十八杯目:九条怜の場合
以前から、彼の存在が僕の意識の端に、棘のように刺さって離れなかった。
教室という狭い箱の中、窓から差し込む午後の気だるい陽光を背に受け、何食わぬ顔をして平然とクラスの片隅に溶け込んでいる。
まるで、最初からそこに配置された無機質な風景の一部であるかのように。
最初は、特筆すべき点など何もない、凡庸を絵に描いたような人間だと思っていた。 喧騒から距離を置き、いつも独りで壁と同化している彼を、わざわざ貴重な時間を割いてまで気にかける必要なんて、どこにもなかったからだ。
けれど、退屈しのぎに始めた観察を続けるうちに、僕は奇妙な違和感を抱き始める。
彼は、僕らが想像する以上に、意外なほど「高スペック」な人間だった。
学業においても、あるいは体育の授業で見せる咄嗟の身のこなしにおいても、彼は常に平均を軽々と上回る結果を、さも当然のように残していく。
おそらく、この世のあらゆる事象を最小限の労力で、器用にこなせてしまうタイプなのだろう。
だが、その完璧な「平均以上」の仮面の下で、彼はどこか嘘を吐いているように見えた。 それは、僕や神崎、あるいは佐伯さんといった「他人」の目を欺くための小賢しい虚飾ではない。
彼は、彼自身という存在そのものに対して、冷徹な嘘を吐き続けているのだ。
その決定的な確信を得たのは、彼が一ノ瀬さんと対峙し、言葉を交わしている瞬間だった。
それまでの彼は、まるで泥沼に沈んだ死んだ魚のような、一切の光を拒絶する濁った瞳をしていた。
けれど、彼女と向き合うその刹那だけ、氷のように冷めきっていた瞳の奥に、陽炎のような微かな熱が宿るのを僕は見逃さなかった。
……これこそが、彼が世界に提示している一つ目の、そして最大の嘘だ。
僕の趣味は「人間観察」という、いささか悪趣味な営みだ。
他人の内面に土足で踏み込まず、ただ遠くからその輪郭を眺めるのは、どんな贅沢な娯楽よりも知的好奇心を刺激してくれる。
駅前で、将来の不安など微塵も感じさせず笑い合う高校生たち。
街灯に照らされ、重すぎる鞄を抱えて亡霊のように歩くサラリーマン。
小麦粉の香りに包まれ、機械的にパンを並べる店員。
チョークの粉を舞わせ、神聖な教壇から知識を垂れ流す教師。
十人十色という言葉は、人間の本質を突いた、実に残酷で美しい至言だと思う。
彼らが何を思考の糧とし、何を成し、何のために今その場所に立っているのか。
その複雑に絡み合った糸を一本ずつ解き明かし、真実に肉薄することこそが、僕のライフワークであり、生存証明でもあった。
他人という名の標本を観察し続けていると、次第にその人物が持つ特有の「型」が、浮き彫りになって見えてくる。
彼、白河くんにも、隠しようのない明確な癖が存在していた。
彼は時折、会話の合間に無意識に頭をかく。
咄嗟の動作には、不安や照れといった様々な心理的要因が介在するが、彼の場合、それは紛れもなく「嘘」を吐く際に見せる拒絶のサインだった。
ただの直感だと笑われればそれまでだが、僕は自らが積み上げてきた観察の成果――この勘を決して疎かにはしない。
第六感とは、膨大な時間の中で蓄積された観察データが、無意識下で導き出す論理的な帰結に他ならないからだ。
あの放課後。
茜色に染まり始めた、静寂に包まれた教室。
彼は間違いなく、逃れようのない嘘を吐いていた。
定まらずに彷徨う視線。
そして、いつものように無意識に伸びた、頭をかく指先。
その歪な動作を目にした瞬間、僕の中で全てのピースが合致し、一つの形を成した。 僕は確信したのだ。彼の「本当」が、すぐ目の前にあるのだと。
「……正直、不安しかない。俺なんかが、神崎たちと並んで走る姿なんて想像できないし、何より……似合わないと……思うんだ」
吐き出された言葉の冒頭には、不自然なほど重い沈黙の「間」があった。
そして結びの言葉にも、断崖から足を踏み出すような危うい迷いが滲んでいる。
脳内で幾重もの思考を選別し、無難な回答だけを抽出して発言する。
その癖に、最後には言葉にできない熱い「何か」を無理やり喉の奥へと飲み込んでいる。 それに――。
「足を引っ張るのが確定してるようなもんだし」
直後に付け加えられたその言葉は、あまりに論理が破綻していた。
この学園では、入学直後の体育の授業で徹底的な基礎体力測定が実施される。
そこで記録された彼の成績は、決して悪くない。
どころか、運動部員がひしめくクラスの中でも上位に食い込む、鮮烈な数値を叩き出していたのだ。
無駄な力を排し、風を切り裂くような理にかなった走行フォーム。
僕はその、計算し尽くされたかのような美しい身のこなしを網膜に焼き付けていたからこそ、彼をリレーの選抜候補に推薦したのだ。
……まあ、建前はそうだ。
本当は、彼と一ノ瀬さんの間に通い合う、あの得体の知れない「謎」の正体を白日の下に晒したいという、僕自身の底なしの好奇心を満足させるためでもあったのだけれど。
客観的に蓄積されたデータという事実を照らし合わせれば、彼が足を引っ張る理由など、この世界のどこを探しても見当たらない。
それなのに、彼は頑なに、呪詛を吐くように自分を「無能」という名の虚像で塗り潰そうとする。
僕には、その自己犠牲にも似た歪な論理が理解できなかった。
だからこそ、僕は踏み込んで問うたのだ。
少々強引で、土足で心に踏み入るような手法だったことは否定しない。
けれど、あの瞬間の選択は、真実を求める者として何ら間違っていなかったと、今でも確信している。
自分自身に嘘を吐き、自己を欺瞞し続けて生きるのは、常人には耐え難いほどの精神的苦行だ。
たとえどれほど器用に前向きな感情を装ってみせたところで、その心の深淵には、必ず救いようのない澱のような自己否定が沈殿し、腐敗していく。
彼のような資質を持つ人間が、そんな暗い業を背負ったまま、陽の光を避けて生きる必要などどこにもない。
だから、僕はあの日、残酷なまでに彼の心の殻を抉り、抉じ開けた。
――けれど、僕が抉ったその場所は、彼にとって自分という存在を繋ぎ止めるための、最後にして唯一の砦だった。
彼は泣いていた。
声を殺し、魂を振り絞るように。
剥き出しになったその涙には、容易に言語化することを許さないほど、重く、辛い「何か」が凝縮されていた。
それでも。
痛みを伴ったとしても、やはり僕は、人は抱えた真実から目を逸らさず、それを受け入れて前を向いて生きるべきだと思う。
……さて。
あの放課後、夕闇が迫る教室で見せた彼の狼狽ぶりから推察するに、その過去には容易に癒えぬ深い傷が刻まれている。
それが、単なる過去の失敗という内面の問題なのか、あるいは信頼していた者との決定的な決裂という外的要因なのかは、まだ霧の中だ。
だが、あの拒絶反応から察するに、おそらくは後者――修復不可能なまでの人間関係の破綻が、彼の心を凍らせているのだろう。
だが、これ以上の干渉は僕の領分を越えている。
最後に自らの過去と向き合い、その因縁に決着をつけるのは、他でもない彼自身だ。
だから、僕は静かに待つことに決めた。
彼が再び、この戦場へと足を進めて戻ってきたなら、その時はまた、夜が明けるまで思う存分に言葉の刃を交わし合おう。
僕は、自分の振るった独善的な正義が、彼にとっての「正解」へ至る道だったと、今も信じて疑わないのだから。
カフェでのんびりしてるときに高校生のカップルがイチャイチャしてるのを見て私は「いいなぁ~」と思ったことがあります。
あんな青春送りたかったな~
by路地裏の猫




