第16話 恋人でいられる場所
「暁さんを振った!?」
1月5日。
俺は本番前の最後の休みに、ユウキさんを食事へ誘っていた。
本当は明日からの劇場入りに備えて、身体を休めるべき日なのに、俺の我儘に応えてくれたユウキさんは優しいと思う。
昨日は、稽古場で行う最後の稽古だった。
と言っても、後半はほぼ稽古場の大掃除になる。
俺は役2ヶ月を過ごした稽古場に名残惜しさを感じながら、自然と今までの思い出が脳内を埋め尽くしていた。
暁さんと過ごした時間が、この稽古場の至る所に色濃く残っている。
俺はその一つ一つに胸を痛めながら、自分の荷物を片付けていた。
休憩室で使っていた自分のマグカップを手に持つと、俺はじっと見つめてしまう。
元々家にあった、使い古されたマグカップだ。
いつ買った物なのか、それとも誰かから貰った物なのかも覚えていない。
ただ、ここでみんなとお喋りしながらコーヒーを飲むのに使っていた。
そのせいで、いやに思い出が染み付いてしまっている。
もうボロボロだし、これを機に捨ててしまおう。
そう思って、俺はゴミ袋の方へそのマグカップを持って行った。
すると、背後から伸びてきた腕が俺の持っていたマグカップを掴む。
驚いて振り返ると、すぐ近くに暁さんが立っている。
その近さに、俺は反射的に心臓が跳ねた。
俺が嬉しさと痛みを同時に感じていると、暁さんは俺のマグカップを見ながら穏やかに笑って言った。
「ずいぶん使い込んでるな。もう捨てるのか?」
「は……はい。元々そんなに、大事な物でもないので……」
「そうか。まあ直に、手作りの新しいマグカップが届くしな」
暁さんは、今までと何も変わらない。
俺に対して優しく笑って、愛おしそうに見つめてくる。
けれど、俺はどうしても今まで通りに笑えなくて、うつむいていた。
すると暁さんは、周りで片付けをしている人たちに聞こえないような、小さい声でこう囁いた。
「……今まで通りで、良いからな」
「……」
「この舞台が終わるまで、俺たちは恋人同士。そういう、約束だろ?」
その言葉に、俺は顔を上げる。
暁さんは悲しそうに笑っていて、その表情が俺の胸を抉った。
この人に、こんな顔をさせているのは、俺なんだ。
そう思うと、やるせなさが込み上げてくる。
もう、そんな約束辞めましょう。そう言いたいのに、言葉にならない。
一月前、霞鳥さんに忠告されたとき、俺は素直にこの関係を終わらせておくべきだったんだ。
でも、後悔してももう遅い。
暁さんは、俺の手にマグカップを戻すと、背中を向けて行ってしまう。
その背中が見えなくなってから、俺はゴミ袋の中へマグカップを投げ捨てた。
思い出ごと、マグカップが粉々に割れる。
その音を聞きつけて、ユウキさんが俺の隣に立つと、安心したように息をついてこう言った。
「なんだ、マグカップが割れた音か……。怪我はないか、鳴海?」
「……」
「どうした、そんな顔して?」
俺の顔を覗き込んで、ユウキさんが心配そうに尋ねてくる。
俺はユウキさんの顔を振り返ると、どうしても胸が苦しくて、いつの間にかこう言っていた。
「ユウキさん、明日……ご飯食べに行きませんか?」
そして、冒頭に至る。
俺が暁さんとの間にあったことを全て打ち明けると、ユウキさんは放心したように固まっていた。
同じ舞台に立つ人へ、こんなことを話すのはきっと良くなかったと思う。
変に気を遣わせてしまうだろうし、演技に支障が出るかも知れない。
そう分かっていても、俺は誰かにこの胸の痛みや苦しさを、聞いて欲しかった。
そして俺の行動は間違っていなかったと、肯定して欲しかった。
けれど、ユウキさんは両手で頭を抱えると、テーブルに突っ伏してしまう。
そして暫くの間低く唸ると、突然勢いよく顔を上げた。
「もったいない!!」
「……え?」
「なんで付き合わないんだよ、いや……まだ間に合うなら、今からでも撤回したほうが良いんじゃないか!?」
俺が想像していたのとは違う反応で、思わず両目を瞬いてしまう。
ユウキさんは、俺と同じ考えだと思っていた。
俺のことを慰めて、でも間違っていなかったと褒めてもらえると思っていた。
そのはずなのに、ユウキさんはどこかイライラしているようにも見える。
俺は少し戸惑いながら、もう一度ユウキさんに説明した。
「で、でも……暁さんは俺とは違うから。俺なんかが付き合うなんて…――」
「何が違うんだよ!? 暁さんは鳴海が好き。鳴海は暁さんが好き。一緒だろ!?」
「ち、ちが……だって! 暁さんは実力のある俳優で、俺が暁さんの未来を奪うなんて……っ!」
俺の言葉に、ユウキさんは眉間に皺を寄せると、怒りが表情に滲む。
そして、どこまでも低い声でこう言った。
「……お前、やっぱり俺が前に言ったこと気にしてるだろ? 俺が翔さんに気持ちを伝えない理由、まだ覚えてるんだろ?」
「そ、それは……」
「言ったよな!? 俺に気を遣うなってッ!! 俺の事情とお前の事情は、似ているようで全然違う。なあ……俺のせいなのか?」
「違います!!」
それだけは否定しなくてはいけないと、俺は喰い気味にそう叫んだ。
ユウキさんのせいではない。それだけはしっかりと伝えなくてはいけない。
俺は首を横に振って、しっかりとユウキさんの目を見て言った。
「俺が、ユウキさんの話を聞いて……確かにそうだと思ったんです。ユウキさんが正しいって思ったんです。だからこれは、俺が自分で決めたことなんです」
「……あんなこと、言うんじゃなかった」
「俺はむしろ、感謝しています。浮かれて付き合っていたら、そのうち俺は……きっと後悔したから」
俺は、揺らぎそうになる決意を再びしっかり固めると、毅然としてそう宣言した。
思ったのとは違ったけれど、ユウキさんと話したおかげで、俺は自分の選択が間違っていなかったと、自信を持てたような気がする。
しかしユウキさんは、悲しそうに項垂れていた。
そしてまるで、独り言のようにこう呟く。
「……俺は今の選択の方が、そのうち鳴海を後悔させるような気がする」
「しないです。俺は……絶対に後悔しない」
「でも、暁さんのことが好きなんだろ?」
その言葉を聞くと、俺の胸は締め付けられるように痛んだ。
この痛みが、『好き』なんだ。こんなに苦しいのが、『恋』なんだ。
こんな痛みも苦しさも、全てが初めての経験で、こんなの全然楽しくない。
恋なんて、するんじゃなかった。
けれど、この恋で得られたものもある。
そう思うと、俺は薄らと笑顔が滲んだ。
そしてもうすぐ始まる舞台の本番を想いながら、こう言った。
「……俺、本番が早く始まって欲しいんです」
「……?」
「だって舞台上で俺は、暁さんの恋人でいられる。舞台上では堂々と、好きって言える。キスが出来る。触れ合って、愛し合える。大勢の人の前で、恋人であることを認めてもらえる」
だってそれは、演技だから。
どんなに俺たちが恋をしていようと、舞台上ならそれは全てが演技になる。
これは恋。これは演技。俺は両方を舞台上へ持ち込める。
舞台上だけは、俺が暁さんの恋人でいることを、許される場所だ。
早く本番が始まって欲しい。
早く、暁さんの恋人になりたい。
早く舞台に立ちたいなんて、初めての感情だった。
俺は、スカウトでこの世界に入ったから。
演技、舞台。何も知らないし、大して興味もなかったけれど、スカウトされたことが――誰かから求められたことが嬉しくて、俳優になることを決めた。
そんな俺には他の人ほど、舞台に対する愛情も、演技に対する情熱もなかった。
――でも、今は違う。
俺はユウキさんの顔を見て、微笑んだ。
そして、投げかけられた質問に対して、改めてこう答えるのだった。
「好きですよ、暁さんのこと。だから暁さんと恋人になれる『舞台』が、『演劇』が――俺は大好きだって。そう思います」
◇
劇場は、稽古場よりも遥かに広く感じる。
稽古場で練習したことを、劇場に落とし込んでいく。声の響き方も全然違うし、舞台袖の動線を確認するのも一苦労だった。
そして、ゲネプロは一瞬で過ぎてしまう。
関係者しか座っていない、スカスカの客席。
演技中に聞こえるカメラのシャッター音。
緊張したし、必死すぎてあまり覚えていない。
――そして1月8日。ついに、今日は初日だ。
初日のチケットは完売したと、スタッフから聞いている。
つまり、この客席を埋め尽くすように客が座るということだ。
それだけ多くの人に、俺の演技を見てもらうことになる。
俺はメイクを終えて、鏡の前に立つ。
ファンタジー世界の衣装は、まるでゲームの中の登場人物のように、どこか派手で神々しい。
ルカの衣装は、『ルミナス』の象徴である白と青が基調だった。
兄であるユウキさんのノアと、お揃いのような色味になっている。
「鳴海、準備できたか?」
その言葉で振り返ると、同じように準備を終えた暁さんが立っていた。
ヴァルドの衣装は、黒と赤が基調だ。俺とは対になるようなデザインとなっている。
昨日も見たはずなのに、改めてその立ち姿に呆けてしまった。
本当に、様になっている。まさに、悪役そのものだ。
でもそれはきっと褒め言葉ではないので、俺は黙っておくことにする。
大丈夫、俺たちは上手くやれる。
だって昨日のゲネプロも、何も問題なく終えることが出来た。
演出家にも、関係者にも、良かったと褒められた。
だから大丈夫。俺たちは、上手くやれる。
「初日、楽しもうな」
「はい、よろしくお願いします……暁さん」
もっと緊張するかと思ったけれど、俺は不思議なほどゲネプロのように緊張しなかった。
むしろ昨日よりも堂々と、演技ができる。
客席は真っ暗で、舞台上からはどれだけの人が座っているのか見えないけれど、大勢の人が見ていると思うとむしろ集中できた。
目の前の、暁さんにだけ、集中できる。
この人だけを愛して、必死に生きて、そして喪う。
結末はいつも決まっていて、俺がどんなに必死に足掻いても、ヴァルドは必ず死んでしまった。
一人取り残されて、俺は涙を流す。
そうして、暁さんと俺の物語は、ひと足さきに終わりを迎えた。
舞台上では、まだフィンとノアの話が続いている。
俺は暗い舞台袖から、その様子を眺めていた。
光の当たるところで、愛を誓い合い、幸せに結ばれるフィンとノア。
二人のキスシーンによって、この舞台は幕を下ろす。
――多くの拍手と喝采に包まれながら、初日は終わった。
あっという間だった。
2ヶ月稽古したことが、ほんの3時間に満たない時間で終わってしまった。
その呆気なさが、少しだけ寂しくなる。
この舞台は、地方公演を含めて37公演ある。
そして今日、初日が終わった。
俺は、初日が終わって晴れやかな気分のはずなのに、胸の痛みを感じながら、自嘲と共にこう思う。
――俺が暁さんと恋人でいられる回数は、残り36回。
終わりが、確実に近づいていた。




