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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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26/44

二十四杯目:「私、こう見えて結構頑固なんだよ」

「ここが、白河の家?」


 担任から手渡された、少し端の折れたメモ。

 そこに記された住所を頼りに辿り着いたのは、想像を遥かに超える立派な一軒家だった。  けれど、その外観はどこか拒絶の気配を纏っている。

 すべての窓は厚いカーテンで固く閉ざされ、漏れ聞こえる生活音も、隙間から溢れる光もありはしない。

 ただ、門柱に掲げられた「白河」という表札だけが、静かに主の存在を主張していた。  


「……お金持ちじゃん」


 全速力で走ってきたせいで、心臓が耳元でうるさく跳ねている。

 私は一度、深く息を吐き出して呼吸を整えると、震える指先でインターフォンを押し込んだ。


 静寂。  

 家の中からは、返球のような反応は一切返ってこない。  

 音は確かに鳴った。

 機械の故障じゃない。  

 白河は、この静まり返った箱のどこかにいて、外の世界を――私を、遮断している。    

 指先に力を込め、もう一度ボタンを押す。  

 ……やはり、沈黙が返ってくるだけだった。


 私は立ち尽くした。  

 このまま帰った方が、彼のためなんだろうか。

 踏み込まれることを、彼は望んでいないんじゃないか。    


 ――そんなはずがない。  

 そんな道理、私は認めない。

 何より、ここで背を向ける自分を、私は一生許せない。    

 傷ついて、暗闇の底で蹲っている大事な人がいるのに。

 諦めて、明日また学校でなんて、そんなの綺麗事だ。  


「私、こう見えて結構頑固なんだからね」


 自分に言い聞かせるように呟くと、私は躊躇を捨てて敷地内へと足を踏み入れた。  

 手入れの行き届いた広い庭。

 青々と茂る芝生が、私の靴の感触を吸い込んでいく。

 ズカズカと、遠慮なんてどこかに放り出して進んだ。


 目の前には、大きな掃き出し窓。  

 位置からしてリビングだろう。

 私はそのガラスを、拳で強くノックした。


「白河! いるんでしょ! 開けてよ!」


 返事はない。

 けれど、これだけの至近距離だ。

 聞こえていないはずがない。


「もう……!」    


 業を煮やした私は、ポケットからスマホを取り出し、連絡先の一番上にあった彼の名前をタップした。  

 途端、薄いガラス一枚隔てた向こう側から、聞き慣れた着信音が小さく響いてくる。  

 ……リビングに、いる。


「ピンポンもダメ、ノックもダメ、電話も出ない……。こうなったら、もう窓の鍵が開いてるワンチャンに賭けるしかないじゃん」    


 半分は祈るような気持ちで、窓のサッシに手をかけ、横に引く。  

 すると、ガラガラと重厚な音を立てて、驚くほどあっさりと窓が動いた。


「え……? 嘘、鍵閉まってない。不用心すぎるでしょ……何やってるの、白河」


 防犯意識が低いのか、それとも、鍵をかける気力さえ残っていなかったのか。    

 私は靴を脱ぎ捨て、導かれるようにリビングへと足を踏み入れた。  

 外から見た印象通り、中は広かった。

 けれど、それ以上に「空虚」だった。  

 整然と並べられた高価そうな家具。

 広々としたキッチン。  

 けれど、そこには「生活」の匂いがない。  

 電気が消え、月明かりさえ遮断された室内は、まるで見学者を待つだけのモデルルームのように、冷たく、白々しく、そしてどこまでも綺麗だった。


「白河? どこ?」


 静まり返った豪邸に、私の声だけが虚しく吸い込まれていく。  

 一階のリビングには、彼の気配は微塵もなかった。

 あるのは生活感を削ぎ落とした、あまりに綺麗な空虚だけ。

 私は意を決して、廊下へと繋がる扉を押し開けた。


 電気のついていない廊下は、まるで完成したばかりのモデルハウスのようで、不気味なほどに整っている。  

 一歩、階段を登るたびに、足音が静寂を乱す。

 二階には二つの扉があった。  

 一方は無機質に閉ざされ、もう一方には――「奏」と記された、古ぼけた木の看板が。


「ここだ」


 その扉の向こうに、彼が、白河奏が閉じこもっている。  

 確信した途端、心臓が肋骨を激しく叩き始めた。

 深呼吸をして、荒れる鼓動を沈める。  


 絶望の底で膝を抱える人に、どんな言葉を投げればいいのか、答えなんて出ていない。

 でも、ここまで来て引く選択肢なんて、私の辞書にはなかった。


「……白河。入るよ?」


 返事を待たずに扉を開ける。  

 視界に飛び込んできたのは、一階とは対照的な「惨状」だった。  

 足の踏み場もないほどに散乱したゴミの山。

 食べ残しの弁当、空のペットボトル。

 それは、彼が自分の心を守るために築き上げた、醜くも切実な防壁のように見えた。


「……白河」


 ベッドの上、布団に丸まって背を向けている塊に向かって、絞り出すように声をかける。


「……」


「……白河。私ね、すごく嬉しかったんだ」


 無反応な背中に、私は一つずつ、大切に言葉を置いていく。


「初めて喫茶店に白河が来た時のこと、覚えてる? 私、自分のお店にクラスメイトが来るなんて思わなかったから、怒っちゃったでしょ」


 あの時、あなたの真っ直ぐすぎる指摘に、私はどれほど動揺しただろう。


「白河にまずいって言われてさ。実はあのコーヒー、初めて自分なりにうまく淹れられた自信作だったんだよね。だから悔しくて、『やってみなさいよ!』なんて、八つ当たりしちゃって」


 でも、あの瞬間に差し出された一杯が、私の停滞していた時間を動かしたんだ。


「いざ飲んだら、驚くほど美味しくて。苦いのに、なんだかすごく優しくて。……『やり方教えて』って頼んだら、嫌な顔一つせず教えてくれたよね。私、それが、本当に、本当に嬉しかったの」


 一人で暗闇を彷徨っていた私に、白河は光をくれた。

 右も左もわからなかった私に、並んで歩く術を教えてくれた。


「あの日から、喫茶店が最高に楽しくなったんだ。毎日がキラキラして、失敗しても、また明日頑張ろうって思えた。白河が、私を変えてくれたんだよ」


 だから。


「……白河。白河はどうだった?」


 布団の塊が、かすかに震えたような気がした。


「白河の気持ちが知りたいの。……嫌だった? それとも、少しは私と同じように、楽しいって思ってくれてた?」


「……ぁ」


 小さな、掠れた声がこぼれる。


「うるさいなぁ! 一ノ瀬さんは関係ないだろ! もういいからほっといてくれよ! そんなのどうでもいい! 喫茶店がどうとか、コーヒーがどうとか、楽しいからなんなんだよ! そんなの……そんなのどうだっていいんだ! ……もういいんだ。頼むから、ほっといてくれ」


 布団の中から放たれた言葉は、棘だらけで、けれど今にも崩れそうなほど脆かった。   

 白河は、私を拒絶することで、自分を必死に繋ぎ止めている。  

 何が、彼をここまで追い詰めたんだろう。

 何が、あの優しいコーヒーを淹れる少年の心を、こんなにもズタズタに引き裂いたの?


「……」


 沈黙が降り積もる。

 私の不器用な言葉は、彼に届くどころか、傷口を広げただけだったのかもしれない。


「……白河。私さ、バカだしアホだし、コーヒーすらまともに淹れられない不器用だけど、だから、直接言うね」


 私は、彼がいつか教えてくれたように、丁寧に、真っ直ぐに自分を整える。  

 ゴミの散らかった絨毯の上に、背筋を伸ばして正座した。


「私、白河の過去には興味ないよ。だって私にとっての白河は、喫茶店で一緒に笑って、厳しいけど優しく教えてくれる、今の白河なんだもん。過去に何があったとしても、今の白河が私を助けてくれた事実は変わらない。……だから、教えてくれない? 白河が、何をそんなに怖がっているのか」


「……っ!」


 布団が大きく動く。


「怜くんと何かあったんでしょ? 事情は知らない。でも、あんなに怒る蓮くんを見て、居ても立っても居られなくなったの。今の白河を、一人にしておけないって思ったから」


「……じゃあ俺の前から消えてくれ。消えてくれよ!」


 再び叫びが響く。


「ううん。離れないよ。白河も知ってるでしょ? 私、こう見えて結構頑固なんだよ」


「ッ! 頑固とかの問題じゃない! 頼むから帰ってくれ……っ、帰ってくれよ!」


 耐えきれなくなったのか、白河が勢いよく布団を跳ね除けた。  

 乱れた髪、赤く充血した目。

 彼は鬼気迫る表情で私を睨みつける。  


「……ふっ」


 私は思わず、笑みをこぼしてしまった。


「何が面白い? やっぱり、俺を馬鹿にしに来たんだろ! いいから早く帰れよ!」


「だって、初めてちゃんと白河が、目を真っ直ぐ私に向けてくれたんだもん。……嬉しくて、つい笑っちゃった」


 私は、逃げ出したい衝動を堪えて、彼の瞳を真正面から見つめ返した。

 


―――――――――――――――――――――――――



「知ってどうなるっていうんだよ! 一ノ瀬さんに話したところで、何かが変わるわけじゃない! 意味なんかないんだよ……!」


 俺の声は、自分でも驚くほど尖っていた。  

 必死に築いてきた防壁が、彼女の無垢な踏み込みによって音を立てて崩れていく。

 その恐怖を塗りつぶすように、荒い言葉を投げつけるしかなかった。

 けれど、彼女は怯むどころか、さらに深く俺の懐に潜り込んでくる。


「……意味なんて、なくてもいいよ。私はただ、白河のことを知りたい。……それだけじゃ、ダメかな?」


「ッ!」


 その言葉が、心臓の奥深くに突き刺さった。  

 彼女はただ、純粋に、打算も憐れみもなく、俺という人間を知りたいと言っている。   

 そんな単純で、残酷な理由で、俺が封印し続けてきたあの日の地獄を引きずり出そうとしている。


 怖い。  

 すべてを打ち明けた後、彼女のその綺麗な瞳にどんな色が浮かぶのか。  

 怖い。  

 「幻滅した」と、あの時と同じように背を向けられるのが。  

 怖い。  

 信じた温もりが一瞬で氷のように冷え、また一人ぼっちの暗闇に放り出されるのが。


「私ね、白河のこと、全然知らないなって気づいたの。あんなに毎日一緒にコーヒーを淹れて、たくさん話したつもりでいたのに、本当の白河を何一つ知らない。知らないことにも気づかずに、『白河は白河だから大丈夫だ』って、勝手に決めつけて甘えてた。……ごめんね、白河」


 ――なぜ。  

 なぜ、彼女が謝るんだ。  

 彼女は何も悪くない。

 ただ真っ直ぐに、俺という「偽物」と向き合ってくれていただけだ。  

 隠していたのは俺だ。

 騙していたのは俺だ。

 自分の弱さを隠すために、不器用な壁を作って、誰も入れないように鍵をかけ続けていたのは俺なのに。  


「なんで、一ノ瀬さんが謝るんだよ……。お前は……お前は何も悪くないだろ」


「……クラスメイトだし。それに、何より私は君の『店長』だからね」


 少しだけ意味が分からない理屈を並べて、彼女はふわりと微笑んだ。  

 その笑顔は、喫茶店で失敗した俺を慰め、新しい淹れ方を覚えた時に一緒に喜んでくれた、あの太陽のような優しさに満ちていた。


「……店長って……なんだよそれ。変だろ、普通」


「えっ! 変? 私、変なこと言った!?」


 慌てて自分の頬に手を当てる彼女を見て、胸の奥に溜まっていた重苦しい澱みが、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。  

 いつも通りの、少し抜けていて、けれど圧倒的にポジティブな彼女。

 その存在自体が、今の俺にとっては毒にも薬にもなるけれど、確実に心を救っていた。


「……あんまりいないだろ。同じクラスの奴に、大真面目に『店長』なんて呼ばれてる女子高生」


「あはは、確かにそうかも?」


 自分がどれだけ突拍子もないことを言っているかに、ようやく気づいたらしい彼女がケラケラと笑う。  

 不思議だ。

 彼女と話していると、あんなに支配的だった絶望が、少しずつ形を失っていく。

 耳の奥で鳴り止まなかった不吉な銃声も、繰り返される孤独な放課後の記憶も、今は彼女の笑い声に掻き消されていた。


「でも、そんなことはどうでもいいの! 今は白河のこと、教えて?」


 絨毯の上で正座していた彼女は、両手をついて体を浮かせると、正座の形のままズリズリと、物理的に俺との距離を詰めてきた。

 近い。

 彼女の体温が、ゴミの散らかったこの冷たい部屋にまで伝わってくるようだ。


「……でも、やっぱり怖いんだ。一ノ瀬さんに言うのは」


「怖くないよ。白河が過去に何を失って、どんな道を通ってきたとしても、私は何も思わない。さっきも言ったでしょ? 私にとっての白河は、私を助けてくれた今の白河なんだから」


 嘘偽りのない、透き通った琥珀色の瞳が俺を真っ向から見つめる。  

 その眼差しの強さが、淀んでいた俺の背中を、静かに、けれど力強く押し上げてくれた。


「……中学生の頃、陸上をやってたんだ」


 絞り出すように漏れた言葉に、彼女は目を丸くして驚きの声を上げた。


「陸上!? すごい、そんなの初耳だよ! 全然聞いたことなかった!」


「……誰にも言ってなかったからね。ひた隠しにしてきたんだ」


 過去を断ち切るために、中学時代の知り合いが一人もいないこの学校を選び、実績も経験もすべて心の奥底に封じ込めた。

 菊池にさえ、一度も話したことはない。

 彼女が知らないのは、俺がそう仕向けた結果だった。


「その陸上で……取り返しのつかない『やらかし』をしたんだ」


「……やらかした?」


 彼女は不思議そうに首を傾げ、記憶の糸を辿るように明後日の方向を見つめる。

 俺はその純粋な眼差しが痛くて、視線を落としながら、重い口を開いた。


「最後の、一番大事な大会でフライングしたんだ。それも、チームで挑むリレーで」


「……」


「陸上のルールは残酷なんだよ。一回でもフライングすれば即退場。情け容赦なく、その場で反則負けが決まる」


 あの日、スタジアムに響いた二度目の銃声。

 背中に突き刺さる沈黙。

 足元に置かれた赤いカード。

 それらが鮮明に脳裏をよぎる。


「俺、その部のキャプテンだったんだ。みんな、俺の厳しい練習についてきてくれた。何度も、何度も、吐くほど走って、泥にまみれて……。文字通り死ぬ気で、その日のためにすべてを懸けてきた仲間たちだったんだ」


「……」


「なのに、その本番で俺が反則負け。笑えるだろ? 偉そうな口を叩いて、仲間に無理をさせておいて、いざ本番ではみんなに走る機会すら与えなかった。俺が、あいつらの三年間を全部台無しにしたんだ」


「……」



「それからは、地獄だったよ。学校中に噂が広まって、昨日まで周りにいた奴らは潮が引くみたいに消えて、俺は独りぼっちになった。話しかけても無視され、すれ違えばコソコソと笑われる。……居場所なんて、どこにもなかった」


「……」


「だから、誰も俺を知らない今の学校に逃げたんだ。これが、俺の隠してきた汚い過去だよ。……なあ、俺って最低な人間だろ? 仲間に迷惑をかけて、責任も取らずに逃げ出した、どうしようもないクズなんだ」


 一気に捲し立てるように話し終えると、急激に自分が恥ずかしくなった。  

 理想だけは高くて、いざという時に他人の努力をぶち壊し、立場が悪くなれば尻尾を巻いて逃げる。

 そんな空っぽな人間が、今の俺だ。


「……なにそれ。最低じゃん」


 一ノ瀬さんの口から漏れた言葉に、心臓が凍りついた。  

 分かっていたはずだ。

 こんな話をすれば、こういう反応をされる。  

 なのに、どこかで自惚れていた。

 彼女なら、一ノ瀬琥珀なら、そんな俺でも味方をしてくれるんじゃないかと。

 彼女なら許してくれるんじゃないかと、淡い期待を抱いていた。


「……あぁ。そうだよな。最低なんだ、俺は」


 自嘲気味に笑い、再び殻に閉じこもろうとしたその時。


「違うよ! 最低なのは白河じゃない! その周りの人たちだよ!」


 彼女は正座を崩し、弾かれたように勢いよく立ち上がった。

 その肩は怒りに震え、瞳には激しい感情が宿っている。


「誰だって失敗することくらいあるじゃん! キャプテンだとかそんなの関係ないよ! 人間なんだもん、失敗する時はするんだよ! なのに、それを噂にして、みんなで無視して、陰口叩いて……! そっちの方がよっぽど最低だよ!」


 返ってきたのは、俺が何年も自分に浴びせ続けてきた言葉とは、真逆の答えだった。  


「……え?」


「私だって何度も失敗して迷惑かけてる! でも、そのたびにみんなは助けてくれるし、白河だって、私に何度も何度も根気強く教えてくれた! 普通は、助け合うのが仲間でしょ!? おかしいのは白河じゃない。白河を一人にした、その周りの奴らだよ!」


「でも……俺はみんなにきつい言い方をして、追い込んでたんだ。だから自業自得で……」



「それは、みんなで勝つためだったんでしょ!? 真剣だったからこそ、厳しくなっただけでしょ! 私だって、もし白河の立場だったら同じことするよ! 必死に頑張った結果の失敗を責めるなんて、絶対におかしいよ!」


 彼女の怒りは、俺を責めるためではなく、俺を縛り付けていた過去の呪いを断ち切るために向けられていた。

 その熱量に、俺はただ圧倒されるしかなかった。


「でも……」


 食い下がろうとする俺の言葉を、彼女は強引に、けれどこの上なく温かい響きで遮った。


「でもとかじゃない! そんな過去、全部忘れちゃえばいいんだよ! そんな酷いことをする人たちのことなんて、記憶の隅っこに置いておく価値もない! 白河はね、不器用かもしれないけど本当はすごく優しくて、誰よりも真面目で、一生懸命で……。何より、私をここまで導いてくれた、最高に偉い人なんだよ! 私が毎日そばで見てたんだから、私が一番知ってるんだから!」


「……っ」


 視界が、急激に熱を帯びて歪み始める。  

 あの日、真っ赤なカードを突きつけられてから、ずっと心の奥底に閉じ込めていた冷たい塊が、彼女の言葉という熱に触れて、ボロボロと崩れ落ちていく。    


 こんな、取り返しのつかない過ちを犯した俺でも、支えてくれる人がいる。  

 「偽物」の俺ではなく、隠していた過去ごと、今の俺を認めようとしてくれる人がいる。  

 すべてを打ち明けて、醜い自分をさらけ出した後でも、変わらずに隣にいてくれる人が、目の前にいる。    


 それだけで。  

 たったそれだけのことが、どれほど救いになるのか。

 どれほど俺を現世に繋ぎ止めてくれるのか。


「……」


 声にならない嗚咽が漏れそうになり、俺は必死に顔を伏せた。

 けれど、止めどなく溢れ出す涙が、絨毯の上にポツポツと深い色のシミを作っていく。


「……白河、泣いてる?」


「……う、あ……」


「白河は、もう一人じゃないよ。私がいる。それに、いつもはっちゃけてる蓮くんだって、本当は白河を心配してる怜くんだって……山波くんも菊池くんだって、みんな白河のことが大好きなんだよ。だから、大丈夫。もう、大丈夫だから」



 しゃがみ込んだ俺の視界に、彼女の華奢な手が映った。  

 そして、震える俺の頭を、壊れ物を扱うような手つきで、けれど確かな力強さを持って優しく撫でてくれた。    

 彼女の手の温もりが、冷え切っていた俺の芯まで溶かしていく。  

 あの日、スタジアムで止まったままだった俺の時計が、ようやく、静かに秒針を刻み始めた気がした。


I love Ichinose kohaku

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