半分浮いたような心地で答える。


「あ、あぁ。適当に……どこでもいい」


「りょーかいっ」


 彼女は迷いなくサンダルを揃えて置き、しなやかな動作で廊下へと踏み出した。

 そのまま立ち尽くして、彼女の挙動をただ見守ることしかできない俺を見て、一ノ瀬は不思議そうに顔を覗き込んでくる。


「白河? どうしたの? ぼーっとして」


「いや、何でもない。……い、いらっしゃい」


 先ほどの「お邪魔します」に対して、ようやくまともな歓迎の返事が口から出た。

 現実感が少しずつ戻ってくるが、それと同時に心拍数がじわじわと上昇していくのを感じる。


「にしても白河の家、すっごく綺麗だね! もしかして毎日しっかり掃除してるの?」


「あ、あぁ。見ての通り家具もほとんどないしな。たまに掃除機をかけるくらいで済むんだよ」


 自分でも、この家は余白が多すぎると思う。

 家族全員、形あるものへの執着が薄いというか、必要最低限の機能があればいいと考える質だ。

 その結果、モデルルームのような、どこか冷たささえ感じる空間が保たれている。


「お父さんとお母さんはいないって言ってたよね。今日もお仕事?」


「ああ。両方とも出張が重なる仕事なんだ。月の半分以上は家を空けてるから、一人でいることの方が多いな」


 父も母も、それぞれの仕事に邁進している。

 家は寝に帰る場所、という割り切りがあるのだろう。

 わざわざ引っ越す手間を省くためにこの家を維持しているが、彼らが揃う食卓の記憶は、最近では数えるほどしかない。


「へー。……てか、さっきから白河、なんか変じゃない?」


「へ、変? な、何がだよ」


「なんか落ち着きがないっていうか。視線は泳いでるし、声も上ずってるし。いつもの冷静な白河じゃないみたい」


 ……当たり前だ。  

 普段、静寂そのものだった俺の城に、突然クラスメイトが「泊まる」と言って侵入してきたんだ。

 しかもその相手が女子。

 こんな状況、人生の攻略本にすら載っていない。

 動揺しない方が、人間としてどこか壊れている。


「い、いつも通りだよ。気のせいだろ」


「そうかなぁ? 私の勘違いならいいんだけどっ」


 追求を逃れるように、俺たちは自然とリビングに向かった。

 一ノ瀬は「ふぅ」と小さく息をついて、馴染んだ様子でソファに腰を下ろす。

 俺は、彼女の隣に座る勇気がどうしても出せず、少し離れた位置の床に、吸い込まれるように正座で座った。


「白河はさ、普段家で何して過ごしてるの?」


「何って……別に。テレビを流し見したり、スマホいじったり、あとはたまにゲームをしたり。そんなもんだよ」


 これといった趣味はない。

 唯一の楽しみだった陸上を失ってからは、ただ時間を浪費するためだけに喫茶店を巡っていた。

 家の中で情熱を注げるものなんて、今の俺には何一つ残っていない。


「てか、なんで床に座ってるの?」


「えっ!」


 真っ直ぐな指摘に、肩が跳ねた。  

 一ノ瀬はソファから身を乗り出すようにして、床に縮こまっている俺を見下ろしている。


「そんなに離れなくても、横に座ればいいじゃん! 白河の家なんだし、リラックスしなよ」


「えーっと。……それは、そうなんだけど」


 店で一緒に勉強している時なら、普通に隣に座っている。

 だが、ここは俺のプライベートな領域だ。

 そこに彼女がいるというあまりにも巨大なイレギュラーに、俺の脳内OSは完全に応答を停止していた。


「ほら、ここ! 空いてるよ」


 一ノ瀬は自分が座っているソファのすぐ隣を、白い手でポンポンと叩く。

 その屈託のない仕草に抗えるはずもなく、俺は観念してソファへと移動した。


「……はい」


 指示された通りに腰を下ろしたが、どうしても意識が隣に持っていかれる。

 彼女の体温が、あるいは微かに漂う甘い香りが、目に見えない圧力となって俺を隅へと追いやっていく。

 結局、できるだけ彼女に触れないよう、背中を丸めてこぢんまりと座るのが精一杯だった。  

 会話の端々に笑い声は混じるが、どこか落ち着かない気まずさが漂う。

 そう感じているのは、やはり俺だけなのだろうか。


「一ノ瀬、テレビでも付けようか?」


 この沈黙の隙間を埋めるため、俺は救いを求めるようにテレビを提案した。

 静まり返った部屋に、自分たち以外の「音」が欲しかったんだ。


「いいよ! 見よう見よう」


 俺はテーブルに置かれたリモコンを手に取り、適当なボタンを押し込む。  

 最近の若者はテレビ離れが進んでいるというし、彼女のようなタイプはネットの動画配信ばかり見ているイメージがあった。

 果たして、彼女の感性に合う番組がやっているだろうか。


「あ、この番組! 私これ好きなんだよね」


 画面に映し出されたのは、賑やかなBGMと共に街の飲食店を紹介する、定番の食レポ番組だった。


「学校がある日は見れないけど、たまに休みの日とかにやってると見ちゃうんだ。お昼過ぎって、ちょうど美味しそうなものが食べたくなる時間でしょ?」


「……意外だな。お前がこういう番組を見るなんて、想像がつかなかった」


 正直な感想だった。

 もっと流行りの音楽番組や、バラエティの切り抜きなんかを見ているものだとばかり思っていたから。


「そうかな? 出てるご飯がすっごく美味しそうだし、『いいなぁ、今度行ってみたいな』って思うの、楽しいじゃん」


 前言撤回。  

 そういう食欲に忠実な視点で楽しんでいるのは、あまりにも一ノ瀬琥珀というキャラクターに一致しすぎていた。


「……一ノ瀬らしいな、それ」


「ちょっと! それ、どうせ『食いしん坊』とか、そういう悪い意味でしょ!」


 頬を膨らませて抗議してくる彼女の様子に、俺は思わず吹き出してしまった。  


「何で笑うの! 絶対バカにしてるじゃん!」


「いや、ごめん……。バカになんてしてないよ」


 気がつけば、先ほどまで俺を支配していたあの息苦しい気まずさは、霧が晴れるように消え去っていた。  

 一人で暗い部屋に閉じこもり、過去の泥を啜っていた時には決して感じられなかった、ありふれた日常の質感。

 この何でもない、贅沢な時間を、俺はどこかで完全に忘れてしまっていたんだ。


「……白河」


「なんだ?」


 ふと、一ノ瀬が声を落とし、俺の目をじっと見つめてきた。

 その瞳の奥にある真剣な光に、俺の背筋がわずかに伸びる。


「一つだけ、聞いてもいいかな」


「何をだ?」


 彼女は少しだけ迷うように視線を泳がせ、慎重に言葉を選んでいるようだった。  

 きっと、俺の過去の核心に触れる質問だろう。

 だが、不思議と拒絶感はなかった。彼女は俺の味方だと、魂のどこかで信じているから。


「怜くんと……九条くんと、何があったの?」


 やはり、そこか。

 学校でのあいつの様子から、彼女なりに何かを察してしまったのだろう。

 俺の家まで駆けつけてきた、大きな要因の一つに違いない。


「……九条には、バレてたんだ。俺の隠していた過去を、あいつは自力で調べ上げていた。それを突きつけられて……俺はあいつから、逃げ出したんだ。……あいつも俺に向き合おうとしてくれていたのに。謝らないとな」


 九条は、決して悪意だけで動くような奴じゃない。

 あいつはあいつなりに、クラスメイトとして、あるいは仲間として、俺に嘘をついて欲しくなかっただけなんだ。

 その真っ直ぐな問いかけから逃げた俺の弱さは、いつか自分自身で清算しなければならない。


「そっか。……でも! 私は怜くんに怒るよ!」


「えっ? ……なんでだよ。悪いのは逃げた俺の方だろ」


 予想外の言葉に、俺は目を丸くした。

 一ノ瀬は、何故か九条に対して明確な怒りを滲ませている。  


「怜くん、きっと白河に嫌な言い方したでしょ! 心に土足で踏み込むようなこと、言ったに決まってるもん!」


「嫌な言い方って……まあ、あいつは効率主義だしな」


 確かに、あいつのやり方は容赦がなかったかもしれない。

 けれど、それは彼なりの「誠実さ」の裏返しでもあったはずだ。


「俺は怒ってないぞ。むしろ感謝してるくらいだ」


「私は許さないからね! 怜くんは頭がいいから、相手が一番痛がるところをわざと選んで喋るんだもん。効率がいいとか何とか言って、白河を傷つけていい理由にはならないよ!」


 彼女にとって「頭がいい」ことが、時として凶器になり得ることを、彼女は野生の勘で理解しているようだった。

 彼女が怒っているのは、俺の過去ではなく、俺の心が傷つけられたというその一点に対してなのだ。


「悪いのは俺だからさ。嘘をついてたのも、逃げ出したのも事実だし。別に一ノ瀬が怒らなくてもいいんだよ」


「ううん。こういうのは、ちゃんと言わないとダメ! 友達だからこそ、間違ってることは間違ってるって言わなきゃいけない時があるんだから」


 一ノ瀬のその決然とした表情を見て、俺は内心で九条に同情した。  

 あいつがどれだけ正論を並べ立てようと、感情のド真ん中を射抜いてくる彼女の猛攻を凌ぎきるのは至難の業だろう。

 せめて、せめて九条に幸あらんことを。

 彼女の説教を上手く受け流し、生存してくれることを祈るばかりだ。


「や、優しくな? お手柔らかに頼むぞ……?」


 せめてものフォローを口にし、俺は九条の身の安全を心の底から願った。


「わぁ! 見て白河! これ、めっちゃ美味しそうだよ!」


 九条への死刑宣告(?)を終えた彼女は、瞬時にテレビ画面へと意識を切り替えた。

 指差した先には、東京で話題のスイーツというテロップと共に、芸術的なまでに高く絞られた「生絞りモンブラン」が映し出されていた。  

 この、ジェットコースターのような話題の転換に、俺は必死についていくのが精一杯だ。


「モンブランか。……確かに、美味そうだな」


 レポーターがフォークを入れると、中から真っ白な生クリームが顔を出す。

 そのふわふわとした質感は、画面越しでも「人気が出るのも頷ける」と思わせる説得力があった。    

 ふと横を見ると、画面の中のモンブランを、まるでお菓子を前にした子供のようなキラキラした目で見つめる彼女がいた。


「いいなぁ。私も食べてみたいなぁ……」


 その呟きを聞いて、俺の脳裏にあるアイデアが浮かんだ。  

 「これを喫茶店で出したら、受けるんじゃないか?」と。  

 本場の人気店のような派手なものは無理でも、スイーツはコーヒーや紅茶との相性が抜群だ。

 今のうちの喫茶店には、ランチタイムを支える「ご飯系」のメニューは充実している。

 オムライス、ナポリタン、厚切りサンドイッチ……。  

 だが、その後の「ティータイム」を支える主役が欠けていた。  


「一ノ瀬、うちの店にスイーツってメニュー、あったっけ?」


「スイーツ? ……ううん、ないよ。トースト系はあるけど、ケーキとかは置いてないかな。どうしたの、急に?」


「だよな」


 不思議そうに首を傾げる彼女に、俺は確信を持って自分の考えを伝えた。


「喫茶店、スイーツを取り入れるべきじゃないか? ご飯系ばかりだと、どうしても『お昼を食べる場所』ってイメージが強くなる。でも、スイーツがあれば、昼下がりでも、夕方前でも、お客さんが足を運びやすくなるだろ」


「……天才じゃん、白河!」


 数秒の間を置いて、彼女は目を見開いた。

 その表情は、まさに「大発見」をした時のそれだった。


「本当だ……! なんで今まで気づかなかったんだろうってくらい、当たり前のことなのに! 白河、それ絶対いいよ!」


「逆に今までなかったのが不思議なレベルだけどな。……まあ、俺たちが気づけたんだから、今からでも遅くないだろ」


「いいじゃん! やろう! メニュー考えようよ! ……やっぱり白河は、私の自慢の『参謀』だよ!」


 興奮気味に顔を近づけて褒めちぎる彼女に、俺は流石に顔が熱くなるのを感じた。    

 さっきまでの暗い部屋が、嘘みたいに明るい熱気に包まれていく。  

 彼女と一緒なら、この止まっていた喫茶店も、俺の人生も、もっと面白い場所へ変えていけるのかもしれない。


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