一杯目:「あんたが淹れてみなさいよ」
「……え、えっと。一ノ瀬さん、ここで働いてるの?」
「……っそうよ! 悪い!? っていうかなんでアンタがここにいんのよ。学校から結構あるじゃん、ここ! なんで!?」
あー、これだ。 猫を被っていた化けの皮が剥がれ、完全にいつもの「クラスのギャル・一ノ瀬」が降臨している。矢継ぎ早に飛んでくる質問に、俺は気圧されながらも言葉を返した。
「最近、喫茶店で勉強するのにハマってるんだよ。ここを選んだのは……まあ、なんとなく、かな」
正直に答える。通り道で一週間前にオープンの看板を見かけて、混雑が落ち着くのを待って、それから――。
「偶然? 嘘でしょ、そんなことある……? ……はぁ、もういいわよ。最悪」
思考を巡らせる俺を置き去りにして、彼女は小さく毒づいた。苛立ちを隠そうともせず、手元の伝票をペンでコツコツと叩く。
「……で。何にすんのよ」
「えっと……その、メニューが、まだなくて」
恐る恐る、消え入りそうな声で指摘する。
「あぁもうっ! ……っはい! これでいい!? 早く決めてよね!」
叩きつけるように置かれたメニュー。いや、忘れたのはそっちだろう……という言葉は、般若のような彼女の形相を前に、静かに飲み込むことにした。
急かされるまま、俺はメニューをめくる。 ブレンドコーヒーにキャラメルラテ、アイスティーにゆずティー。ドリンクのラインナップは意外にも本格的だ。ページをめくると、軽食のページが目に飛び込んできた。
「食べ物とかもあるんだな……」
これ以上彼女の導火線に火をつけないよう、慎重に、会話の体裁を保ちながら呟く。
「喫茶店なんだから、あるに決まってんでしょ。……いいから早く頼んで、さっさと飲んで帰ってよね」
とてもじゃないが、客に向かって放つ言葉とは思えない。 だが、毒づく彼女の頬が、耳の付け根まで真っ赤に染まっているのを、俺は見逃さなかった。
「は、はい。ブレンドのアイス、お願いします」
頼んだのはメニューの最上段。これなら手間もかからないし、失敗も少ないだろうという、俺なりの精一杯の気遣いだった。
「……了解」
一ノ瀬さんは短くそれだけ残すと、不機嫌そうにカウンターへ消えていった。 それにしても、あの一ノ瀬さんが喫茶店で働いているなんて。学校からここまで離れた路地裏なら、確かに知り合いに見つかるリスクは低いだろう。 心を落ち着かせるために、ふと窓の外を眺める。 静かな路地裏を、野良猫が欠伸をしながら通り過ぎていく。平和だ。さっきまで般若が目の前にいたとは思えないほどに。
「……。はい、お待たせ」
不意に、不貞腐れた声と共にグラスが置かれた。 琥珀色の液体に氷が浮かぶ、見た目だけは至って普通のブレンドコーヒー。 早く帰ってほしそうな彼女の視線が痛い。俺は逃げるようにストローを咥え、一気にそれを吸い込んだ。
「……っ、っぶ、ぐっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっず!!」
あまりの衝撃に、喉が、鼻が、脳が、全力で拒絶反応を示した。 生ぬるい。そして、普通のコーヒーではお目にかかれないほどの、殺人的な渋みと泥のような苦味。 市販の一番安い粉を泥水で溶かしたとしても、ここまで酷い味にはならないはずだ。人生で初めてコーヒーを飲んだ時の「大人の苦味」なんて可愛いもの。これはもはや、精製を間違えた毒の類ではないだろうか。
「い、いやっ……! い、いまのは、その……!」
しまった。口が勝手に真実を叫んでしまった。 慌てて口を押さえたが、時すでに遅し。カウンターの向こうで、彼女の額にピキリと青筋が浮かぶのが見えた。
「い、いやー! めちゃめちゃ美味しいな、これ! 一ノ瀬さんが心を込めて(?)淹れてくれたからかな! ハハハ……!」
「……。」
目が、笑っていない。 獲物を屠る直前の猛獣のような目が、じりじりと俺の精神を削っていく。 気まずい。死ぬほど気まずい。クラスでほぼ接点のない一軍ギャル。それも、彼女の「隠したい秘密」と「致命的な欠点」を同時に踏み抜いてしまったこの状況。 一人カラオケ、一人映画、一人焼肉――「おひとり様」の試練をすべてソロで踏破してきた俺ですら、この空間の気まずさには耐えられそうになかった。
「あ、あの! お会計、お願いします!」
逃走。 そう、今の俺にできる唯一の選択肢は、この戦域からの撤退だけだった。
「……だって、やったことないんだもん」
消え入りそうな、微かな呟きだった。 顔を上げれば、そこには牙を剥いた猛獣の姿はない。あるのは、今にも泣き出しそうな、あまりにも弱々しい一人の少女の姿だ。
「し、仕方ないでしょ......! いきなり喫茶店なんて、無理だもん!」
「いきなり? ……一ノ瀬さん、今日が初めてのバイトなのか?」
そう。今日が初日なら、あの泥水のようなコーヒーも、メニュー忘れも、すべて「新人さんのミス」として微笑ましく処理できる。……だが、彼女から返ってきたのは、俺の淡い期待を粉砕する衝撃の一言だった。
「……バイトじゃないわよ。私、て……っ」
「て?」
「店長! 私が、ここの店長なのよ!」
「…………てんちょ?」
店長。 ここで、俺の脳内Wikipediaを検索してみよう。 『店長:店舗を管理・運営し、売上やスタッフを統括する総責任者のこと』。
……うん、ありえない。そんなわけがない。この「ドジっ子」の擬人化みたいなギャルが、一城の主? それとも、この喫茶店はなにかの罰ゲームか実験施設なのだろうか。
「さすがに、悪い冗談だよな……?」
「本当よ! 一週間前のオープンから、ずっと私がやってるの! ……っ、何回言わせんのよ!」
必死な彼女の様子を見るに、どうやら冗談ではなさそうだ。 ……地獄である。一週間、彼女はこのクオリティで孤軍奮闘してきたというのか。
「えっと……それは、大変……だったな」
語彙力が霧散し、ありきたりな言葉しか出てこなかった。
「大変なんてもんじゃないわよ! 無理! やめたい! コーヒーの淹れ方なんて今だにわからないし、料理も下手、掃除も苦手! オープン初日に来てくれたお客さん、みんな二度と来てくれないんだから! もうイヤっ!」
一ノ瀬さんは、溜まっていた泥を吐き出すように叫んだ。 なるほど、この客のいなさは必然だったわけだ。確かにこの味では、二度目の扉を開けるには相当の勇気、あるいはマゾヒズムが必要になる。
「た、確かに、コーヒーがこの味じゃ……リピーターは厳しいかもな」
「…………っ、じゃあアンタが淹れてみなさいよ!」
捨て台詞のように、彼女は俺を指差した。 涙目のまま、精一杯の強気で睨んでくる。その瞳は「どうせ無理でしょ」という諦めと、「誰かに助けてほしい」という悲鳴が混ざっているように見えた。
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