十五杯目:水野日葵の場合
私は水野 日葵。
周りのみんなからは「水野」や「日葵」と呼ばれている。
少し変わったところだと「ひま」なんてあだ名で呼ばれることもあるけれど、自分でも本当に首を傾げてしまうのが、一部の男子たちが口にする「女神」という呼び名だ。
私のどこにそんな神々しい要素があるのか、鏡を見るたびに不思議で仕方がないのだけれど……。
今日は放課後、オレンジ色の西日が廊下に長く伸びる中、生徒会室へと向かった。
週に一度の定例会議がある日だ。
「すみません! 少し遅れました!」
重厚な木の扉を勢いよく開けると、室内にはすでにぴんと張り詰めた空気が満ちていた。
「遅いぞ、水野」
長机の中央、まるで玉座にでも座っているかのような威厳を放っているのは、生徒会会長の如月 雅貴先輩だ。
学業も公務も寸分の狂いなくこなす超人だが、その眼鏡の奥に光る鋭い眼光は、少し……いえ、かなりの威圧感があって、対峙するだけで背筋が伸びてしまうような怖い人だった。
「いいじゃない、雅貴。たった一分くらいなんだから。そんなにカリカリしないで、ちょっとくらい許してあげてよ」
氷のような如月先輩の隣で、ふわりと場を和ませるように微笑むのは、副会長の花見 舞先輩だ。
包容力に満ちた優しいお姉さんといった雰囲気で、私のような後輩にも常に平等に接してくれる。
全校生徒の男子から絶大な支持を得ているという噂も、先輩の放つどこか大人の色香を間近で見ていると、至極当然のことのように納得できてしまう。
「遅刻は遅刻だ。一秒の妥協が全体の規律を乱す」
如月先輩が直々に引き抜いて副会長に据えたと聞いているけれど、この北風と太陽のように正反対な二人が、一体どのような信頼関係で結ばれているのか。
末端の役員である私には、まだ計り知れない深淵があるように感じられた。
「……全員揃ったようですし、始めましょうか」
私の正面に座る書記の田口 祐樹くんが、手元のタブレットに視線を落としながら、落ち着いた声で進行を促した。
彼は隣の二組の生徒で、生徒会の業務以外で言葉を交わす機会は少ないけれど、その仕事ぶりの速さと誠実さは誰もが認めるところだ。
「今日は各部門の進捗報告会だ。体育祭、および文化祭の最新情報を共有する」
学校全体の行事が円滑に進むよう、各クラスや委員会の動きを把握し、バランスを調整する。
それもまた、生徒会の重要な責務の一つ。
直近に控えた体育祭は、舞先輩と私の女子チームが担当。
そして二ヶ月先の文化祭は、如月先輩と田口くんの男子チームが舵取りを担っている。
「まずは体育祭の進捗からね」
舞先輩が資料の束を指先でめくり、鈴を転がすような透き通った声で会議を切り出した。
「各クラスの出場枠の登録は、ほぼ予定通り埋まってきているわ。懸念されていた三年三組のリレー枠だけ少し難航していたみたいだけど、それも明日には確定するそうよ」
「そうか。遅れを取り戻したようだな。……会場の設営準備はどうなっている?」
如月先輩の問いかけに、舞先輩は淀みなく答える。
会場の予約自体は学校側が済ませているが、当日の機材配置や導線の確保はすべて生徒会の手腕に一任されているのだ。
「今年も例年通りの外部施設を確保できたわ。開催前日に、私たち生徒会役員と体育委員、それから手の空いている各運動部の子たちに協力してもらって、一気に設営を完了させるつもりよ」
「よし。設営の段階で不備が出ないよう、あらゆる不測の事態を想定して備えておいてくれ」
「りょーかい」
体育祭の審議が一段落し、議題はより重い課題である文化祭へと移る。
途端に、室内の空気が一段と重みを増した。
「文化祭の状況ですが……正直に申し上げまして、現時点ではどのクラスも出し物の内容が定まっていません」
田口くんが困惑を隠せない様子で報告する。
私の親友の莉愛からも、連日のように溜息混じりの愚痴を聞かされていた。
彼女の苦労は、想像に難くない。
何せ今年は、絶対的な権限を持つ如月先輩が「例年までの焼き増しを一切禁じる、イレギュラーなテーマ」を突如として掲げてしまったからだ。
「でしょうね。雅貴が独断であんな無茶苦茶なテーマを押し付けるからよ」
舞先輩が如月先輩をジロリと射抜くように睨みつける。
生徒たちの代弁者として、この鉄の意志を持つ会長に真っ向から意見をぶつけられるのは、学内広しといえど舞先輩くらいのものだろう。
「……反発は想定内だ。凡庸な発想を壊さなければ、真の創造は生まれない。問題は決定に至るまでの期限だが……舞、いつまでが妥当だと考える?」
生徒会に籍を置くまでは、如月先輩は何でも一人で冷徹に決めてしまう独裁者なのだと思い込んでいた。
けれど、実際にそばで働いてみると、意外にも先輩は他人の能力を正当に評価し、頼るべきところでは迷わず人を頼る。
特に舞先輩の言葉には、たとえそれが手厳しい批判であっても、必ず真摯に耳を傾ける一面を、私は知っていた。
「雅貴のせいで私たちのクラスも大混乱なんだから。あと一ヶ月は猶予が必要ね」
「……内容にもよるが、一ヶ月あれば準備は間に合うか。よし、それでいく」
淡々と、けれど確実に予定が決まっていく。
いつもこんな風に、二人の呼吸で生徒会は回っている。
そして、一度も失敗したことがない。
厳格な如月先輩と、それを柳のように受け流しながら最適解を導き出す舞先輩。
やっぱり、この二人はすごい。
その後も細かな議題をいくつか消化し、今日の会議は幕を閉じた。
重苦しい空気から解放され、生徒会室を出て廊下を歩いていると、不意に背後から低く響く声に呼び止められた。
「水野」
びくっと肩を震わせ、私は慌てて振り返る。
「はい。如月先輩、どうかしましたか?」
「お前のクラス……四組の様子はどうだ?」
「クラス、ですか? いつも通り、賑やかで普通ですけど……何か気になることでも?」
「いや。最初の文化祭会議の時、私に正面から意見を言ってきた者がいてな」
意外だった。
あの威圧感の塊のような如月先輩に、物怖じせず意見をぶつけるなんて……。
クラスの文化委員、女子。
脳裏に真っ先に浮かんだのは、凛とした表情で前を見据える親友の姿だった。
(……莉愛だ。間違いない)
「す、すみません! あの子、少し気が強いところがあって……今度私からも注意を――」
「いや、そうじゃない。私に意見を具申する者は滅多にいない。胆力のある、優秀な人材だと思っただけだ。……それともう一人、隣にいた男子。彼も良さそうだ。自分の立ち位置を理解し、周りをよく観察している。そんな二人が揃っているクラスが、どう動くのか気になってな」
如月先輩が、自分以外の生徒をこれほど明確に褒めるなんて、聞いたことがなかった。
莉愛と、白河君。
あの如月先輩に「優秀」だと言わしめる二人が文化委員を引き受けてくれたのは、この高難易度なテーマに挑む私たちのクラスにとって、最大の幸運だったのかもしれない。
けれど、その絶妙なバランスを保っていたはずの片翼は、今――。
「如月先輩が人を褒めるところなんて、初めて見ました。……そうですね、みんな協力的なので、形にはなると思います。ただ、今、文化委員の白河君が風邪で学校を休んでいて。話し合いが少し止まってしまっているんです」
「そうか。……風邪なら仕方がないな。早く治るといいが」
如月先輩はそう短く結ぶと、いつもの無表情に戻り、それ以上の追及はしなかった。 担任の浅野先生も、蓮君たちも、みんな風邪だと言っていた。
白河君、相当しんどいのかな。
学校ではあんなに淡々と仕事をこなしていた彼がいないだけで、クラスの空気がどこか落ち着かない気がするのは、きっと私だけじゃないはずだ。
「そうですね。……では、私はこれで失礼します」
「ああ」
私は如月先輩に軽く一礼して背を向けると、静まり返った廊下を歩き出した。
風邪、か。
そういえば今日の昼休み、蓮君と怜君の間にも、なんだか変な空気が流れていた気がする。
二人はずっと一緒にいる大親友だから、喧嘩なんてしないだろうけど……。
でも、今日の怜君、確かにどこか様子が変だった。
あの聡明で、常に周囲の状況を把握している怜君が、あんなに上の空になるなんて。
そんな考え事をしながら教室に戻って荷物をまとめ、校門を出る。
太陽はすでに沈みかけ、群青色に染まり始めた空には、白く冷たい月がひっそりと顔を出していた。
明日には、あの席に誰かが座っているだろうか。
それとも、まだパズルの欠片を失ったような、あの違和感が続くのだろうか。
私は少しだけ肌寒くなった夜風に肩をすくめ、家路を急いだ。
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