エピローグ
はじめまして。路地裏の猫です。ゆっくりしていってください。
初めての執筆のためご自愛ください。
放課後の気だるい西日が、埃の舞う店内に斜めから差し込み、長い影を床に落としている。
カランコロン、と乾いた乾いた音を立てて扉を開けた瞬間、焙煎された豆の深く香ばしい薫りと、紙束が焼けたようなどこか懐かしい古書の匂いが混じり合い、肺の奥まで満たしていった。
ここは時間の流れが外の世界より少しだけ遅い。
最近の俺のマイブームは、こうした静かな空間の静寂を味方に、お気に入りの一杯を供として教科書を広げることだ。
琥珀色のコーヒーが放つ苦味を選ぶ日もあれば、透き通った紅茶の華やかな香りに身を委ねる日もある。
「い、いらっしゃいませ……っ!」
唐突に響いた硬い声が、店の静謐をわずかに揺らした。
「す、すみません! い、いま手が空いてなくて……お、お好きなお席へどうぞ!」
カウンターの奥から飛んできたのは、まるで綱渡りでもしているかのような、余裕のない切羽詰まった声だ。
新人のアルバイトだろうか。
チラリと視線を向ければ、そこには華奢な背中を丸め、何やらあたふたと、まるで慣れない手つきで立ち働いている店員の後ろ姿があった。
「わかりました」
俺は短く答えると、店の一番奥、窓際の角の席を選んだ。
壁に背を預けられるこの場所なら、誰の視線も気にすることなく、自分だけの世界に没頭できる。
飴色に光る年季の入った木のテーブルには、清潔な白いクロスが丁寧に敷かれていた。
その片隅、小さな一輪挿しの中で、紫色のハーデンベルギアが午後の陽光を透かし、窓から漏れる微かな風に吹かれて、はかなげに身を揺らしている。
(……よし、今日は数学から片付けるか)
鞄から使い古した問題集を取り出し、シャープペンの芯を出す。
カチカチという小さな音が、妙に大きく響くほど店内は静まり返っていた。
しかし、その静寂を破るように、バタバタと慌ただしい足音が板張りの床を叩き、こちらへと近づいてくる。
「す、すみません。お待たせしました! ご注文、お決まりでしょうか?」
小走りでやってきた店員が、勢いよく俺の前に立った。
激しく動いたせいか、乱れた金髪が彼女の頬にかかっている。
それを細い指先で不器用に整える彼女の着こなしは、この落ち着いた喫茶店にはどこか不釣り合いだった。
糊のきいたエプロンにはアイロンの甘いシワが寄り、そこから覗く指先には、シックな内装とは正反対の派手なネイルが施されている。
……そして、何より致命的なことに、彼女の手元にはメニューがなかった。
「えーっと……」
「あ! メ、メニュー忘れた! す、すぐにお持ちしますっ!」
俺が指摘するより早く、彼女は「あ」と小さく悲鳴を上げた。
瞬時に両手で口元を覆い、首筋まで一気に朱に染めていく。
その、小動物が天敵に見つかった時のような極端な仕草に、俺の胸の奥で小さな漣が立った。
(……なんだ、この子。……ちょっと、可愛いな)
場違いな感想が脳裏をよぎり、俺は動揺を悟られないよう、慌てて視線をテーブルへと落とした。
沈黙。
気まずい沈黙が数秒、永遠のように長く感じられる。
彼女がメニューを取りに引き返すのを待っていた――その時だ。
頭上から、躊躇いがちな、けれどどこか聞き覚えのある、鈴を転がすような声が降ってきた。
「あ、あの……間違ってたら、ごめんなさい。……私たち、どこかで会ったこと、ある?」
心当たりはない。ここへ来たのは今日が初めてだ。
ナンパか、あるいはただの勘違いか。
俺は疑問を解消するため、重い瞼を上げ、ゆっくりと彼女の顔を見上げた。
西日の逆光の中に、彼女の瞳があった。
「……っ、一ノ瀬、さん……?」
驚きで心臓が跳ねた。
そこにいたのは、学校では派手なメイクと奔放な振る舞いで常に教室の中心に君臨しているはずの、クラスきっての有名人――。
俺のような影の薄い生徒とは、一生縁がないはずの「ギャル」だった。
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