第6話 唇に触れる温度
『ブルー・アンド・スカーレット』
通称ブルスカは、キスシーンが多く描かれている。
フィンとノア、そしてヴァルドとルカ。原作ではそれぞれの愛を確かめ合うためにキスを交わしていた。
俺は原作を読んでいるとき、キスシーンを読んでも深く考えていなかったのだ。
まさかそのキスを、俺自身が経験することになると、どうしてか想像が及んでいなかった。
演出家に聞いたところ、フィンとノアはキスシーンを1回。
そしてヴァルドとルカは、キスシーンを3回入れたいらしい。
どうして俺たちの方が多いのか。それにも理由がある。
フィンとノアは、主人公カップルらしい、誠実な愛を育むカップルだ。
それに比べてヴァルドとルカは、互いの目的と欲望のために近づき、次第に狂おしい愛へと変わっていくカップルである。
前者は気軽にキスをしないけれど、後者は違う。
ヴァルドはルカと出会ってすぐに、自分の部屋へルカを連れ込む。
ベッドへ押し倒されても、ルカは動じることなくヴァルドへ誘惑的なキスを贈る。
そうして二人は、互いを利用するように愛し合うことになるのだ。
これが最初のキスシーン。
しかし共に時間を過ごすことで、ルカはヴァルドの弱い一面を知ることになる。
そしてその弱さが自分と似ていることを知り、ルカはヴァルドに寄り添い共に生きることを決める。
ヴァルドもそんなルカを心から愛し、二人は互いの気持ちを確かめるようにキスを交わす。
これが2回目のキスシーン。
最終局面、ヴァルドはルカを選び剣を捨て、国を捨てることを選ぶ。
死地へ赴く別れ際、二人は永遠の愛の誓いと、別れを惜しむように涙を流しながら熱いキスをする。
これが、3回目のキスシーンだ。
3回とも、全て意味が異なるキスになる。
キスの変化によって、二人の関係性も変化していることを表現しなくてはならない。
そう、俺は3回のキスシーン、それぞれで異なる演技を魅せる必要があった。
何故ならキスは、ヴァルドとルカの二人にとって、最大の見せ場と言っていい。
けれど、俺には致命的な問題があった。
「キスをしたことが、ない?」
暁さんの確認に、俺は無言でコクコクと頷く。
稽古終わりに、俺は暁さんを誘って居酒屋へ来ていた。
俺は生ビールを一杯飲み干して、ようやくその話題を口にすることができる。
一方、俺の向かいの席に座る暁さんは、カルピスを飲みながら訝しげに俺を見ていた。
「……恋人は?」
「い、いたことはありますけど、キスはしたことなくて」
「セックスは?」
「キスしてないんだからするわけないでしょう!?」
「じゃあそれは恋人にカウントするな」
俺はショックを受けて固まった。
彼女なし、キス未経験、童貞。それが俺のステータスだと突きつけられる。
暁さんは、呆れたように俺を見ていた。
突然深刻な顔の俺から食事へ誘われて、きっと何事だと思ったに違いない。
しかし蓋を開けてみれば、暁さんにとってはなんて事ない悩みだったのだろう。
でも、俺にとっては大きな問題だ。
キスをしたこともない俺がキスで演技をするなんて、サッカー選手がホームランを打つくらい大変なことに思えた。
暁さんは、手元の料理を箸で突きながら、少し言い辛そうにこう尋ねてくる。
「つまり鳴海は、好きでもない相手と演技で初めてのキスを済ますことに、抵抗があるわけだ」
「え、全然違います」
俺は的外れな暁さんの見解を、食い気味に否定して首を左右へ振る。
すると暁さんは、驚いたように目を見開いていた。
本当に、俺がそんな初心な少女のような考えを持っていると思ったのだろうか。
初めてのキスは好きな人としたいなんて、そんな考えは初めから持ち合わせていない。
俺の不安は、もっと現実的なことだ。
「キスをしたことがないので、どうやって演技をしたら良いのか自信がなくて……」
「……はあ」
「だってルカは、シーンによってキスをする時の感情が違うでしょう? キスで感情を表現するなんて、もう俺には難易度が高過ぎて……」
そう言いながら、俺は店員さんが運んできてくれたレモンサワーをグビグビと飲む。
シラフでこんな話を続けられそうにない。
そう思っているのは俺だけなのか、暁さんは相変わらずカルピスをちびちびと飲みながら尚食い下がってくる。
「でもほら、初めてのキスは大事にしたいだろ。男相手でいいのか? 初恋はキスの味って言うだろ?」
「ちょっとそれ古くないですか。ジェネレーションギャップ感じちゃうな……」
「……酔ってる?」
「て言うか、それを言うなら初恋はレモンの味では? あれ、それってキスと関係あるんだっけ?」
俺はアルコールの回ってきた頭でふわふわとそんな言葉を続ける。
暁さんは店員さんにお水を頼んでから、頬杖をついて俺を見ていた。
「じゃあつまり、鳴海は初めてのキスの相手が、俺でも良いんだ?」
「ダメなことはないでしょう。全く好きでもない知らない人が相手より、むしろ良いです!」
「それは、俺のこと好きってこと?」
「あはは! 暁さん面白い! 俺たちそういう演技じゃないですか!」
俺の前に、店員さんが運んできた水が置かれる。
よくわかっていないまま、俺はその水を飲みながら、目の前の暁さんを見つめた。
そうだ、よく考えたらむしろラッキーかも知れない。
誰もが憧れるような、トップ俳優。かっこよくて背も高くて歌が上手くて演技も上手い。
こんな完璧な男性なら、きっとキスも上手いに決まってる。
そんな相手が俺の初めてのキスの相手なんて、きっと世の中の女性たちの憧れの的だろう。
お酒のせいか、段々楽しくなってきた。
そんな俺を見て、呆れた風にため息をつきながら、暁さんは席を立つ。
一度席を立って暫くしてから戻ってくると、暁さんは黙って俺の腕を掴んで椅子から立たせ、コートや鞄も持ってくれる。
そのまま暁さんに腕を引かれてお店を出ると、俺は近くの駐車場に停めてあった、暁さんの車の助手席に乗せられた。
あれ、会計はいつ済ませたのだろう。
そんなことをぼんやり考えている間に、暁さんが運転席に座る。
呆と座っている俺のシートベルトを付けてくれる手は優しくて、そして距離が近い。
キス、出来そうな距離だな。
そんなことを思っている間に、暁さんは俺のシートベルトの装着を終えたのか、身体を運転席へ戻して自分のシートベルトを締めていた。
そうか、暁さんは車で移動する人だから、いつもお酒飲んでいないのか。と、俺は変に冷静な頭でそう考えていた。
暁さんは、鍵を回してエンジンをつける。
そんな暁さんの一連の動作を見つめていた俺の方を振り返ると、暁さんは俺と目を合わせてこう尋ねた。
「家、どのへん?」
「えっと……」
俺は聞かれるがままに住所を答える。
すると、暁さんはカーナビを起動させて、ゆっくりと車を走らせ始めた。
そこでようやく俺は、暁さんが俺を家まで送ろうとしてくれていることを理解する。
だんだん、酔いが冷めてきた。
俺はハッと目を開けると、慌てて鞄の中から財布を取り出して口を開く。
「あ、あのすみません! お会計……!」
「良いよ。こういうのは先輩が奢るものだろ」
「で、でも俺から誘ったのに。それに送ってもらってすみませんっ! ガソリン代払います!」
「帰り道だから、ついでだし別にいいよ」
優しいわけではない。そっけない口振りなのに、言っていることは優しくて、俺はそれ以上食い下がることが出来ない。
俺は居た堪れなくなって、口を閉じた。
暁さんに、迷惑をかけてばかりだ。
俺のことを愛している演技をして欲しいと、無茶なことを頼んでいる。
その上、キスをしたことが無いと知って、きっと呆れていることだろう。
挙げ句の果てに酔っ払って、家まで送ってもらうなんて、本当に甘えすぎだ。
5月、初めて暁さんと出会った時、暁さんはこう言っていた。「同業者に興味がないタイプ」だと。
きっと、俺のことも大して興味を持っていないはずだ。それなのにここまで面倒を見させてしまっている。
同じ舞台で共演して、恋人役というだけで、舞台初心者の面倒を見ないといけないなんて、暁さんはきっと貧乏くじを引いたと思っているに違いない。
俺は、次第に落ち込んでくる。
お酒のおかげでハイになっていた思考が、アルコールが抜けてきてどんどんローへと変わっていた。
黙ったままの車内には、音楽も掛かっていない。窓の外の景色を見ながら静かにしている俺のことを、きっと暁さんは寝たと思っているかも知れない。
窓の外の景色が、見覚えのある建物に変わっていく。
そしてカーナビの案内通り、暁さんの車は俺のマンションの前に到着した。
「鳴海、着いた」
「……ありがとうございます」
俺はシートベルトを外しながら、暁さんの方を向く。
すると、暁さんの腕が俺の後頭部を抱え込むように伸びてくると、勢いよく抱き寄せられた。
鼻先同士が近づくほどの距離。
その至近距離で、暁さんは挑発するように笑う。
「どうする? キスの練習、しておく?」
その距離と言葉に、酔いが冷めていたはずの俺の顔は、一気に体温を上昇させた。
先ほどまで、暁さんとキスすることを肯定的に捉えていたはずなのに、俺は驚いて暁さんの身体を突き飛ばす。
違う、演技なら出来る。でも今は、演技じゃない。
俺は慌てて助手席のドアを開けながら、自分の荷物を抱えて飛び降りた。
「明日で大丈夫です! お、おやすみなさい!!」
まるで捨て台詞のような言葉を車内に放り込んで、俺は勢いよくドアを閉めるとマンションのエントランスへ駆け込んでいく。
びっくりした。いきなりあんな、距離が近すぎる。
でも俺は、当たり前の現実に気がついてしまう。
キスする時は、もっと距離が近いのだ。
そんなことを想像すると、さらに顔が真っ赤になってしまい、俺は慌ててエレベーターへと逃げ込むのだった。
◇
翌日。
俺は、お詫びの品として某ドーナツ屋のドーナツを三つほど買い、稽古場へ来ていた。
そして、暁さんがやってくると同時に、目の前にドーナツの袋を差し出して頭を下げる。
「き、昨日はすみませんでした……。これ、よかったら」
頭を下げているせいで、暁さんがどんな表情をしているのか、見えていない。
しかし返事は無いし、周りのスタッフやユウキさん、霞鳥さんの視線も痛かった。
あいつ、いったい何をしたんだと、思われているに違いない。
すると、俺の手の上が軽くなる。
どうやらお詫びの品は受け取ってもらえたらしい。
ようやく俺が顔を上げると、暁さんは相変わらず俺のことを優しく見つめて、嬉しそうに笑っていた。
「ありがとう、鳴海。俺がドーナツ好きだって、なんでわかったんだ?」
その質問に、俺は苦笑だけ返す。暁さんは忘れているかも知れないけれど、5月に会ったとき、この人は大量のドーナツが入った袋を抱えていた。
それに、昨日もカルピスを飲んでいたので、甘い物は嫌いじゃないのだろうと、そう確信したのだ。
昔から人間観察は得意な方なので、多分この読みは外れていない。
暁さんは、笑顔で俺の頭をわしゃわしゃと撫でてくれる。
すると霞鳥さんも近くへ来て、俺の買ったドーナツの袋を覗き込みながら笑って言った。
「ナルくん、よくタッキーが甘党だって知ってたね。この見た目からは想像できないでしょ」
「ソウちゃんにはあげないよ」
「けち!」
よかった。ひとまず受け取ってもらえたので、昨日のお詫びにはなっただろう。
俺はミッションを達成して、ひとまず安堵の息をつく。
これで昨日掛けた迷惑は、いったん水に流してもらいたい。
その日はいくつかのシーンの稽古を粛々と続け、ラストはとうとう、ヴァルドとルカのキスシーンだった。
演出家から動きや演出に関する軽い指導が入り、その後「稽古で本当にキスするか」念のため確認された。
役者には、稽古の時はキスするふりだけの人と、稽古からキスする人がいるらしい。
演出家の希望としては、今回の舞台はキスシーンが大事な意味を持つから、稽古から振りではなく実際にキスして欲しいらしかった。
そう言われてしまえば、俺には断ることが出来ない。
ぶっつけ本番で、上手く出来る自信はなかった。
暁さんも、当然のようにOKを出している。
シーンは、「なんでもする」と言ったルカの覚悟を試すように、ヴァルドが自分の部屋へルカを連れてくる場面から始まる。
乱暴に腕を掴み、引きずるようにルカを連れてくると、ヴァルドは自分の大きなベッドの上へルカを突き飛ばした。
このような扱いを受けて、ルカは抗議するように声を上げる。
「痛いじゃないか! 僕のこと、もっと大切に扱ってよ!」
しかし、ヴァルドは表情を変えずにベッドの上に膝で乗ると、ルカに詰め寄る。
上着を脱ぎ捨てて、シャツのボタンを外し、じっとルカを見つめてこう言うのだ。
「なんでもするって、言ったよな?」
その言葉で、自分が何を求められているのか理解すると、ルカはハッとして覚悟を決める。
むしろ、この男を完全に自分のものにするチャンスだと思い直し、ルカは妖艶に微笑むのだ。
「……ああ、僕が欲しいんだ? いいよ、貴方になら――特別だから」
そう言って、ルカはヴァルドへ自分の腕を絡め、抱き寄せながら甘やかなキスを贈る。
二人はベッドへ倒れ込み、そこで舞台は暗転する…――。
俺は、既に緊張していた。
シーンを通して稽古するのではなく、まずは台詞ごとに立ち位置や動作を確認する。
特に暁さんが俺をベッドの上へ突き飛ばすシーンは、力加減やセットの位置をしっかり把握していないと、怪我に繋がりかねない。
俺はベッドの上に倒れ込み、その上で押し倒すように暁さんが乗る。
演出家が、客席側から俺たちを見て、セットの位置の調整や照明スタッフとライトの位置を確認していた。
その間、俺たちはこのままの体勢で待たされることになる。
とうとう、次はキスシーンの練習だ。
暁さんを見上げると、俺と目が合った瞬間、愛おしむように笑ってくれた。
そうだ、いまは演技中。暁さんは、俺のことを愛している演技をしてくれている。
セットとはいえ、ベッドの上でそんな視線を向けられることに、俺は恥ずかしさを覚えて目をそらす。
すると演出家からの指示がマイクで届いた。
「それじゃあルカのセリフから、暗転までやってみようか」
「は、はい!」
俺は、目を閉じて一度深呼吸をする。
恥ずかしいとか、考えるな。だってここは戦争中のファンタジー世界。俺は数々の男を誑かしてきた、魔性の王子。
自分の望みを叶えるためには、この『王』を利用するのが最善だと理解している。
その上で、この男は自分に興味を持っている。
それならこの状況を、利用しない手はない。
俺は目を開けると、じっと暁さんを見つめた。
そして両腕を伸ばすと、彼の首の後ろから自分の方へ抱き寄せる。
顔を近づけて、俺は目を細めながら、挑発するように甘やかな声でこう言った。
「……ああ、僕が欲しいんだ? いいよ、貴方になら――特別だから」
囁くように、特別だと告げる。
そして俺は、ええいままよと暁さんに口付けた。
ギュッと目を瞑り、唇を押し付ける。その瞬間、甘やかな香りが鼻腔を擽り、俺は「あ……」とその匂いの正体に気がついた。
「…――はい、カット! このタイミングで暗転ね。香坂くん、途中までよかったけど、キスがちょっと雑かな。セットの位置調整してから、もう一回いこうか」
「は、はい!」
キスシーンは、どの客席からも見えるようにしたいのが演出家の拘りだった。
そのために、ベッドの上の二人が見えるように、セットや小物の配置に細心の注意を払っている。
俺たちは、再び元の体勢に戻って待ち時間となった。
暁さんは先ほどよりも、少し真剣な表情で俺を見下ろしている。
その視線が、恥ずかしい。もっと演技だとわかるように、俺のことを愛しているような目で見てほしい。
俺は自分の恥ずかしさを誤魔化すように、小さな声でこう言った。
「……俺の初恋の味は、ドーナツの味でした」
キスをした瞬間の甘やかな香り。
俺がお詫びに渡したドーナツと、同じ匂いだ。
少し照れながら俺がそう言うと、暁さんの表情が変わる。
ピクッと瞼が動き、そして次の瞬間――噛み付くように、暁さんからもう一度キスをされていた。
何が起こったのか、俺の頭では理解できない。
ただキスされていることと、唇に当たる舌の感触が鮮明に脳に伝わってくる。
拒否しなきゃいけないと思ったのに、身体が一瞬遅れた。
俺はハッとすると、力一杯暁さんの身体を押し返そうとする。
すると俺たちが暴れていることに気がついたのか、演出家の慌てる声がマイクを通して聞こえてきた。
「ちょっと二人とも、まだゴー出してないよ!?」
その声に、暁さんはハッとしたように俺から顔を離した。
少し上気した顔で、艶っぽく俺を見下ろす暁さんの顔は、色気を感じる。
俺は訳も分からず頭が混乱していると、暁さんは小さく舌打ちをしてからベッドを降りた。
「……すみません、ちょっと休憩させてください」
そう言って稽古場を出ていく暁さんの背中を、俺はベッドの上から見つめることしか出来ない。
舌打ちされた。怒らせてしまったのだろうか。
俺の演技が下手すぎて、キスはこうやるのだと、そう教え込まれたのだろうか。
でも、ルカはこの場面で、あんな激しいキスはしないと思う。
あんな……欲望に身を任せるような、衝動的なキスを。
キスシーンは難しい。
俺が一つだけ分かるのは、暁さんの――プロの俳優のキスってやっぱり上手い。ということだけだった。




