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「クラスのギャル、放課後は喫茶店で不器用マスターやってます。」  作者: 路地裏の猫


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十三杯目:一ノ瀬琥珀の場合

 白河が学校から姿を消して、今日で三日が経った。


 最初は、クラスの誰もが深刻な事態だなんて思ってもいなかった。

 いつも背景に溶け込んでいるような彼のことだ。

 数日休んだところで、季節外れの風邪でも引いたのだろうと、その程度の認識。 ――そして、情けないことに、私もその中の一人だった。


 花ちゃんも「あいつ、風邪だ」と、いつも通りの軽い調子で言っていたから、余計に深く考えもしなかった。

 けれど、胸の奥には、刺さった棘のような小さく、けれど確かな違和感がずっと居座っていた。


 始まりは、あの放課後だ。

 体育祭のオーダーや文化祭の難題について、熱を帯びた議論を交わしたあの日。


 本来なら、白河はいつも通りに私と一緒にこの喫茶店へ来る予定だった。

 でも、彼は来なかった。

 今まで一度だって無断で欠勤したり、面倒だからとサボったりしたことのない白河が、何の連絡も寄越さず店を休むなんて、これまでの彼からは到底考えられないことだった。

 最初は、それこそ事故にでも遭ったんじゃないかと、心臓が冷たくなるほど心配したけれど。


 ようやく届いた返信は、「風邪を引いてしまいました。無断で休んでしまってごめんなさい」という短いもの。

 その文字面を見て、私は花ちゃんの言葉が正しかったのだと自分を納得させ、一度は安堵したはずだった。


 けれど、やっぱり違和感は拭えない。

 スマホの画面越しに伝わってくる白河のメッセージは、いつもこんなに硬く、冷たいものじゃなかった。


 普段の彼なら「風邪引いた。ごめん無断で休んで」とか、もっと肩の力が抜けた、気心の知れた距離感で送ってくるはずなのだ。


 こんな、敬語を混ぜたような他人行儀で丁寧な送り方は、白河奏という人間なら絶対にしない。

 それはまるで、明確に線を引き、他人との距離を置きたがっているような。

 これ以上こちらに踏み込ませないよう、静かに拒絶しているような……そんな、冷ややかな感触。


「……大丈夫かな、白河……」


 誰もいない喫茶店のカウンターで、独り言が空気に溶ける。

 慣れない手つきで、彼がいつも淹れてくれるようにコーヒーをドリップする。

 珍しく、お湯の温度も蒸らしの時間も、完璧に上手くいった。


「……白河にも、飲んで欲しかったなー」



 完成した一杯を口に含む。

 舌の上に広がるのは、いつも通りの、慣れ親しんだ豆の香り。

 味自体は、彼が淹れるものと遜色ないほど見事に仕上がっている。


 ただ、決定的に違うのは。


 隣で憎まれ口を叩いたり、私の淹れ方に細かなダメ出しをしてくる彼が、そこにはいないということだけ。

 店内に流れるのは、彼と出会う前の、あの無機質でどこか空虚な静けさ。

 一人で店を切り盛りしていた頃は、これが当たり前だったはずなのに。


(私は……この場所は、彼という存在に救われていたんだな)


 今さら気付かされる。

 彼がいるだけで、この古びた空間には鮮やかな色彩と温度が宿っていたのだと。

 静寂が耳の奥で鳴り響く。

 そのせいなのか、喉を通るコーヒーは、いつもよりずっと苦く感じられた。



―――――――――――――――――――――――――



「今日はいつもと違って、彼がいないんだね」


 穏やかな声が、静まり返った店内に波紋のように広がった。


「あ……はい。ごめんなさい。風邪をこじらせちゃったみたいで……。私も、ちょっと心配してるんですけどね」


 カチャン、と。  

 磁器の触れ合う乾いた音が、やけに鮮明に響き渡る。  

 今日も足を運んでくれたのは、常連のあのお爺さんだ。

 注文はいつも通りのカフェラテ。

 隣で白河に口うるさく指導されながら、何度も、それこそ嫌になるほど練習を繰り返したメニューだ。

 その甲斐あって、今では白河がいない時でも、自信を持って出せるほど美味しく作れるようになっていた。


「風邪なんだね。早く治るといいんだけどねぇ、あの子も」


「はい……本当に。私も、心からそう思います」


 私が差し出したカフェラテを、お爺さんがゆっくりとスプーンで混ぜる。  

 ふと見ると、お爺さんは珍しくシュガーポットに手を伸ばした。

 いつもはブラックに近いその味をそのまま楽しむ人なのに、今日は何故か、甘さを求めているようだった。



 タピオカ屋さんや有名なコーヒー屋さん。

 莉愛や珊瑚といったいつもの面々と遊びに行くときは、私もよく大量の砂糖やシロップをぶち込む。

 甘いものは、心を少しだけ軽くしてくれるから。


(そういえば、最近は日葵とも遊んでないなぁ……)  


 ふと親友の顔が浮かぶ。

 彼女は彼女で生徒会だ何だと忙しい身だし、こればかりは仕方ないことだと自分に言い聞かせた。


「……心配かい?」


「……えっ!」


 不意を突かれ、自分でも驚くほど可愛らしい、間の抜けた声が漏れてしまった。  

 カウンターの向こうでカフェラテの湯気を見つめながら、ぼんやりと考えていた思考の隙間に、予期せぬ質問が滑り込んできた。


「いつも二人が当たり前だったからねぇ。一人だと、やっぱり心配でしょう?」


「……そんなに、そう見えますかねぇ、私」


 誤魔化すように、長く手入れされた琥珀色の髪を指先に巻き付け、くるくると弄る。

 頬に微かな熱が宿るのを感じた。


「なんとなくだよ。今日の君は、いつもより少しだけ……元気が足りない気がしたから」


「…………心配です。正直、今までこんなこと、一度もなかったので」


 言葉にすると、胸の奥に溜まっていた重たい塊が、少しだけ外に漏れ出した。  

 白河は、例え不機嫌な時でも、こんな投げ出すような休み方をする男ではなかった。

 私はカウンターの下で、こっそりと白河に送ったメッセージ画面を開く。  

 無機質な「既読」という二文字だけが、液晶の中で冷たく光っている。

 そこから先、彼からの言葉は一文字も返ってきていない。


「……大変だねぇ、高校生というのも」


「……え?」


 お爺さんが何か、慈しむような、あるいは懐かしむような独り言を溢したように聞こえた。

 けれど、聞き返そうと顔を上げると、お爺さんはただ穏やかにラテを口に運んでいるだけで。

 気のせいか、私の空耳だったのかもしれない。


 あの日、あの放課後の断絶から、私は幾度となく白河に連絡を入れていた。

 『大丈夫?』 『元気になった?』 『まだ風邪長引いてる?』  

 画面をスクロールしても、並んでいるのは私の青い吹き出しばかり。

 返事は、ない。


(きっと……声も出ないくらい、しんどいんだろうな……)  


 私も、風邪という存在は大嫌いだ。

 ズキズキと脈打つような頭痛、止まらない鼻水。  

 体温は不自然に熱く、泥の中にいるように体が重くて、指一本動かすのも億劫になるあの感覚。  

 想像するだけで、思わず「うぇっ」と眉間に皺を寄せ、しかめっ面になってしまう。


 でも、もしその苦しみが風邪のせいだけじゃなかったとしたら――。  

 窓の外、夕闇が迫る街並みを眺めながら、私は拭いきれない不安をコーヒーと一緒に飲み込んだ。


 もちろん、リレーの選抜グループLINEでも、白河からの反応は一切なかった。

 神崎や九条が投げかける練習日程の相談も、彼が加わった瞬間に止まったままの時計のように、静かに未読と既読の数字だけを増やしていく。


 私は藁にも縋る思いで莉愛にも連絡を入れた。

 彼女は文化祭の実行委員で白河と一緒だから、何か私が知らない事情を掴んでいるんじゃないかと思ったのだ。

 けれど、莉愛からも「こっちにも連絡ないよ。風邪、相当重いんじゃない?」という、不安を助長させるような返信が返ってきただけだった。


「店長さん。ご馳走様でした。お金、ここに置いておくからね。……また来るよ」


 思考の泥沼に足を取られていた私は、お爺さんが席を立ち、会計を済ませようとしていることにさえ気づかなかった。

 ハッと意識が現実に戻ったときには、カランコロンと乾いた鈴の音を立てて扉が開き、遠ざかっていくお爺さんの小さくなった後ろ姿が見えるだけだった。


「あ、あ……ありがとうございました! またお待ちしてます!」


 慌てて声を張り上げたが、その声は夕暮れの街の音に吸い込まれていった。


(……もう、私のダメなところが全部出ちゃってる。しっかりしなきゃ、集中しなさい一ノ瀬琥珀!)


 自分を鼓舞するように頬を両手でパチンと叩き、私は心機一転、料理の練習をすることにした。

 選んだメニューは、喫茶店の定番にして王道、オムライスだ。

 大人も子供も、そして何よりこの私が三度の飯より大好きな、あの輝かしい一皿。


「よしっ!」


 気合を入れるためにエプロンの紐をいつもより少しきつく締め直し、意気揚々とキッチンに立つ。


「えーっと、まずは下準備……。なになに、ケチャップ大さじ一杯? ……ちょ、大さじって何! どのスプーンのことー!」


 白河という「歩く説明書」がいないキッチンは、私にとって文字通りの地獄だった。

 数分後には、床には飛び散った油の斑点が広がり、シンクには殻が不自然に散らばった卵の残骸。

 ケチャップのキャップはどこかへ転がり、炊飯器からは蒸気が逃げ放題。

 レシピを片手に格闘する私の背後は、さながら戦場のようだった。

 ネットで検索し、一番上に表示された「初心者でも簡単!ふわふわパッカーンオムライス」という魅力的な見出し。

 添えられた写真には、ナイフを入れた瞬間に中から半熟の卵がとろりと溢れ出す、芸術品のようなオムライスが写っていた。


「おいしそう……」


 その写真に目を輝かせながらも、私は改めて白河奏という存在の偉大さを、骨の髄まで実感していた。

 包丁の持ち方さえ危うい私に、嫌な顔をしながらも(実際はかなり嫌そうな顔をしていたけれど)、夜遅くまで根気強く付き合ってくれるあの忍耐強さ。


「……やっぱり優しいんだよ、白河は」


 気づけば、そんな独り言がこぼれていた。


 さて、目の前の問題に戻る。

 最大の壁は「大さじ」という概念だった。

 見たところ計量用のスプーンがあるようだが、うちのキッチンの引き出しには形も深さもバラバラなスプーンが何種類も眠っている。

 一体どれを使えば「大さじ」として認められるのか。

 まさか、レシピの作者と同じメーカーのスプーンを買わなければならないのか?


 疑問は尽きず、一つ解決した(と思い込む)先には、また新たな謎が降りかかる。


「あぁーもう! 白河! 助けてよー!」


 どれだけ情けなく叫んだところで、いつものように呆れた溜息をつきながら助け舟を出してくれる彼は現れない。

 今となっては、彼に出会うまでどうやってこの店を一人で切り盛りしていたのかさえ、思い出せなくなっていた。

 もし、あの日彼と出会わなかったら。

 もし、強引に彼をバイトに誘わなかったら。


「私、今まで一人でどうやって生きてたんだろう……」


 まずは玉ねぎのカットから。

 職人のような鮮やかな手捌きなんて夢のまた夢。

 私は錆びついたロボットのように、おっかなびっくり包丁を動かし、不揃いな塊を生成していく。


「うっ! 目が痛いぃー! 沁みる、これ絶対何かの攻撃だよぅ……」


 涙で滲む目をこすりながら、なんとか玉ねぎをみじん切り(自称)にし、次は鶏肉の出番だ。

 レシピには「一口大より小さく」と書かれている。


「小さくってこれくらいかな? お人形さんのご飯サイズ?」


 試行錯誤の末に切り刻まれた鶏肉は、もはや原型を留めていなかった。

 だが、山場はここからだった。


「なになにー。ごはんと具材を炒めて、その次に卵。……え、卵だけ? 焼くだけじゃん! これで終わり? 意外と簡単じゃーん!」


 一ノ瀬琥珀は、致命的な勘違いをしていた。

 この料理の名を思い出してほしい。

「ふわふわパッカーン」である。

 それは緻密な温度計算と、熟練のフライパン捌きがあって初めて成立する奇跡の形態なのだ。

 しかし彼女は、単に卵を流し込めば魔法のようにあの形になると信じて疑わなかった。


 ……。


 案の定、皿の上に鎮座したのは、お世辞にも食欲をそそるとは言い難い「何か」だった。  チキンライスは水気を吸いすぎてべちゃべちゃの泥濘のよう。

 上に乗った卵はパッカーンどころか、火が通りすぎてカチカチの、しかも所々が焦げて真っ黒な炭のパッチワーク。


「で、でも! 味さえおいしければ、見た目なんて関係ないもんね!」


 自分に言い聞かせ、震える手でスプーンを運び、一口食べる。


「…………うぇっ」


 ……わかってた。

 ……口に入れた瞬間に広がる焦げ臭さと、味の薄いご飯のハーモニー。美味しくないなんて、食べる前から細胞レベルで察知してた。

 謎のプライドだけは高い私は、「知ってたし! 最初からこういう実験だったし!」という、自分でも意味不明な理論を展開して、なんとか正気を保った。


 でも、実際何がいけなかったのか。

 レシピ通りにやったはずだ。

 途中に出てきた「フライパンをトントン叩く」とか「余熱で半熟に」とか、よくわからない専門用語は無視して突き進んだけど、私なりに全力を尽くしたのに。

 理不尽な結果への疑問が、波のように彼女を襲う。


「ああーもうやめ! 今日はこれでおしまい! 人生、切り替えが大事なんだから!」


 慣れない掃除に取り掛かり、数分後。

 割ってしまった皿の破片をこっそりゴミ箱の奥に隠しつつ、「ふぅ」と大きく一息をついた。


「白河、あんたがいないと、私なんにもできないよ。……おばあちゃん、私、どうしよう……」


 換気扇の低い回転音だけが響く静かな店内に、弱々しい本音が漏れ出す。


「いや! 弱気になっちゃダメ! あいつが元気になって戻ってきたとき、気持ちよく仕事ができるように私が頑張らなきゃ!」


 白河が今、何を考え、どんな暗闇にいるのかは私にはわからない。

 でも、それでも彼は大切なクラスメイトで、この喫茶店の欠かせない仲間で、たった一人の――友達で。


「……あれ? 私、今なんて言おうとしたんだっけ?」


 喉元まで出かかった別の言葉を、私は自分でも気づかないふりをして飲み込んだ。

  一ノ瀬琥珀は今日も、窓の向こうの暗闇を見つめながら、白河奏の帰りを待つ。

 いつものように隣で小言を言ってくれる、そんな当たり前だった日常を。

 不器用な自分を、そっと支えてくれていた彼の体温を。


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