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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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二十一杯目:白河奏の場合③

「わかってるんだ。俺が全部悪い」


 重く湿った沈黙が支配する暗闇の中、ベッドの上で丸まった毛布の塊から、かすれた独り言がこぼれ落ちる。

 それは言葉というよりも、喉の奥で凝固した未練が、行き場を失って漏れ出した吐瀉物のような響きだった。  

 電気の消えた室内には、閉め切った遮光カーテンの僅かな隙間から、ナイフの刃先のように鋭く冷酷な午後の光がひと筋差し込んでいる。

 その光は、空中に舞う埃の粒を無慈悲に照らし出し、この部屋の停滞した時間を残酷なまでに可視化させていた。  

 今の俺には、この刺すような静寂と、肺を圧迫するような閉塞感だけが、唯一許された居場所だった。


「悪いのは、全部、俺なんだ」


 掃除の行き届かない部屋には、ラベルの剥がれかけた飲みかけのペットボトルや、油の浮いた食べ終えたカップ麺の容器が、俺の自堕落さと精神の摩耗を象徴するように散乱している。  

 つけっぱなしのテレビからは、抑揚のないアナウンサーの声が、どこか遠い異世界の出来事のように午後のニュースを垂れ流し、閉ざされた窓の向こうからは、下校中だろうか、子供たちの無邪気で、それゆえに凶器に近い笑い声が春の風に乗って聞こえてくる。  

 そのすべてが、今の俺には耐えがたいノイズだった。  

 鼓膜を震わせる振動の一つ一つが、胸の奥底に溜まった汚泥を掻き乱し、内側から肉を削り取っていく。


「黙れ……黙れよ、黙れ」


 外の世界との繋がりを断絶するように、頭の中で自分自身の呪詛が幾重にも反響し、こだまする。


『可哀想に。全部、自分で招いた結果なのに』


 うるさい。  

 わかってる。

 そんなことは、骨の髄まで、嫌というほど分かっているんだ。  

 うるさい。

 うるさい。

 うるさい。  

 頭を抱え込む指先に力が入り、爪が頭皮を食い破らんばかりにめり込む。

 脳内を埋め尽くす「うるさい」の連呼は、もはや思考ではなく、止めることのできない痙攣に近い。


 九条の言う通りだ。  

 あの神殿の彫像のように冷ややかな男は、俺が必死に厚化粧を施してきた醜い中身を、そのすべてを見透かしていた。  

 俺が、保身のために吐き続けてきた卑怯な嘘。  

 その嘘の裏側に、膿のように溜まり続けた泥濘ぬかるみの真実を、俺自身は誰よりも理解している。  

 俺が全部、この身をもって経験し、この手で汚してきたことなんだ。  

 俺が、全部……。


「誰か……」


 喉の奥から、肺に残ったわずかな酸素を絞り出すような、震える声が漏れる。  

 誰か。  

 誰でもいい。  

 この救いようのない、価値も、未来も、形さえも失ったどうしようもない俺を。  

 誰か。  

 誰か、ここから引きずり出してくれ。


『でも、知られちゃったね。あの、全知全能を気取った完璧な九条怜に』


 脳内にこびりついたもう一人の自分が、勝ち誇ったように嘲笑いながら、俺の狂った鼓動を刻む。  

 あぁ、そうだ。

 だから、すべては終わったんだ。  

 わざわざ一時間半もの通学時間をかけて、知らない街の知らない学校を選び、物理的に過去を切り離して、彩りを捨て、呼吸の音さえ潜めて。  

 そうして爪を血に染めながら積み上げてきた「白河奏」という砂の城は、九条が放った氷のように冷たい一言であっけなく、脆く崩れ去った。    

 もう、あの陽光の差し込む教室には戻れない。  

 もう、何事もなかったような無垢な顔をして、あいつらと笑い合う資格なんてどこにもない。  

 引き返せない。

 戻るための橋は、もう俺自身が焼き捨ててしまった。


 このまま、光の届かない泥のような暗闇の底で一人。  

 誰にも触れられず、誰にも期待されず、ただ静かに、腐敗するように消えていく。  

 それが、自分自身を欺き続けた俺に、最も相応しい、一番お似合いの結末だ。    

 そう自分に言い聞かせて、俺は、絶望の重みに耐えるように固く、固く目を閉じた。



―――――――――――――――――――――――――



「花ちゃん!」


 静寂が美徳とされる職員室の重厚な空気を切り裂き、勢いよく開いた扉が壁にぶつかって高い音を立てた。

 その場にいたすべての教師たちが、まるでスローモーションのように一斉にこちらを振り返る。

 驚愕、不快、困惑――。

 向けられた無数の視線のつぶてなど、今の私には羽虫の羽音よりも価値のないものだった。    

 私は脇目も振らず、リノリウムの床を蹴って浅野先生の机へ一直線に突き進んだ。  

 視界の端で、近づいてくる私を捉えながらも、先生は何事もないように淡々とキーボードを叩き、事務作業を続けている。

 その指先の動きひとつにさえ、鉄のような意志の固さが宿っていた。


「浅野先生!」


 私は先生の机に両手を叩きつけた。  

 乾いた破裂音が静かな職員室の天井にまで木霊し、強引に、暴力的に、先生の意識をこちらへと引き寄せる。


「今度はなんだ。一ノ瀬、ここはお前の遊び場ではないと言ったはずだが」


 痺れを切らし、ようやく私の方を向いた先生の瞳は、冬の湖底のようにどこまでも冷徹で、感情の揺らぎを一切許さない。


「白河について……白河について、教えてください! 彼がどこにいるのか、今どうしているのか、全部!」


 私はそのまま、折れるような勢いで全身全霊のお辞儀をした。  

 視界が床へと落ちる。

 今までの人生で、プライドを投げ捨て、こんなに必死に誰かへ頭を下げたことなんて、一度もなかった。


「知ってどうする。白河は体調を崩しているだけだ、風邪だと言っているだろう。それ以上の個人情報を教える義務は私にはない」


「……っ」


 私は、頑なに頭を上げなかった。  

 窓から差し込む陽光に照らされた、琥珀のような金髪。

 派手な色彩を纏ったネイル。

 校則を無視して着崩した制服。  

 どこからどう見ても、規律を乱す不真面目の象徴みたいな私。    


 でも、今。  

 今この瞬間だけは、この切実な願いを聞き届けてもらえるまで絶対に動かない。  

 たとえこのまま今日という日が暮れても、世界そのものが終わりを迎えたとしても。


「……本人たっての希望だ。教えられない。それが教師としての、そして大人としてのルールだ」


 それでも先生は、防壁を崩そうとはしてくれない。  


 知っている。

 わかってるんだ。  

 先生がこの冷酷な態度を鎧のように纏い続けているのは、それが彼女なりの、不器用で、けれど真っ直ぐな生徒への寄り添い方だってことくらい。  

 でも、私はここで引き下がるわけにはいかない。  

 行かないといけないんだ。  

 きっと、白河は――彼は今、色彩を失った暗闇の中で、独りきりで震えている。  

 隠していた理由なんてどうでもいい。過去に何があったかなんて関係ない。


「お願いします! 私に教えてください! お願いします!」


 これしか言えない。

 溢れ出す感情に言葉が追いつかず、語彙が削ぎ落とされていく。  

 だから私は、魂を削り取るような祈りを込めて、同じ言葉を何度も、何度も、彼の元へ届くことを願ってぶつけ続けた。


「……」    


 視界の端、机の下で、先生の指先が微かに動くのが見えた。  

 迷うそぶりも、悩むそぶりも見せない。  

 そこにいたのは、いつも通りの、峻厳で揺るぎない浅野先生だった。


「お願いします浅野先生! 彼には、今この瞬間、誰かが必要なんです! このままだときっと、彼は自分の吐いた嘘の重さに潰されて、壊れてしまう! 絶対に後悔したくないんです……!」


 私は、知っている。  

 誰にも本音を零せず、胸の奥が焼けるような痛みに苛まれる日々を。  

 何もできない自分の無力さに、ただ天井を見つめて絶望する夜を。  

 世界という巨大な機構に、自分一人だけが放り出されたような、あの耐えがたいほどの寂寥を。  

 だから、行かないといけない。  

 彼に、私と同じ地獄を見せたくない。  

 誰かが彼を、白河を、今この瞬間に暗闇から連れ戻さなきゃいけないんだ。


「……。一ノ瀬」


「……っ」


「一ノ瀬、顔を上げなさい!」


 鋭く、凛とした声と共に、先生の掌が私の肩を強く叩いた。  

 弾かれたように、私はゆっくりと顔を上げる。

 視界が涙で少しだけ滲んでいた。


「……何故、そこまでする? お前にとって、白河という男はそこまでして追う価値のある何なのだ?」


 浅野先生は、私の瞳の奥を射抜くように、魂の在り処を問うような鋭利な視線で問いかけてくる。  

 その眼差しは、厳格さの裏側で、先生自身の心に空いた何らかの空隙を埋める答えを、密かに羨望しているかのようにも見えた。


「私にとって、白河は……この世界で一番、大事な人です!」


 考えるより先に、熱を帯びた言葉が唇を割って飛び出していた。  

 自分でも驚くほど、あんなにも迷いなく叫んだ理由。

 それは、あまりにも明白だった。    

 喫茶店の隅で隣り合い、穏やかな空気を共有した、あの静かな白河。  

 学校の喧騒の中で、さりげなく私を支え、導いてくれた、優しい白河。  

 振り返れば、私の何気ない日常の中心には、いつだって彼の存在があった。  

 そんな奇跡のような存在を、「大事な人」と呼ばずになんと言えばいい。


「そうか……」


 先生はただ一言、深く重い吐息と共にそう告げると、手元にあった一枚の無機質なメモをこちらへ引き寄せ、おもむろに万年筆を走らせた。  

 紙の上を滑るペン先の音が、やけに鮮明に響く。


「……一ノ瀬」


「はい」


「お前に、これを託す。私の判断が間違いでないことを証明してみせろ」


 差し出されたメモには、簡潔な住所が記されていた。  

 無駄のない、研ぎ澄まされたその美しい筆跡には、教師としての、そして一人の人間としての浅野花が背負った、覚悟と信頼のすべてが凝縮されている気がした。


「ありがとう花ちゃん。……任せて、絶対に見つけてくる!」


「……頼んだぞ、一ノ瀬。道中、怪我などしないように」


 背中で聞こえた先生の祈りにも似た声を追い風にして、私は弾かれたように職員室を後にした。

 走り出した足取りは、先ほどまでとは比べものにならないほど、迷いなく力強く、ただ一人の少年が待つ場所へと向かっていた。



――――――――――――――――――――――――



 蝉の声が、鼓膜を執拗に突き刺してくる。  

 日差しが、皮膚の水分を根こそぎ奪い去るように暑い。  

 アスファルトから立ち上る陽炎が、視界を歪ませるほど地面が熱い。  

 暴力的なまでの夏の日差しが、逃げ場のない陸上競技場に容赦なく照りつけ、大気そのものを沸騰させていた。  

 肺に吸い込む空気は酸素を欠いた熱風で、喉を焼く。  

 誰もが木陰の静寂を渇望し、狂おしいほどに冷たい水を、喉を鳴らして飲み干したくなる。    



 そんな、灼熱の地獄と化した夏休みの真っ只中。  

 普通なら、冷房の効いた図書館で受験勉強に勤しんだり、束の間の息抜きに興じたり、眩い海やプールで青春を謳歌したり。  

 中学三年生という、子供と大人の境界線に立つ彼らには、他にやるべき事が山ほどあるはずだった。  

 それでも、俺は走り続ける。  

 焼け付くトラックを、一歩ごとに足の裏を焦がしながら。


「白河! もっと全力で行けるぞ! 膝を上げろ! 走れ走れ走れ!」


 鼓舞というよりは悲鳴に近い、横で絶叫する監督の声を背後へと置き去りにする。  

 正直、耳を打つその言葉が何を意味しているのかは、今の俺にはほとんど聞き取れない。  一秒の数百分の一を削り取るため、神経を極限まで尖らせ、この一本一本に魂を削るようにして本気で走っているからだ。

 視界は狭まり、ただゴールラインだけが網膜に焼き付いている。


「凄いぞ白河! 十一秒台だ、自己新記録だぞ!」


 液晶に刻まれた数字を指差す監督は、まるで自分が出した記録かのように相好を崩し、自慢げにストップウォッチを見せてくる。  

 だが、こんな数字で満足してはいられない。  

 もっと、もっと速く。

 風を切り裂き、重力を置き去りにできるほどに。


「監督。後一本だけ、おかわりいいですか?」


「……大会直前だぞ。中学生活最後の大会だ。これ以上の無理はさせられん。お前はこの部活のエースであり、精神的支柱だ。怪我に繋がるようなリスクを、私は看過できない」


 理屈では理解している。  

 目前に迫った夏の大会こそが、三年間の汗と涙の集大成。  

 そんな大事な時期に、無謀なオーバーワークで選手生命を危うくする奴など、どこにもいない。    


 だが、やらないといけないんだ。  

 これは俺一人の名誉のためじゃない。  

 バトンを繋ぐ、チーム全員のために。


「勝ちたいんです! 個人戦の表彰台だけじゃ満足できない。リレーでも、このチームで金メダルを獲りたいんです!」


 俺はキャプテンという重責を背負い、どうしてもこのチームを頂点へと連れて行きたかった。  

 その理想を実現するために、時にメンバーには冷酷とも取れる厳しい言葉を投げたこともある。  

 だが、そこに一点の後悔もなかった。  

 全ては、表彰台の頂から見える景色を分かち合うためなのだから。


「っ! 白河、頼むからちょっと休ませてくれよ……!」


「勝ちたいのはわかるけどさ。死んじまうって、マジで。このクソ暑い中で、これ以上は自殺行為だよ」


 仲間の悲鳴のような訴えは痛いほどわかる。  

 俺だって、今すぐこの場に大の字に倒れ込みたい。  

 キンキンに冷えたコーラを、喉が痛くなるほど一気に飲み干したい。    


 でも。


「監督。お願いします。泣いても笑ってもラストにします! 後一回だけ、三走とのバトンパスを含めたリレーのシミュレーションをさせてください! お願いします!」


「……わかった。本当に後一本だけだぞ。終わったら即座にダウンをとって、入念にストレッチとアイシングをすること。それが絶対の条件だ」


「ありがとうございます!」


 ただ、「勝ちたい」という純粋で、かつ狂気にも似た衝動だけを燃料にして、過酷な練習の山を築いてきた。  

 俺たちには、それを現実に変えられるだけのポテンシャルが備わっていると確信していた。  

 だからこそ、俺は疲弊し、嫌がる仲間たちの肩を無理やり叩き、鼓舞し続ける。


「後一本行くぞ! さぁ、最後の力を振り絞って立て!」


 背後で低く吐き捨てられた「あいつ、マジでクソだな」や「鬼畜すぎる」という陰口は、乾いた風の中に聞き流した。  


 許してくれ。


 心の中でそう呟く。  

 これも、お前達が勝利の美酒を味わうためなんだ。  

 この部活が歴史を刻むためなんだ。


 俺たちは、蜃気楼が揺れるトラックを走る。  

 ただただ勝利という名の光だけを目指して、真っ直ぐに。


 ――だけど。  

 次の日の練習から、俺は心臓の奥に刺さった棘のような違和感を覚えるようになった。  

 本当に些細な、注意していなければ見逃してしまうような変化。  

 けれど、俺に向けられる視線の温度や、ふとした瞬間の沈黙に、氷のような『疎外感』が混じるようになったのだ。


「春、お疲れ。今日は一段と足が動いてたな! その調子だ、自己ベスト狙えるぞ!」


 春。  

 俺の二つ下、中学一年生の次期エース候補。  

 天賦の才を持ち、陸上未経験ながらみるみるうちに頭角を現し、一年生にしてリレー選抜のメンバーに食い込んだ逸材だ。


 俺は彼を、俺が引退した後のキャプテンに強く推薦しようと考えていた。

 二年でキャプテン。

 普通はあり得ない。

 だがそこまでしてまで推薦する理由が俺にはある。

 

 競技能力は言うまでもないが、何より彼は、周囲の空気を敏感に察知する力があった。  きっとこの部活を、独善的な俺以上に、誰もが輝ける良いチームに再構築してくれるだろうと信じて疑わなかった。


「……あ、はい。お疲れ様です」


 いつもなら「ありがとうございます、見ててくださいよ!」と太陽のような笑みで返ってくるはずなのに、今日の春の返答は、灰色の空のように妙にそっけなかった。


「元気ないな? 足、痛むのか?」


「なんもないっす。別に」


 俺と視線を合わせるのを拒むように目を逸らし、地を這うような低い声で返す彼の表情は、深い霧に包まれたように暗い。


「そっか。……まあ、無理はするなよ」


 俺は、この異変の正体を深く突き止めようとはしなかった。  

 胸をかすめた違和感を覚えながらも、連日の猛暑で疲弊しているだけだろうと、自分に都合よく解釈してしまったんだ。  

 足元で静かに、そして確実に、取り返しのつかない破滅への亀裂が広がり始めていることにも気づかずに。


更新が遅くなり申し訳ございません。

全話修正を行っていたため遅くなりました。

前回までの話で少し追加した部分(描写等)があるため、読み直しても楽しめるとは思います。


お待たせしました。

白河の過去になにがあったのか。

白河の秘密編スタートです。


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