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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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二十杯目:白河奏の場合②

 クラス全体にどろりと広がる、肌を刺すような不安を纏った空気。  

 この教室は今、修復不可能な決定的な危機を迎えている。  

 たとえ感情の機微に疎い鈍感な私であっても、この場を支配する「まずさ」だけは、防衛本能に近い直感で理解できた。

 まるで、薄氷の上で全員が足を止めているような、そんな危うい静寂。


「で? 神崎、あんたがなんでそこまで怒り狂ってるのか、簡潔に説明してくれる?」


 莉愛が、普段の享楽的な気配を一切封印した、真剣そのものの瞳を神崎くんに向ける。  その冷徹な問いに呼応するように、神崎くんは再びガツンと重苦しい音を立てて机を叩き、弾かれたように立ち上がった。


「怒るとか、単なる感情の問題じゃねぇ……! 俺は、怜のやり方が、その理屈が、どうしても許せないんだ!」


 拳を白くなるまで握りしめ、言葉にならない悔しさを飲み込むように俯く神崎くん。

 その震える肩からは、親友に対する怒りと、それ以上に深い失望が滲み出していた。   そんな彼を、座ったままの九条くんが首を傾げ、不思議そうに底知れない瞳で下から覗き込む。


「『許せない』という言葉はあまりに抽象的だね。具体的に僕のどの行動が、君の倫理観に抵触したというのかな?」


 九条くんに相手を煽る意図なんて一ミリもないことは、ずっと近くで彼を見てきた私にはわかっている。  

 けれど、彼のそのあまりに純粋で、血の通わない無機質な正論は、今の爆発寸前のこの場では、最悪の「火に油」を注ぐ行為でしかなかった。


「っ! この……てめぇ……っ! どこまで他人事なんだよ!」


「おい! 蓮、やめろ! 莉愛も言ってただろ、これ以上は泥沼だ、落ち着けって!」


 今にも怜くんの胸ぐらを掴みかからんばかりに頭に血が上った神崎くんを、山波くんが必死の形相で背後から抑え込む。

 二人の身体がぶつかり合う鈍い音が、静まり返った教室に空虚に響いた。    

 私は、まだこの騒動の核心が見えない。  

 蓮くんと怜くんという、クラスの両輪が致命的なまでに揉めている事実は理解できる。


 けれど、どうしてそこに「白河」の名前が関わってくるの?  

 あいつは今日だって風邪で休んでいるはずで、完璧に作り上げられた『一軍』の不協和音には、本来関係なんてないはずなのに。


「蓮くん……さっき、白河って言ってたよね? なんで今、そこに白河が関係してるの?」


 知らないのなら、臆せず聞けばいい。  

 わからないのなら、手を伸ばして知ればいい。  

 これまでの失敗だらけの経験上、私は「人に聞く」という単純な行動が、どれほど行き違いを正すために大切かを知っているつもりだった。  

 けれど、私は数秒後の自分を、心の底から後悔することになる。  

 この時の私は、これが軽はずみに土足で触れていい話題ではなかったのだと、その重みにまだ気づいていなかった。  


「怜……こいつは、こいつはな! 白河を……あいつの心の、一番奥底にある柔い部分を、めちゃくちゃに傷つけたんだよ!」


「傷つけた……? 怪我とか、そういう……物理的なこと?」


「琥珀。……たぶん、そうじゃない。もっと、ずっと厄介な『心』の話だよ」


 混乱で立ち尽くす私の目を真っ直ぐに見つめて、莉愛が静かに、宣告するように教えてくれる。  

 目に見える鮮血が出るような怪我じゃない。  

 形がないからこそ治し方もわからない、魂に負った深い傷。


 私は、事態が想像していたよりもずっと深刻で、取り返しのつかない破綻の淵まで来ていることを、ようやく思い知らされた。


「心の傷って……。一体何があったの? 怜くん、白河に何をしたの?」


 私は内側から湧き上がる激しい動揺を抑えきれず、静寂を保ったまま座り込んでいる怜くんに、詰め寄るように足を踏み出した。


 私は、白河のことをよく知っているつもりだった。  

 学校の教室では決して見せない、あいつの本当の、飾り気のない姿を。  

 不器用な私を見捨てず、根気強く言葉を尽くして世界の仕組みを教えてくれる、あの静かな優しさを。  

 私がどんなに無様な失敗をしても、決して馬鹿にせず、二人で顔を見合わせて呆れたように笑ってくれる……あの穏やかで、陽だまりのような時間を。  

 あんなに優しく、孤独を知る人を傷つけるなんて、そんなの、絶対にあってはならないことだ。    


 でも、その確信さえも、実は「本当の白河」ではなかったのかもしれない。  

 私が知っている彼は白河奏であって、同時に、私の知らない暗部を抱えた白河奏でもあった。  

 目の前の親友たちが争う原因が、私の愛する「彼」であるという矛盾する事実が、私の頭を激しい濁流のような混乱へと叩き落としていく。


「言ってやれよ、怜! 隠さずに全部吐けよ! お前があの放課後、密室になった教室であいつに何をしたのかをさ!」


 いつもの周囲を照らすような眩しい笑顔は完全に消失し、血管が浮き出るほどに顔を強張らせた蓮君が叫ぶ。

 その怒声は震えていた。

 彼は彼なりに、踏みにじられた友人の尊厳を取り戻すため、己の正義と怒りを炎に変えて燃やし尽くそうとしているのだ。



「……僕は、ただ彼に真っ当な疑問を投げかけただけだよ。どうしてそんな風に、自分を偽り、嘘を吐き続けるの? ってね。それは残酷なことかい?」


「……嘘? 白河くんが……?」    


 あまりに唐突な言葉に、私の理解は完全に遮断された。  

 あの、穏やかで控えめな白河くんが嘘をついている?   

 誰を欺くために? 

 何を守るために?   

 どうして、あんなに透き通った瞳で私を導いてくれた彼が、そんな暗い言葉で語られなければならないのか。  

 次から次へと溢れ出す疑問が、制御不能な濁流となって私の心に襲いかかり、呼吸を浅くさせる。


「……九条。あんたも、あの違和感に気づいてたんだね。……実は、うちもなんとなくは感づいてたよ。あいつが何かを必死に隠して、死んだふりをしてるってことくらい」


 莉愛は、どこか遠くを見るような、乾いた諦念を孕んだ表情で低く呟いた。

 ……莉愛は、最初からわかっていたのだ。  

 けれど、一体何の話をしているの?  

 この教室の誰よりも鋭く、核心を共有しているのは、今この一角に立つ彼らだけ。  

 私を含めたクラスの大多数が、その「嘘」という名の深淵に辿り着けずに、ただ冷たい檻の外に取り残されていた。


「佐伯さんも知っていたのか。だったら話は早い。彼にとって、あのまま自己欺瞞の檻に閉じこもっていることは――」


「でもね、九条。それを知っていたからって、土足で無理にこじ開けるのは違うと思うよ」


 淡々と、冷徹な診察結果を述べるように喋り続けようとする九条くんを遮って、莉愛が重みのある言葉を重ねた。


「人には人のペースがある。誰にだって、墓場まで持っていきたい嫌な記憶も、魂を削られるような秘密もある。本人が望まないことを、正論という武器で無理やりやらせる権利なんて、この世の誰にもない。……だから、あいつが必死に守っていた心の防壁を無理やり破壊するのは、絶対にやってはいけないことだった。それは人としても、友達としても……最低の越権行為だよ」


 こんなに感情を剥き出しにした莉愛を、私は見たことがない。  

 ただ真っ直ぐに九条くんを見据え、氷柱のような鋭い視線を向ける彼女からは、いつもの「適当で気楽な」雰囲気は霧散していた。

 そこにあるのは、痛いほどの覚悟と、残酷なまでに大人びた冷徹な空気だった。


「佐伯さん。君の道徳的な意見は至極真っ当だ。だけど、僕は違う結論を持っている。彼の場合、放置しておけばいつか内側から精神が爆発する。それくらい、彼が背負わされている荷物は重すぎるんだ。……自分に嘘を吐き続けるのは、自らの存在を少しずつ削り落とすのと同じだよ。誰にも頼れず、自分を嫌いになりながら、偽りの凡庸を演じ続ける。そんな彼を、救われるべき対象だとは思わないかい?」


 二人の会話は、私には届かないほど高度な倫理のぶつかり合いで、彼らが具体的に「白河くんの過去」の何を指しているのかさえ、本当のところは霧に包まれている。


 でも、私は……私は――。


「ッ……!」


 気づいた時には、周囲の視線を振り払うように椅子を蹴る音を立てて立ち上がり、教室を飛び出していた。  

 背後で誰かが私の名前を叫んだ気がしたけれど、振り返る余裕なんて、一欠片も残っていなかった。


(白河。白河くん。何があったのか、私にはまだ何も見えてこない。でも、でも……っ!)


 胸が張り裂けそうに苦しい。  

 あんなに温かな光を私にくれた彼が、自分を嫌悪するほどの「嘘」を抱えて、独りで震えていたなんて。  

 白河くんのこと、私は何も知らない。  

 あんなに近くにいたはずなのに、何もわかってあげられなかった。  

 放課後の喫茶店。

 夕暮れの教室。

 二人で笑い合っていたはずのあの時間が、彼の苦痛の上に成り立っていたのだとしたら、私は――。  


 どうして、あんなに一生懸命に私の勉強に付き合ってくれたの?  

 どうして、見捨ててもいいはずの私に、言葉を尽くしてくれたの?  

 白河くん。  

 私は――嘘を吐いているあなたじゃなくて、痛みを抱えたままの、本当のあなたのことが知りたい。


 心臓の鼓動が耳元で暴力的に鳴り響く中、私はがむしゃらに廊下を走る。  

 すれ違った先生たちが何かを怒鳴っていた気がするけれど、今の私には、そんな雑音はどうでもよかった。

 私が今、この壊れかけた世界で知りたいことは、ただ一つだけ。


「花ちゃん!!」


 私は、さっき飛び出したばかりの職員室の扉を、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで蹴り開けた。  

 肺が焼けるほど息を切らし、肩で激しく呼吸をしながら、驚愕に目を見開くデスクの浅野先生を、真っ直ぐに指さして叫んだ。



―――――――――――――――――――――――――



「琥珀、どうしたんだ……?」


 絞り出した声は、ひどく頼りなく空気の中に溶けて消えた。  

 一ノ瀬が弾かれたように教室を飛び出していった理由が分からず、俺はただ、彼女が残した微かな風の余韻と、廊下へと続く虚空を呆然と見送ることしかできなかった。

 視界の端で、彼女の揺れる髪が、まるで断絶の合図のように残像として焼き付いている。


「神崎。琥珀にだって、色々あるんだよ」


 そう言った佐伯は、窓から差し込む斜陽を真正面から受け、どこか遠く……手の届かない 異界でも見るような、酷く優しい、それでいて残酷なほどに透き通った目をしていた。


「色々あるって言っても、今じゃねーだろ。こんな時に……」


 言葉が喉の奥で苦く、ざらついた感触を伴ってせり上がる。

 理不尽な苛立ちが胸を焦がす。


「今以外ないよ。今しかない。……それよりうちは、あんたたちの方が心配だよ。放っておいたら本当に、この静かな教室で殴り合いでも始めるんじゃないかってね」


 佐伯の温度を欠いた冷めた声を聞いているうちに、さっきまで脳をじりじりと焼いていた熱い怒りが、少しずつ形を変えていくのを感じた。  

 怒りが完全に霧散したわけじゃない。  

 ただ、あまりに現実離れした状況の連鎖に、麻痺した感情が事実を処理しきれず、立ち止まってしまっただけだ。

 心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳の奥で鳴り響いている。


「……ああ。そこは心配しなくていい。今は、落ち着いてる」


「それはよかった。僕はてっきり、君の拳が僕の頬を捉える瞬間を、どう優雅に回避するかシミュレートしていたところだったからね」


「……いくらイラついてても、友達を殴りはしねぇよ、怜。……っていうか、いい加減説明してくれ。隠さずに、全部だ」


 俺は、こうなってしまった「きっかけ」は知っている。

 パズルのピースはいくつか手元にあるはずだ。  

 でも、その全てを繋ぎ合わせる論理(ロジック)を、俺はまだ持っていない。  


 なぜ、怜がこの平穏を壊すような真似をしたのか。  

 なぜ、白河奏という少年があれほどまでに自分を殺し、精巧な偽物を演じ続けなければならなかったのか。  

 そして――去り際の、あの今にも泣き出しそうに歪んだ、琥珀の表情。

 あの顔の裏に隠された絶望の正体は何なのか。


「確かに、これ以上説明を拒むのは、君たちの友情に対して不義理だね。わかった、話そう。……僕が最初に違和感という名の種火を見つけたのは、文化委員が決まった時だ」


「意外と最近なんだな」


「それまで僕は、彼という存在を背景の一部としてしか認識していなかったからね。みんなも知っての通り、僕の趣味は人間観察……いわば、この退屈な世界という劇場を特等席で眺めることだ」


 九条は淡々と、淀みのない所作で優雅に足を組み直す。  

 その、どこまでも自分を特別視しているような超然とした態度に、一瞬また胸の奥で黒い感情が鎌首をもたげたが、俺はそれを重い溜息と共に無理やり飲み込んだ。  

 今は、こいつの冷徹な言葉を、一言一句漏らさずに聞き遂げるのが先決だ。


「知ってるよ。あんたがジロジロ人を見て、その内面を勝手に品評してるのなんて、今に始まったことじゃないし」


 佐伯は気だるそうに、けれど射抜くような鋭い視線を九条に向けたまま答える。彼女の指先が、机の端を苛立たしげにトントンと叩いていた。


「光栄な評価だね。……そこで僕は、彼の、あまりに精巧すぎて逆に不自然な『異変』に気づいたんだ」


 俺は、そんな微かな不協和音を感じたことは一度もなかった。  

 何度か白河と談笑したことはある。

 他愛のない世間話に、無害な笑い。  

 けれど、九条が言うような、深淵に触れるような「異変」なんて、微塵も感じ取れなかった。


「異変って……さっき言ってた『嘘』のことか?」


 俺と同じように、何も気づいていなかった山波が、眉間に深い皺を刻み、困惑を隠せない様子で聞き返す。

 その声には、信じていた地面が急に揺らぎ始めた時のような、隠しきれない不安が混じっていた。


「そう、嘘だよ。佐伯さんがいつその仮面に気づいたのかは知らないけれど、僕の中ではあの時、仮説は確信へと変わっていた」


「……うちが気づいたのは、それよりちょっと前だね。雨上がりの放課後、たまたま一緒に帰った日に、彼の言葉の端々に混じる『空白』に触れて、確信した」


 佐伯の静かな告白に、教室の空気はさらに密度を増し、肌を刺すような冷たさを帯びた。

 俺たちが笑い合っていたその裏側で。  

 白河奏という人間の、丹念に塗り固められたメッキは、とうの昔に剥がれ落ち、その下の醜悪な、あるいは悲痛な素顔が露呈し始めていたらしい。


「蓮、そして大河。君たちは、白河という人間に、具体的にどういうイメージを抱いている?」



 九条に真っ直ぐ問いかけられ、俺は腕を組み、記憶の底にある白河の姿を必死に手繰り寄せた。  

 だが、俺が口を開くより先に、山波が絞り出すように正直な感想を漏らす。


「イメージか……。そうだな、良くも悪くも『普通』で、波風立てずに教室の隅に馴染んでいる、大人しめな奴……って感じだな」


 あまりに記号的で、中身のない回答に聞こえるかもしれない。  

 だが実際、それがこの教室における彼の完成された「役柄」だった。  

 クラスの大多数が抱いている、無意識の共通認識。  

 俺も概ねその意見に同意だ。  

 だが、今思えばその「普通」こそが、計算され尽くした防壁だったのかもしれない。   そこに、俺自身の主観を無理やり付け加えるとするならば――。


「大河のイメージに付け加えるなら、一人でいることが当たり前になってる奴、って感じだな。少なくとも、俺たちの輪の中に自分から踏み込んでくるような、能動的なタイプじゃなかったはずだ」


 俺の言葉に、怜は深く頷いた。

 その瞳の奥には、獲物を追い詰める学者のような、冷徹なまでの知性が宿っている。


「うん。大体の人がそう答えるだろうね。実際、彼はそうやって日々を過ごしていた。僕たちが勝手に抱いている『白河奏』というイメージの型に、自分自身の四肢を無理やり押し込んで、『演じて』いたんだよ」


 怜の淡々とした言葉に、背筋を薄ら寒い戦慄が走り抜けた。  

 世間一般のイメージ通りに振る舞っているのなら、それは社会性という名の調和であって、嘘とは無関係なはずだ。  

 一体、怜はこの平穏な日常のどこに亀裂を見つけ、何を見抜いたというのか。

 窓の外で鳴く鳥の声さえ、今は不吉な予兆のように聞こえる。  


「君たちが口にした『大人しめ』という単語だけれど、それは『他人と対話するのが苦手』という、コミュニケーション能力の欠如を指しているのかな?」


「そ、そうじゃねぇよ! 別に悪口のつもりで言ったんじゃねぇぞ! 穏やかで落ち着いてるって、いい意味での評価だ!」


 山波は、自分の不用意な発言が白河への侮辱として取られたと思ったのか、狼狽えながら大きく手を振る。

 彼のそんな実直な反応さえ、今の教室の空気の中では浮き上がって見えた。


「ははっ。わかっているよ。ただ、僕が言いたいのはその先だ。彼――白河くんは、僕たちが無意識に規定している限界値よりも、ずっと、ずっと『喋れる』人間なんだよ」


「……?」


 思考の霧が濃くなる。

 ますます意味がわからない。

 怜は、一体この問答の先にどんな真実を隠しているんだ。


「白河は、時々、不自然なほどに目を伏せるよね」


 怜の勿体ぶった言い回しに痺れを切らしたのか、それまで沈黙を守っていた佐伯が横から遮るように種を明かした。

 彼女の瞳には、暴きたくない傷口を直視してしまった時のような、苦い光が混じっている。


「それまで普通に視線を合わせて談笑していても、会話が核心に触れそうになった瞬間、逃げるように睫毛を伏せて視線を逸らす。まるで、魂の深淵を覗き込まれるのを病的に――あるいは本能的に嫌がっているみたいにね」


「佐伯さんの観察眼は、僕の予想以上に鋭いね。その通りだ。彼は、自分の市場価値を自分自身の意志で、それも極めて意図的に、最低ラインまで引き下げているんだよ」


 九条は、愚かな子供の行いを見るような呆れ顔で、あるいは行き場のない同情を隠しきれないように、小さく首を振った。


「……ただの極度の恥ずかしがり屋、って可能性だってあるだろ? 人見知りなんて、珍しくもないし」


「そうだね、その可能性も検討した。でも、彼は時折、場の空気を支配するような絶妙なタイミングで冗談を言うし、本質を突く鋭いツッコミを入れることだってある。それを、ただの『恥ずかしがり屋』が無意識に、あんなに堂々とできると思うかい? そもそも、あの一ノ瀬さんと対等に……いや、それ以上に調和してやり取りができている時点で、決定的な矛盾が生じている」


 怜の言葉は、鋭利なナイフのように事実を切り裂いていく。

 その切っ先には毒があるが、それゆえに抗いがたい説得力が重くのしかかってくる。


「彼女はこのクラスの太陽……いや、もはや恒星だ。残酷な言い方をすれば、本物の『陰キャラ』なら、彼女が放つあまりに眩い光に当てられて、まともに会話のキャッチボールすら成立しないはずなんだ。蒸発してしまうのが関の山だろう?」


 白河は確かにいつも一人でいた。  

 けれど、それは「孤立」ではなく「隔離」だったのではないか。  

 話しかければ理知的な返答が淀みなく返ってくるし、誰に対しても当たりは柔らかく、不快感を与えない。  

 集団の中に馴染む素養を十分に持ち合わせているはずの人間が、敢えてその輪から数歩引いた場所で、ずっと透明な壁を隔てて立っている。  

 ということは――。


「……自分から、あえて一人になるための『壁』を築いてる、ってことか?」


「蓮、正解だ。だから僕は、あの静まり返った放課後の教室で彼に問うたんだ。『何故、自分という存在を殺してまで、そんな不器用な嘘を吐き続けるの?』ってね」


 ――繋がった。  

 今までバラバラに散らばっていた、意味をなさなかったピースが、最悪な絵を描き出しながら組み合わさっていく。    

 なぜ、あんなにスペックの高い男が、教室の壁際で息を潜めるようにして生きてきたのか。  

 それは白河奏という人間が、過去のどこか、俺たちの知らない時間の断層で――「自分をさらけ出すこと」を、呪いのように自分自身に禁じてしまったからなんだ。  

 俺が見ていた彼の「普通」は、彼が必死に守り抜こうとした、悲しい偽装の産物だった。


「喧嘩するほど仲がいい」

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