二十三杯目:白河奏の過去②
陸上という競技において、反則とは何よりも重く、そして絶対的な死を意味する。
スタートの銃声よりわずかコンマ数秒、生命の躍動が先走っただけで、積み上げた歳月は 一瞬にして灰に帰す。
フライング――それは、正真正銘の一発レッドカード。
一回のミス、呼吸一つの乱れすら許されない。
それほどまでに、このトラックの上では、時間は無慈悲で重いものだった。
俺は、目の前で起きている現実が信じられなかった。
脳が理解を拒み、視界が歪む。
認められるはずがなかった。
だって。
だって、あんなに血を吐くような思いをして。
「な、何かの間違いだと思います! 機械の故障とか……もう一度、もう一度だけでいいので確認をお願いします!」
俺は、泥濘に沈みゆく者が藁にもすがるような、惨めな思いで審判に詰め寄った。
しかし、俺の剥き出しの懇願とは裏腹に、審判は鉄のような表情を変えず、ただ無機質に首を横に振り続ける。
その瞳には、一人の少年の絶望など映ってさえいなかった。
「判定は確定している。フライングにより、あなたのチームは失格、敗退となります」
「そ、そんなはずありません! 俺はちゃんと……お願いします! みんなの三年間がかかってるんです!」
「直ちにコースから退場してください。競技の妨げになります」
何度喉を枯らして訴えても、何度神に縋るように願っても、冷徹な結果が揺らぐことはない。
俺がどれだけ人生を削り、俺たちがどれだけ夜明け前から泥に塗れて練習しても、たった一度の指先の震えで、すべては無に帰る。
俺は、突き刺さるような静寂の中、仲間のいる待機場所の方へと視線を巡らせた。
心のどこか……その最奥では、彼らが俺を慰めてくれると、甘い期待を抱いていたんだ。
「ドンマイ」、「気にするなよ」、「お前のせいじゃない」。
そんな、形ばかりの優しいセリフが欲しかった。
だって、俺たちは今日まで、同じ目標を掲げて苦楽を共にしてきたはずだから。
吐き気のするような夏を乗り越え、誰にも言えない弱音を飲み込んで、泣きそうな思いを何度も分かち合ってきた仲間なんだから。
だが、現実は残酷だった。
彼らは、誰一人として俺と目を合わせてくれなかった。
俺が救いを求めて視線を送ると、彼らは一斉に石像のように下を向き、沈黙という名の拒絶で、俺という存在をこの場から抹消した。
視線の冷たさが、真夏の太陽よりも痛い。
悲しかった。
今まで一緒に、背中を追いかけて頑張ってきたのに。
辛かった。
暗くなるまで、あんなに一緒にバトンを繋いだのに。
でも何よりも、自分自身が――悔しくて、堪らなかった。
俺の、この一瞬の身勝手な躍動のせいで、みんなの三年間の努力をゴミ箱に捨てた。
俺の独善のせいで、あいつらが捧げてきた尊い時間を、永遠に無駄にした。
俺の、俺という人間のせいで、仲間たちのたった一度きりの中学生活を、最悪な形で終わらせた。
全部、俺のせいだ。
「速やかに退場をお願いいたします。聞こえていますか?」
「……あ、……はい」
「他の選手の迷惑です。早く退場してください」
「……っ、すみませんでした」
俺は、生まれたての小鹿のようにガクガクと震える足を必死に押さえつけながら、地獄へと続くかのような花道を、ただ一人這うようにして後にした。
背後で、乾いた銃声が鳴り響いた。
それは本来、俺たちにとって歓喜の幕開けを告げる福音のはずだった。
だが、今の俺に突き刺さったのは、二度、三度と執拗に繰り返される警告の音。
やり直しのきかない、残酷なまでの「死」の宣告。
ピストルの煙が夏の青空に溶けていくのと同時に、俺の視界からは一切の色が失われていく。
走り出したはずの足は、泥沼に踏み込んだかのように重く、前に進むことを拒絶された。
背後で鳴ったその音は、俺の三年間を、仲間との絆を、そして「白河奏」という少年の誇りを、跡形もなく撃ち抜いたのだ。
振り向く勇気さえない。
ただ、熱せられたトラックの匂いと、背中を刺すような沈黙だけが、鼓膜の奥でいつまでも鳴り止まなかった。
その後の俺の有様は、見るも無惨なものだった。
唯一残された個人戦に出場したものの、意識の底にはリレー失格の重い澱みがこびりつき、足は鉛のように重い。
加速するたびに、背後で鳴り響いたあの忌まわしい二度目の銃声がフラッシュバックする。
結果は、可もなく不可もない中位。
死ぬ気で積み上げた三年間。
その集大成が、この誰の記憶にも残らない凡庸な記録。
それが今の俺に相応しい現実なのだと、突きつけられた気がした。
対照的に、目覚ましい輝きを放ったのは春だった。
彼はリレーの悲劇を引きずることなく、むしろその鬱憤をぶつけるような激走を見せ、個人戦で鮮烈な好成績を叩き出した。
だが、俺はそれを素直に、キャプテンとして賞賛することができなかった。
喜ぶ資格など、あの赤いカードを突きつけられた瞬間に、どこかへ捨ててきてしまった。
それでも、役割としての形骸化した言葉だけを、無理やり喉から絞り出す。
「春。……よかったな。いい走りだった」
「……うっす。お疲れ様です」
春の返答は短く、その瞳には触れてはいけない腫れ物に触れるような、痛々しい困惑が混じっていた。
彼は俺と視線を合わせることなく、軽く会釈だけを残すと、逃げるように観客席の階段を降りて行った。
――そうだよな。
誰が、チームの夢をフライングという最悪の形で終わらせたキャプテンに、親しげに近づこうと思うだろうか。
逆の立場なら、俺だって嫌だ。
声をかける勇気も、許す度量も、当時の俺には到底持ち合わせていなかっただろう。
だから、理解していた。
彼らが俺を「いない者」として扱うことも、その沈黙に込められた怒りも。
むしろ、責められないことの方が、俺にとっては最大の罰であり、微かな救いでもあった。
すべての日程が終了し、スタジアムには祭りの後のような虚無感が漂い始める。
俺たちは、黙々と帰る準備を始めた。
履き古したスパイクの裏に詰まった石や土を、金属ブラシで一本一本払い落とす。
あんなに愛着のあった道具たちが、今はひどく疎ましい。
汗の染み込んだユニフォームを丁寧に、けれど感情を殺して畳み、カバンの奥へと押し込む。
この片付けの所作も、今日で最後。
本当なら、互いの健闘を称え合い、笑いながら、あるいは悔し涙を流しながら片付けるべき時間。
だが、俺にそんな権利はない。
底なしの申し訳なさと、取り返しのつかない無力感に心臓を握りつぶされそうになりながら、ただ指先を動かし続ける。
「にしても、リレー、マジで酷かったよな」
「ありゃねーわ。他のメンバーが、可哀想すぎて見てられなかったぜ」
アップの際、余裕綽々で漫画の話をしていた他校の奴らの声が聞こえてきた。
笑えるよ。
あの時、心の中で軽蔑し、見下していたのは俺の方だった。
なのに、実際の結果はどうだ?
慢心した奴らにさえ鼻で笑われる、フライングという名の反則負け。
土俵に上がることすら許されず、尻尾を巻いて場を去る。
どん底という言葉さえ生ぬるい、終わりの中の終わりだ。
夕闇が迫る競技場で、ただ呼吸をしていることさえ、恥ずかしくて、消えてしまいたかった。
チームメイトたちに対して、顔を上げることすらできなかった。
視線を上げれば、そこに彼らが積み上げてきた三年間を台無しにした事実が突きつけられる。
普段ならば、敗北に沈む仲間の肩を叩き、前向きな言葉をかけるのがキャプテンとしての、俺の矜持だった。
だが、今の俺にはその資格も、厚顔無恥に振る舞う強さも残されていなかった。
「……白河。最後だ、主将としての挨拶を頼む」
顧問の先生から促された瞬間、思考の回路が完全に遮断された。
真っ白に塗りつぶされた脳内には、絞り出すべき言葉の欠片も浮かんでこない。
ただ、冷え切った血が全身を巡る感覚と、震える指先の冷たさだけが、現実を繋ぎ止めていた。
「……えっと、お疲れ様でした。……その、皆さんと、この三年間一緒に部活をできて……本当に、すごく楽しかったです。……ありがとうございました」
口から出たのは、どこかで聞いたような、あまりに空虚でありきたりなセリフ。
誰が、こんな無価値な謝辞を待ち望んでいるというのか。
自分でも吐き気がするほど中身のない言葉が、湿った空気の中に霧散していく。
頭を下げている間、突き刺さる全員の視線が、無言の糾弾となって俺の背中を焼き焦がしていた。
「よし! 今年で三年生の代は終わりだ。ここからは二年生がこの部を引っ張っていく番だぞ。残された一、二年生は今日の悔しさを忘れず、気を引き締め直して明日から練習に励むこと。わかったな!」
俺のあまりの痛々しさに見かねたのだろう、顧問が遮るように声を張り上げ、部員たちを鼓舞した。
平時なら頼もしく感じたであろうその優しささえも、今は鋭利な刃物となって、俺の無力な心臓を幾度も抉ってくる。
これ以上、俺に視線を向けないでくれ。
同情も、怒りも、失望も、今はすべてが耐えがたい。
蔑むような眼差しに晒され、逃げ場のない後悔に窒息しそうになりながら、俺の三年間を懸けた最後の大会は、無残にもこうして幕を下ろした。
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学校へ向かう足取りは、鉛を詰め込んだかのように重く、心臓は肋骨を突き破らんばかりに警鐘を鳴らしていた。
教室の扉を開けるのが怖い。
部員たちの顔を見るのが、たまらなく怖い。
けれど、弱気な理由で逃げ出すことは、俺のプライドが許さなかった。
しかし、いざ足を踏み入れた校舎で俺を待ち受けていたのは、想定しうる最悪のシナリオを遥かに凌駕する、底冷えのするような光景だった。
噂という名の怪物は、実体を持たないまま肥大化し、閉鎖的な校舎を瞬く間に飲み込んでいく。
人から人へ、無責任に、尾ひれを付けて伝播していくその速度は、恐怖を覚えるほどに速い。
時に無情に、時に残酷に。
学校という組織も、その例外ではない。
昨日、あのスタジアムで起きた悲劇は、まるで致死性のウイルスのように全生徒へと伝染していた。
楽しかった出来事や、輝かしい栄光ならまだいい。
だが、悪意を孕んだ噂ほど、人々の好奇心を刺激し、より深く、より醜く根を張るものはなかった。
校門をくぐった瞬間から、俺は針の筵の上に立たされている感覚に陥った。
校門で、昇降口で、階段で、廊下で、そして教室で。
すれ違う者すべてが、まるで奇妙な化け物を見るような目で俺を射抜き、すれ違いざまに口元を隠してヒソヒソと毒を吐き出す。
耳を澄まさずとも、その内容の輪郭は容易に想像がついた。
失笑、侮蔑、そして憐憫。
だが、真に最悪だったのは、赤の他人たちの反応ではない。
昨日まで、肩を並べて笑い合っていたはずの「親友」たちの豹変だった。
自慢でも何でもなく、俺はこの学校における「カースト」の頂点に君臨する人間の一人だった。
陸上部のキャプテン。
誰もが羨む俊足。その揺るぎない肩書きは、磁石のように人を惹きつけ、俺の周りには常に賑やかな輪ができていた。
だが、そんな虚飾に満ちた権威は、あの赤いカード一枚で、風に舞う塵へと化したのだ。
差し伸べられる手も、掛けられる言葉もない。
昨日まで俺の影に群がっていた連中は、今や俺という沈みゆく泥舟から、一斉に逃げ出していた。
「一人」でいることが、これほどまでに心細いものだとは知らなかった。
喧騒の消えた休み時間、味がしなくなった昼食の時間、そして針の筵のような空気が充満する教室。
呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうなほど、何もかもが初めての、そして最悪の経験だった。
怖い。
頼れる背中などどこにもなく、死角から飛んでくる無言の視線に、常に背筋を凍らせる。
怖い。
色を失ったこの景色が、残りの中学生活すべてを塗り潰していくのだろうか。
そんな底なしの絶望が、足元からじりじりと這い上がってくる。
俺は、永遠に続くような暗闇に飲み込まれる未来を拒絶するため、喉元までせり上がる恐怖を押し殺して勇気を振り絞った。
かつての自分の居場所、その輪の中に手を伸ばしたんだ。
「よぉ! 今日から引退して部活ないんだよ。……よかったら、一緒に帰らねぇか?」
声をかけた。
震えないように、いつもの俺であるように。
だが。
「……でさー、今日の放課後どうする? 駅前のカラオケでも行く?」
返ってきたのは、言葉ではなく、徹底的な「不在」だった。
目の前にいるはずの俺を、まるで最初から存在しない透明人間であるかのように扱い、彼らは笑いながら会話を継続した。
正直、言葉を失った。
ここまで露骨に、ナイフで切り取られるように無視されるとは思っていなかった。
罵倒でもいい、怒りでもいい、何か反応が返ってくると微かな光を期待していた。 ……縋るように、願っていたんだ。
だが、そんな淡い祈りは虚空へと霧散し、無に帰して消える。
行き場を失った感情が、心の奥底に重く、湿った泥の塊のように堆積していく。
肺が圧迫され、息を吸うことさえ苦しい。
胃の奥から込み上げる不快感に、意識が遠のきそうになる。
吐き気がするほど、この世界は冷酷だった。
たった一つの、コンマ数秒の過ち。
その小さなきっかけが、俺のすべてを強奪していった。
積み上げた過去の栄光も、誇り高く築いた地位も、拍手喝采を浴びた才能も、そして信じていた友人という名の絆さえも。
――この日からだ。
この日から俺は、他人に本当の自分を見せることを、魂のレベルで拒絶するようになった。
否、それ以上に、自分自身に対して幾重にも塗り固めた「嘘」を吐き始めたんだ。 誰に対しても、不可視の、けれど冷徹な壁を構築する。
決して誰も、心の聖域へと踏み込ませないように。
もう二度と、あんな心臓を握り潰されるような思いはしたくない。
もう二度と、取り返しのつかない失敗に絶望したくない。
そして何より――もう二度と、誰かを信じて、その手を失いたくはなかったから。
だけど。
あいつには。
の一ノ瀬琥珀という、眩しすぎるほどに純粋な光にだけは、何故か、偽りのない自分をさらけ出しそうになっていた。
……いや、今さらそんな感傷に浸ったところで、何の意味もない。
過去を捨て、関わりのない人々、知らない場所、新しい環境を求めて星城海原へと逃げ延びてきた。
それでも結局、俺の人生は同じ破滅の轍を辿る。
俺という人間は、最初から「普通」の幸せを享受できない運命なのだろう。
今頃、あの教室でも俺の醜い正体が、好奇心の餌食になって話題に上っているはずだ。 もう、無理だ。
これ以上、自分を騙して生きていく力なんて、どこにも残っていない。
更新が遅くなりすみません




