表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/23

十九杯目:白河奏の場合①

「花ちゃん。白河は……本当に風邪なんですか?」

 

 放課後の職員室。  

 無機質な蛍光灯の下、あちこちで小刻みにキーボードを叩く乾いた音や、機械的な電話の応対の声が重なり合い、放課後特有の濁った慌ただしさに包まれている。

 窓の外から微かに聞こえる吹奏楽部の音色も、ここでは厚い壁に遮られ、どこか遠い世界の出来事のように頼りない。


「……あぁ。本人からは、そう聞いている」


 花ちゃんこと浅野先生は、愛用のマグカップに口をつけ、立ち上る湯気の向こうで一拍置いてから短く答えた。

 その視線は、開かれた出席簿の文字を追うふりをしながら、決して私の目を見ようとはしなかった。

 まるで、瞳の奥に潜む「何か」を悟られるのを恐れているかのように。


「でも、連絡が全然返ってこないんだよ? 流石に変じゃない? 既読すらつかないなんて……」


 私は、もはや祈りにも似た絶望を込めて、未読のまま冷たく動かないメッセージ画面を花ちゃんの目の前に突き出した。

 液晶の光が、焦燥に駆られた私の指先を青白く照らし出す。  

 浅野先生はゆっくりと重苦しく瞼を閉じ、肺の底に溜まった澱を吐き出すような深い溜息を漏らした。

 そして顔を上げると、迷える子供を諭すような、どこか突き放した響きを孕んだ口を開く。


「まず、第一に一ノ瀬。職務中の教師に対しては、適切な敬語を使えと言ったはずだ。第二に……仮に、彼に何か別の事情があったとしても、生徒の秘匿されるべき個人情報を安易に他人に漏らすことはできん。お前の心配する気持ちは痛いほどわかるが、人には人の、踏み込ませないペースというものがあるんだ。……それから、第三に」


 浅野先生は、使い込まれたデスクの上に置かれたペンを、規則正しいリズムでトントンと叩き、私を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳には、一教師としての厳格さと、それ以上に強固な拒絶の色が混じっている。


「何度も言っているが、その『花ちゃん』という呼び方はやめろと、何度言えば理解するんだ――」


「もういい! 花ちゃんのバカ! わからず屋!」


 私は最後まで言葉を紡ぐことを拒み、吐き捨てるような叫びとともに職員室を飛び出した。  

 勢いよく蹴り出した背後で、防音性の高い重たい扉が「ガタン」と、世界を分断するような非情な音を立てて閉まった。


「浅野先生も、大変ですね。あの子、一度言い出すと聞かないでしょう」



 嵐が過ぎ去り、静まり返った職員室。  

 向かいの席に座る、他クラスの担任が書類から顔を上げ、苦笑交じりの同情を込めた声をかけてきた。


「……えぇ。最近は、特に。彼女を筆頭に、境界線を踏み越えてくる騒がしい生徒ばかりですから」


 浅野は、机の上に無秩序に散らかった出席簿やプリントの端を整えながら、感情を削ぎ落とした声で答える。

 指先の動きは正確だが、どこか機械的な冷たさを帯びていた。


「さっきの話、白河君でしたっけ。彼、何かあったんですか? あんなに必死になるなんて」


 浅野は、動かしていた手を一瞬だけ、凍りついたように止めた。

 だが、すぐに何事もなかったかのように整理を再開する。


「……ただの風邪ですよ。少々こじらせているのか、復帰が予定より遅れている。真面目な彼女は、リレーの練習に穴が空くのを過敏に恐れているのでしょう」


「仲がいいんですね、あの二人。意外というか、なんというか」


 一ノ瀬と白河。  

 光を一身に集める少女と、影に潜むように生きる少年。

 以前までは接点すら見えなかった不自然な二人の取り合わせに、同僚は興味深そうに首を傾げた。  


「……最近までは、それほど親密な気配もありませんでしたが。おそらく、近付く体育祭が、望まぬ変化をもたらしたのでしょう」


「あぁ、なるほど。共にリレーのバトンを繋ぐメンバーでしたね。過酷な練習の中で、奇妙な絆が深まった、と」


「……最後には、彼ら自身が結論を出すことです。我々教師は、それを見守ることしかできない」


 浅野はそれ以上、何も語らなかった。  

 同僚が「私のクラスも負けませんよ。青春ですね」と快活に笑いながら去っていくのを横目に、彼女はすっかり冷え切って膜の張ったコーヒーを、苦虫を噛み潰したような顔で一口啜る。  

 その瞳は、一ノ瀬には決して見せることのない、底知れない憂いと、自らの選択に対する深い迷いの海に沈んでいた。



―――――――――――――――――――――――――



「絶対に何かあるもん!」


 私は頭の上に、今にも火を噴きそうなほど巨大な怒りマークを浮かべ、踵を激しく廊下に打ち鳴らしながらドカドカと歩く。

 上履きと床が擦れる「キュッ」という乾いた音が、今の私の苛立ちを代弁しているようだった。  


 もう五日目だ。

 カレンダーの数字を指で追うたびに、胸の奥のざわつきが大きくなっていく。  

 異常。

 異常中の異常だ。  

 たとえ高熱にうなされるような酷い風邪だったとしても、丸五日間、眠り続けるなんてあり得ない。


 だからこそ、私は藁にも縋る思いで花ちゃんに確認しに行ったのだ。

 それなのに、返ってきたのは、あの血の通わない無機質な「風邪だ」という一言だけ。  そんなわけがない。

 絶対、絶対、一億パーセントあり得ない!


「連絡も返さないなんて、絶対に、絶対におかしいんだから……っ!」


 もし本当に風邪で寝込んでいたとしても、一日中意識を失っているわけじゃない。

 少し熱が引いた隙にスマホを手に取ることくらい、今の高校生なら呼吸をするより容易なはずだ。

 ゼリー飲料を啜る合間に、あるいは枕元でぼんやりと天井を眺めている時に、「大丈夫」という、たった四文字の生存報告を送ることくらいできるはずなのに。


「どうした琥珀? 遠くからでも頭の上に怒りマークが見えるけど」


 視界の端で、飲み慣れた紙パックのカフェオレを指に引っ掛け、気だるげに佇む莉愛の姿があった。

 彼女は他クラスのバスケ部らしき、背の高い女子と何やら談笑していたようだが、私の殺気立った雰囲気に気づいて足を止める。


「莉愛! 聞いてよ、花ちゃんひどいんだよ!? 私の必死な訴えを鼻で笑うみたいに、全然取り合ってくれないの!」  


「そうかそうか。よしよし、琥珀はかわいそうだねー」


 莉愛は、子供をあやすような平板なトーンで、私の背中をポンポンと軽く叩く。

 その動作はあまりに手慣れていて、逆に私の火に油を注ぐ。


「私はもう、本気で怒った! ほとぼりが冷めた頃に、あとでもう一回、今度は実力行使で突撃してあげるんだから!」


「それはそれは。花ちゃんも、そこまで執拗に言われれば、きっと根負けして真実を話してくれるとうちは思うよ」



 莉愛の細められた瞳の奥は、少しも笑っていない。

 これ以上構うのは時間の無駄だ、適当に受け流すのが最適解だ――彼女の全身から漂う空気が、そう冷ややかに告げている。

 でも、今の私にはそんな客観的な視点なんて、どこか遠い星の出来事のようにどうでもよかった。


「もうっ、私、先行くね!」


 プンスカと鼻息を荒くし、周囲の視線も構わず私は教室へと踵を返した。  

 けれど、教室の扉の前に立ち、手をかけた瞬間。

 隙間から漏れ聞こえてきた野太く、激しい怒号に、私の思考は一瞬で凍りついた。


「……っ!? 怜! お前、いい加減にしろよ! ふざけんなよ!」


「何もふざけてはいないよ。僕は至って真面目に、論理的な結論を述べているだけだ」


 中から漂ってくるのは、単なる言い合いとは明らかに一線を画す、肌を刺すような一触即発の空気。  

 それに、今、声を荒らげたのは蓮君だ。  

 直後、「ガンッ!」と、机を乱暴に叩きつける破壊的な衝撃音が、廊下の静寂を切り裂いて響き渡った。


「何が真面目だ! お前っ、結局は自分さえ良ければ、それで満足なのかよ!」


「蓮が何に対して、それほどまで感情的に憤っているのか理解に苦しむな。僕は何も自分の

エゴのために動いたわけじゃない。彼の、白河くんのために最善だと思ったからこそ、言葉を尽くしたんだ」


 再び、何かが激しくぶつかり、軋む嫌な音が鼓膜を打つ。


「彼の為だ……? あいつが……白河がお前に、そんな残酷なことを頼んだのか? 違うだろ! お前が勝手にアイツを壊したんだろ!」


 白河。  

 今、確実に白河って聞こえた。  

 空耳じゃない。

 願望が見せた幻聴でもない。  

 間違いなく、ずっと追い求めていたあいつの名前が、争いの火種としてそこにあった。  私はたまらず、弾かれたように教室の扉を勢いよくスライドさせた。


「――っ!」


 そこには、今にも殴りかからんばかりに拳を握りしめ、肩を激しく上下させる蓮君と、そんな彼の激昂を柳に風と受け流し、どこまでも冷徹で透き通った瞳で座り続ける怜君の姿があった。  

 教室内は、氷点下に叩き落とされたかのような静寂が支配している。

 何が起き、何が語られたのか。

 状況を把握できぬまま、私は震える声で、すぐ近くで固まっているクラスメイトに声を落として尋ねた。


「……何かあったの? 二人とも、どうしちゃったの……」


 私の問いかけは、騒がしい教室の喧騒に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。  

 クラスメイトたちが壁際に張り付き、息を潜めて事の成り行きを見守る中、部屋の中央には逃げ場のない熱量が渦巻いていた。

 どうやら、普段は温厚な蓮君の導火線が、何かの拍子に根元から爆発してしまったらしい。


「おい蓮! 落ち着けって、場所を考えろ! みんな見てるだろ!」


 山波君が、岩のように硬直した蓮君の両腕を背後から必死に抑え込み、喉を枯らして声をかける。  

 それでも蓮君の激情は収まるどころか、抑えつけられることで、むしろその純度を増して悪化しているようだった。

 彼は拘束を振り払おうともがき、残った足で近くの机を思い切り蹴り飛ばした。

 「ガシャアアンッ!」という、金属と木材が激しく悲鳴を上げる音が、鼓膜の奥まで容赦なく突き刺さる。


「お前はいつもそうだ! 自分の頭が回るのをいいことに、相手の事情も考えず、血の通わない正論だけで突っ走る! 一瞬でも考えなかったのかよ……あいつの、白河の気持ちを!」


「何度同じ説明を繰り返せば、君の脳内に論理として定着するんだろう。僕は彼のためを思って行動を選択したんだ。どうして、直接的な利害関係のない部外者の君が、そこまで醜く感情を露わにする必要があるんだい?」


 怜君の声は、どこまでも透き通っていて、そして研ぎ澄まされた氷の刃のように残酷なまでに冷たかった。  

 私は心臓が、早鐘を打つような嫌な音を立てるのを感じて、震える足で二人の元へと駆け寄った。


「どうしたの二人とも! らしくないよ、やめて! ねえ、お願いだから!」


 私の必死な制止に気づいた蓮君は、一瞬だけこちらに射抜くような視線を向けた。

 けれど、その燃えるような瞳にはいつもの太陽のような温かさは欠片もなく、すぐにまた、無機質な壁のように座る怜君へと戻される。


「琥珀は関係ねぇ! これは怜の、……それから白河の話だ! お前には見せたくねぇから、どっか行ってろ!」


 やっぱり、白河の話だった。  

 二人は、私の知らない「何か」を、決定的な破滅の種を共有しているというの?  


「蓮くん! 白河の話って、どういうこと……っ? 彼は風邪じゃないの!?」



「琥珀。……俺は今、猛烈にイライラしてんだよ。わかるだろ? これ以上、俺の逆撫でをするな」


 低く、地を這うような重低音。  

 こんな蓮君、私は生まれてから一度も見たことがない。  

 いつも優しく私を導いてくれる彼が、女の子に対して――いや、私に対して、こんな突き放すような、泥を投げつけるような言い方をするなんて。


「おい、蓮! 流石にそれは言い過ぎだ! 一回頭を冷やせって、マジで!」


 事態の深刻さに、山波君が顔を青くして割って入る。


「大河の言う通りだね。蓮、今日の君はどうかしているよ。冷静さを欠いた人間との対話ほど、不毛な時間はない」


「はぁ? ……お前が、どの口でそれを言うのか、怜?」


 蓮君の拳が、みしりと音を立てて震えている。

 私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。  

 二人の間に流れる、命を削り合うような殺気立った空気を止める術を、私は何一つ持ち合わせていない。  

 今の二人を止められるのは、同じ目線で、同じ強さで話せる男子……大河くんくらいだと思っていた。


「あんたら、公共の場で何してんの? 見てて暑苦しいんだけど」


 そこへ、廊下で別れたはずの莉愛が戻ってきた。  

 喧騒と緊張に包まれた教室の入り口で、彼女だけがひどく場違いなほど、凪いだ海のように落ち着いている。


「り、莉愛! 大変なの、二人が喧嘩してて……どうしよう!」


「喧嘩? あー、なるほどね。状況証拠からして、大体わかった」


 口の中で「カラリ」と飴を転がしながら、莉愛は一目で全てを見通したようだった。   彼女は迷いのない、優雅ですらある足取りで、火花を散らし合う二人の間へと躊躇なく踏み込む。


「おおかたの筋道は把握した。で? 神崎。とりあえず見苦しいから、さっさとその椅子に座りなよ。あんたの吠え面、全然格好良くないから」


「はぁ!? 落ち着いてなんていられるか! 莉愛は知らないからそんな悠長なこと言えるんだろ! 怜が……こいつが、白河に対して何をしたか、その惨状を!」


「白河のことでしょ? いいから座りなって。あんたがここで暴れて机を壊したところで、あいつの現状がミリ単位でも解決するわけじゃないでしょ。時間の無駄」



 信じられないことに、荒れ狂う猛獣のようだった蓮君が、莉愛の放った至極真っ当で冷徹な一言で、まるで毒気を抜かれたようにドサリと椅子に腰を下ろした。


「はい、よろしい。話は落ち着いてしないと、ただのノイズで終わる。……そうでしょ、九条も」


 莉愛がパン、と軽く乾いた音で手を叩いて場を仕切る。  

 椅子に座った蓮君は、血管の浮き出た腕を力強く組み、射抜くような憎悪の視線を怜君へと向けた。


 まるで、さっきまでの鼓動を揺さぶる喧騒が嘘だったかのように、教室はしんと静まり返った。  

 けれど、それは決して平和な静寂などではない。  

 冷たい霧が足元からじわじわと這い上がってくるような、どろりと重たくて不穏な沈黙が、このクラスのすべてを飲み込もうとしていた。  

 クラスメイトたちは、遠巻きに「腫れ物」を見るような目で私たちの様子を伺い、誰一人として不用意に口を開こうとはしない。  

 神崎、九条、佐伯。  

 この学園の、そしてクラスの頂点に君臨するはずの『一軍』という共同体に走った致命的な亀裂は、そのままクラス全体の安寧を無惨に壊していく。    


 私は、自分の指先が、冬の海に浸されたように微かに震えているのに気づいた。

 

 白河。  

 白河の身に、一体何が起きてしまったの?  

 怜くんはあなたにどんな「正論」を突きつけて、蓮くんはどうして自分を見失うほどに怒っているの?    

 真実が知りたい。

 その奥底に触れたい。  

 でも、それを知ることで、今ある景色がすべて崩れ去ってしまうのが、たまらなく怖い。

 そんな私の内面の葛藤なんてお構いなしに、椅子に座った蓮君が、肺の底から絞り出すような押し殺した声で、再び断罪の口を開こうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ