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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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十四杯目:神崎蓮の場合

「なあ神崎! 今日はどうした! いつものキレがねえぞ!」    


 サッカー部の練習中、短いインターバルの静寂を破って、キャプテンの先輩が呆れたような、けれどどこか心配そうな声をかけてきた。

 肩で息をしながら顔を上げると、先輩がこちらを真っ直ぐに見据えている。


「……すみません先輩。ちょっと、考え事をしてて」


「あの神崎が悩み事か? はっ! 明日は槍でも降るんじゃねえか?」


「……降らないっすよ、先輩。地面が痛むだけです」


 軽口で適当に受け流しながら、ボトルの水を一気に喉へと流し込む。  

 キンと冷えた感触が食道を通って胸の奥へと落ちていくが、脳裏にこびりついたもやもやとした霧は、一向に晴れる気配を見せない。


 白河が学校に来なくなってから、今日で三日が経った。  

 花ちゃんの話では、表向きの理由は「風邪」ということになっている。  


 三日。  


 確かに季節の変わり目だ。

 体調を崩し、熱が引かずにこじらせてしまえば、それくらいの期間を欠席すること自体は珍しい話ではない。  

 だが、俺の胸の中には、拭い去れない泥のような違和感が沈殿していた。  

 その正体の一端に触れてしまったのは、今日の昼休み……いつもと変わらないはずの、あの教室での会話だった。



―――――――――――――――――――――――――



「白河くん、大丈夫かなぁ……」


 昼下がりの柔らかな光が差し込む教室。

 日葵が、ぽっかりと穴が空いたように無人となった白河の席を見つめ、困ったように眉を下げて零した。

 その声には、彼女らしい純粋な懸念が滲んでいる。


「あー、確かに。今日でもう三日目だもんな」


 俺は椅子に深く背をもたれかけながら応じた。

 心配はしているものの、この時の俺の心境は「まぁ、こじらせれば三日くらいはあるだろ」という、どこか他人事のような楽観的なマインドに支配されていた。  

 この時の俺は、まだ知らなかった。

 事態が、ただの「体調不良」という枠組みをとうに超えてしまっていることに。


「……白河がいないから、今日の文化委員の集まり、めちゃくちゃ疲れた。あいつ、口では文句言いながら、意外と細かい仕事まで全部回してたんだって痛感したよ」


「莉愛はえらいよぉ! よーしよし、よく頑張ったねー、莉愛ちゃん!」


「ちょっ、珊瑚! 頭撫でるなってば……子供扱いしないで……っ!」


 疲労困憊といった様子で愚痴をこぼす莉愛に、ここぞとばかりに背後から絡みつく珊瑚。  その光景は、さながら大きな猫にじゃれつかれる小動物のようで、沈みがちだった教室の一角に、一瞬だけ穏やかな空気が流れた。

 莉愛本人は、自分がクラスメイトから小動物のように愛でられているなんて、微塵も思っていないだろうが。


「こんだけ長引くってことは、インフルとかか? 流行り出しとかさ」


 山波が、ふと思い当たったように顎をさすりながら口にする。  

 確かに、あり得ない話ではない。

 今日で三日目。

 普通の風邪ならば、そろそろ峠を越えて回復の兆しが見えていてもおかしくない時期だ。  

 ……けれど、今は九月。


 まだ夏のしつこい残暑が校舎の隅々にまで居座り、肌を焼くようなこの時期に、インフルエンザなんてものがそう簡単に流行り出すだろうか?  

 こういう時、最も頼りになるのは怜だ。

 あいつはなぜか、医学的な知識や生活雑学のような、およそ高校生が詳しくなさそうな分野にも妙に精通している。


「……怜。どうなんだ? 九月にインフルなんて、実際あり得るのか?」


「おい、怜! 怜さーん、聞こえてるかー?」

 俺は椅子から身を乗り出し、怜の至近距離に顔を割り込ませた。

 視界を遮るようにひらひらと大きく手を振ってみせる。  

 いつもなら、これで「……なんだい、蓮。至近距離に顔を近づけるのは非合理的だよ」と、いつもの怜らしい理屈っぽくも苦笑まじりの反応が即座に返ってくる――はずだった。


 だが、今日の怜は、俺の知る彼とは決定的に違っていた。  

 目の前で俺がどれだけ派手に手を振っても、その焦点の合わない深い瞳は、ただ一点、何もない虚空を執拗に見つめ続けている。  

 それは単なるぼんやりとした思考ではない。

 まるで、ここではない『どこか』、あるいは昨日の放課後の教室といった特定の時間軸で起きた出来事を、ビデオのテープを巻き戻すように何度も何度も、恐ろしい精度で頭の中で反芻しているかのような、異様なまでの没頭だった。


「ひょうの怜君、ふごく考え事しへるね」



 琥珀が、頬袋を膨らませたリスのように購買のパンを口いっぱいに頬張りながら、もごもごと喋る。

 咀嚼音とともに放たれたその言葉は、ある意味で今の怜を正確に言い表していた。  


 琥珀の言う通り、これほどまでに周囲の気配を完全にシャットアウトし、我を忘れて思考の深淵に潜り込んでいる怜は本当に珍しい。  

 というか、俺の記憶をどれだけ遡っても、こんな姿は見たことがない。

 入学してからずっとこいつの隣に座り、その完璧主義で隙のない立ち振る舞いを見てきたが、怜が周囲の声をこれほど長い間、物理的に遮断するなんて、一度だってなかったはずだ。


「おい、怜! 聞いてるのか、いい加減にしろ!」


 俺はしびれを切らし、怜の端正な肩を強めに掴んで、前後にガクガクと揺さぶった。   そこでようやく、磨き抜かれた硝子細工のようなあいつの瞳に、現実の世界を捉える明瞭な光が戻る。


「……? どうかした、蓮?」


「『どうかした?』じゃねえよ! 怜の方こそ一体どうしたんだ? さっきから何度呼んでも、生返事どころかピクリとも反応しなかったぞ」


「ああ……すまない。少し考え事をしていてね。意識が逸れていたよ。……で、何の話だい?」


 ……少し、なんてレベルじゃなかった。

 教室の空気さえ凍りつかせるような、あの冷徹な集中力をこんなところで発揮するなんて。  

 俺は半ば呆れ、大きなため息とともに肺の中の空気を吐き出し、中断していた会話を無理やり再開させる。


「だから、今の時期にインフルエンザなんてあり得るのかって話だよ。お前なら医学的なデータとか、そういう論文的な知識も持ってるかと思ってな」


「インフル? 誰が? ……一体、何の話をしているんだい?」


「何の話って、白河の話だよ。あいつ、今日でもう三日も学校を休んでるだろ。ただの風邪にしちゃ長引いてるから、山波がインフルじゃないかって」


 本当に、まるっきり会話の断片すら耳に入っていなかったらしい。  

 怜はまだ状況が完全には飲み込めていない様子で、真っ白なキャンバスのような不思議そうな顔をして、わずかに首を傾げた。


「白河くんが? ……どうして?」


 九条の口から漏れたその言葉が、静かな昼休みの空気に波紋のように広がった。  

 その瞬間だった。

 俺の胸の奥を、正体不明のどす黒い違和感がチリリと焼いた。

 背筋の産毛が逆立つような、本能的なアラート。


(……今の怜の反応、何だ?)


 心臓の鼓動が、一際大きく脈打つ。  

 白河は「風邪」で休んでいる。

 それは担任の花ちゃんが朝のホームルームで告げたことであり、クラスの誰もが共有している、疑いようのない「事実」のはずだ。  


 だというのに、今の怜の反応はどうだ。

 白河が欠席している理由を初めて聞いたかのような、純粋すぎる驚き。

 あるいは、あいつが風邪などという平穏な理由で姿を消すはずがないと、その根底から疑っているような……。


 窓から差し込む、夏の余韻を孕んだ熱い光。  

 その光に照らされた九条の横顔は、いつもと変わらず端正で美しい。

 けれど、そこには確かに、決定的な「ズレ」が生じていた。  

 まるで、俺たちが見ている世界と、九条だけが見ている世界のパズルのピースが、どこか一箇所だけ絶望的に噛み合っていないような――。


 そんな、言葉にできないほど不気味で重苦しい空気が、俺と九条の間を静かに浸食していった。



―――――――――――――――――――――――――



「そんな調子だと、いつかサブに落ちるぞ? ま、お前なら天地がひっくり返ってもないだろうけどな」


 練習の合間、冷水機から噴き出す冷たい水で乾いた喉を潤していると、先輩が不敵な笑みを浮かべて肩を叩いてきた。

 その言葉には冗談半分の響きがあったが、今の俺のコンディションを見抜いた上での鋭い警告のようにも聞こえた。


 ……ああ、全くだ。


 否定はできない。  

 ピッチの上でまで別の場所へ意識を飛ばしているようじゃ、先輩の言う通り、盤石だと思われているレギュラーの座だって危ういかもしれない。


 俺は、サッカーを心から愛している。  

 物心ついた小学生の頃から、日が暮れるまで泥にまみれてボールを追い続け、ひたすらゴールを奪う快感に突き動かされてきた。

 今では周囲から『星城海原の得点王』なんて大仰な二つ名で呼ばれることもある。  


 だが正直に言えば、その呼び名はあまり好きじゃない。  

 サッカーはどこまでいってもチームスポーツだ。

 俺一人がどれだけ走っても、後ろで守り、中盤で繋いでくれる仲間がいなければ一点だって獲れはしない。

 その二つ名は、俺たちの血の滲むような連携を否定し、個人の手柄に集約されているような気がして、耳にするたびいつも少しだけ胸がざわついた。


 だが、今の俺を支配しているのは、得点への渇望以上に、白河奏という存在に対する得体の知れない懸念だった。  

 白河を初めて明確に認識したのは、このクラスになってすぐの頃だ。  

 たまに菊池とぼそぼそと話しているのは見かけたが、基本的には教室の隅で一人、風景の一部のように佇んでいる男。

 成績は中の上、運動神経も至って平均的。  

 ……あえて言葉を選ばずに言えば、どこにでもいる、代わりのいくらでもきく「普通の人間」だと思っていた。


 ところが、最近はどうだ。  

 九月に入ってからというもの、気づけばクラスの会話の中心に、あいつの名前が頻繁にのぼるようになっている。

 リレーのアンカーという、正気とは思えない大役への抜擢。

 文化祭の準備における莉愛の献身的なサポート。  

 あの琥珀とも、いつの間にか妙に親密な距離感を築いているようだし……珊瑚は誰にでも絡むから例外だとしても、本来なら交わるはずのなかった一軍の輪の中に、あいつはいつの間にか、まるで最初からそこにいたかのように自然と溶け込んでいる。


 そして、今日の昼休みに見た、あの怜の不可解な反応。  

 あいつが白河の欠席に対して見せた、底知れない違和感。


 俺は、胸の奥に澱のように溜まった、この正体不明のモヤモヤを強引に振り払うように、激しく頭を振った。  


 雑念を捨てろ。

 今は、芝の上で転がる目の前の白いボールにだけ、全ての神経を注ぎ込むんだ。


「……っし、お願いします!」


 夕闇が迫るグラウンドに、練習再開を告げる鋭い笛の音が鳴り響く。  

 俺は重くなった足を無理やり動かし、再び熱を帯びた戦場へと駆け出していった。


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