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第15話 最後のピース

 翔は部屋の中で一人、スマホを弄りながら布団の上で寝転がっていた。

 先ほど部屋へ戻ってきたとき、ピッタリとくっついて敷かれた二つの布団を見て、暁が隠し切れないほど顔を顰めたのを思い出すと、まだ笑いがこみ上げてくる。


 そんなに嫌がらなくても良いのに。でも、暁の気持ちはわからなくもない。

 翔はスマホを閉じて、ニヤニヤと頬を緩ませた。

 暁はきっと、鳴海と一緒の部屋が良かったのだろう。本当にわかりやすくて、バレバレだった。


 翔は最初、部屋割りも自分で勝手に決めてしまおうかと思ったけれど、鳴海が暁のことをどう思っているのか分からなかったので、その場の成り行きで任せることにした。

 結局このような部屋割りになったけれど、誰も文句を言わなかったので、翔もそれで良しとしている。


 みんな大人だな。

 翔はもう眠くて、掛け布団の中に潜り込みながらそう思った。

 暁は鳴海と同じ部屋が良いなら、初めからそう言えばいいのに。

 でも彼は一番歳上だから、そんな我儘も言い辛かったのかも知れない。


 鳴海は、正直なにを考えているのか一番よく分からない子だった。

 とにかく自分の感情の優先順位が一番低い子なので、本人の感情が読み取りにくい。

 役者としてはそれが大きな強みにもなるけれど、舞台から降りている時間はもっと自由になれば良いのにと、時折心配になる。

 鳴海は、この旅行を楽しんでくれているだろうか。翔はそれが少し心配だった。


 それに比べて、ユウキはとてもわかりやすい子だ。


 翔がそんなことを考えながらうとうとしていると、扉の開く音が聞こえる。

 どうやらタバコを吸いに行っていた暁が、帰ってきたらしい。

 もう眠たいけれど、翔はどうにか布団の上で上体を起こしながら、先輩である暁を出迎えようとした。


「お帰りなさいタッキーさ…――」


 そう声をかけたところで、翔は驚いて目が覚めてしまった。

 暁が帰ってきたと思ったのに、部屋の中にいるのは、間違いなくユウキだ。

 寝ぼけているのかと思って、何度か目を擦っていると、ユウキの申し訳なさそうな声が聞こえてくる。


「すみません翔さん、びっくりしましたよね」

「あれ、本当にユウくん? え、どうしたの?」

「実は、暁さんにお願いして、部屋をかえてもらったんです」


 ユウキの言葉に、翔は余計に驚いてしまった。

 何故なら翔にとってユウキは、一番大人だと思っていたのだから。

 まだ28歳だけど、歳上の自分よりもずっと落ち着いているし、暁よりも我儘を言わない。


 そう思っていたはずなのに、翔の中のユウキの印象がガラッと変わる。

 暁に頼んで、部屋を変えてもらうなんて、そんな行動をしそうに思えなかった。


 部屋を変えたのは、いったい誰のためなのだろう。

 そんな疑問を抱きながら、翔は不思議そうにこう尋ねた。


「……ナルくんも、良いって言ったの?」

「いや、鳴海と翔さんには相談無しに、俺たちだけで決めちゃいました。ダメでしたか?」

「俺は良いけど、ナルくんが泣きながら逃げてきたら、元に戻してあげようね」

「……はい」


 翔とユウキは冗談めかしてそう言いながら、きっとそんなことにはならないだろうと思っていた。

 暁はきっと喰い気味で了承したに違いないし、鳴海もきっと――緊張はするかも知れないけれど、嫌がることはないと思う。


 翔は、当たり前のように自分の隣で寝支度を始めるユウキを横目に見ながら、苦笑した。

 それでもユウキは、翔にとって、一番わかりやすい子だった。


「……ユウくんは、どうして部屋を変えたの?」


 翔の問いかけに、掛け布団の中に潜り込みながらメガネを外していたユウキは、手を止める。

 そして翔の顔をじっと見つめてから、寂しそうに笑って言った。


「……その方が、あの二人は嬉しいかと思って」

「本当に、それだけ?」

「はい、それだけですよ」


 まるで善人のように。

 暁と鳴海のためだと言いながら、ユウキは笑う。


 翔も、それ以上追及することはなかった。

 ユウキの本心を悪戯に聞き出してはいけないと、翔の中で静かに直感が働くのだった。







 俺が大浴場へ行くと、タイミングよく浴室は無人だった。

 一人で広々と温泉に浸かることができて、身も心もリフレッシュする。


 最近ずっと稽古続きで、正直身体を休める暇も無かったと思う。温泉の温かさが身に沁みた。

 それに暁さんのことを考え過ぎて、疲れていた心も癒される。


 こうしてゆっくりしていると、自分が悩まされていることが些細な問題のように感じた。

 何故なら、暁さんの気持ちがどうであれ、自分はあの人から正面切って告白されたわけでもない。


 それなのに暁さんの気持ちばかり予想して、今から頭を悩ませる必要は無いような気がした。

 自分の気持ちの整理は引き続き必要かも知れないが、それも焦らなくていい。


 俺は温泉の効果なのか少し気持ちが落ち着くと、すっかり長湯してしまう。

 ユウキさんが心配しているかも知れないと思いながら、俺は足早に部屋へ戻ってきた。


 随分遅くなってしまったし、ユウキさんは体調が悪いなら既に寝てしまっているかも知れない。

 なので俺は気を使い、黙って静かに扉を開ける。



「あ、おかえり鳴海」







 そして俺は、静かに扉を閉めた。





 何度か部屋の番号を確認する。

 合ってる。俺の部屋で間違いない。

 そのはずなのに、部屋にいたのはどう見ても暁さんだった。


 どうして。

 俺は温泉から出たばかりなのに、冷や汗が止まらなくなる。

 そうして俺が部屋の前から動けなくなっていると、おもむろに扉が開き、暁さんが顔を覗かせた。


「入らないのか?」

「あ、暁さ……え、どうして?」

「辻くんにお願いされたんだよ、部屋を変わって欲しいって」


 その言葉の真偽はわからないけれど、俺は納得するしかなかった。

 ユウキさんから暁さんへお願いしたのなら、ユウキさんを責められない。

 だってそれはつまり、ユウキさんは翔さんと同じ部屋が良かったということなのだから。


 表面上では報われないと言っていても、例えこの先自分の気持ちを伝えるつもりがなくても、ユウキさんは翔さんと二人きりの時間が欲しかったのだ。

 そう思うと、ユウキさんのことを責める気にはなれなかった。

 たとえ、俺が生贄にされたとしても。



 とにかく廊下は冷えるからと、俺は暁さんに部屋の中へ腕を引かれる。

 実はみんなが俺を驚かそうとしているだけで、部屋の中に隠れていることも期待したけれど、悲しいことに誰もいなかった。


 正真正銘の密室。二人きり。

 部屋の中には布団が二組、ピッタリとくっついて敷かれている。


 俺はやたらと緊張してしまい、キョロキョロと視線を動かしていた。

 そんな俺の様子を見て、暁さんは無邪気に笑う。


「そんな小動物みたいに警戒しなくても、獲って食ったりしないから安心しろ」

「い、いや俺は別に……っ」


 暁さんは、いつも通りに見えた。

 余裕そうで、笑っていて、なんだか俺だけが意識しているように感じてしまう。


 それが恥ずかしくて、俺はさっと視線を外すと、なんでもない風に振る舞う。

 そうだ。俺だって全然恥ずかしくない。緊張してない。大丈夫、大丈夫だ。


 暁さんはもう寝ようと俺を誘って、一人で布団の中へ潜り込む。

 ここで躊躇ったら負けだと思って、俺は勢いのまま隣の布団へ潜り込むと、頭まで掛け布団を被った。


 暁さんが電気を消す。

 部屋が真っ暗になると、俺は視覚以外の感覚が研ぎ澄まされるようで、暁さんの気配ばかり気になってしまった。

 目を閉じても、気になる。隣の気配が、動く音が、些細な息遣いが。


 そのまま暫くの間、俺は布団を被って耐えた。

 暁さんもそろそろ寝ただろうと、やがて俺は恐る恐る布団から顔を出して、隣を覗く。


 すると、全く寝る様子の無い暁さんと目が合ってしまい、俺は勢いよく上体を起こした。


「なに見てるんですか!?」

「なんだ、まだ起きてたのか?」

「怖い! さっさと寝てください!!」


 暗闇の中で見つめてくる暁さんに、俺は声を上げる。

 こんなの気になって寝られるわけがない。


 すると暁さんも上体を起こし、少し考えてから静かな声色でこう切り出した。


「……実はな鳴海、俺は抱き枕がないと寝られないんだ」

「は?」

「意外だろ? 家には俺の身長と同じくらいの大きさをした抱き枕がある」

「なんでそんな……すぐにバレる嘘をつくんですか?」


 暁さんの身長と同じ大きさの抱き枕なんて、特注でもしない限り存在するわけがない。

 それに、いくら暁さんが見た目とギャップがあるからって、抱き枕がないと寝られないなんて、俄には信じられなかった。


 すると暁さんは、深刻な顔で俺を見ると、まるで本題に入るようにこう言った。


「鳴海、今夜は俺の抱き枕になってくれないか?」

「はっ……な!? 絶対に嫌ですけど!?」

「頼むよ。俺が寝られないと、お前も寝られないだろ?」


 意味が分からない理屈で駄々を捏ねる暁さんに、俺は戸惑いながら大きく首を横に振る。

 そんな意味のわからないやり取りを五分ほど続けてしまい、先に折れたのは俺だった。


 このまま朝になるよりはマシだと、俺は渋々頷くことになる。


「……わかりました、わかりましたよ。でも、抱きしめるだけですからね!?」

「当たり前だろ。何を期待しているんだ?」

「し、してないです期待なんてっ!」


 俺は顔を真っ赤にしながらそう主張する。

 すると暁さんは相変わらず俺のことを愛おしそうに見つめながら、布団の上に横たわって、俺を招き入れるように腕を広げた。


 俺は、その腕の中へ飛び込むことに躊躇した。

 ここに飛び込んだら、もう引き返せないような気がする。

 でも、今更引き下がることもできない。


 恐る恐る、暁さんのすぐ隣に寝転がると、暁さんの腕が優しく俺を抱き締めてきた。

 まるで柔らかい物でも扱うように、優しく抱きしめられる感覚が、もどかしいと思う。

 だって舞台上では、もっと激しく――かき抱くように抱きしめられているから。


 だからこんなに優しくされると、ここは舞台上ではないのだと、そんな当たり前のことを突きつけられた。

 俺たちは、ヴァルドとルカじゃなくて、暁さんと香坂鳴海だ。


 胸が、ドキドキする。

 恋人同士じゃないのに、まるで恋人同士のような距離感で横たわっている事実に、頭が混乱した。

 暁さんに心臓の音を聞かれたくなくて、俺は暁さんと俺の身体の間に両腕を差し込む。

 すると、暁さんの鼓動が俺の腕に伝わってきた。


 少し速い、心臓の音。


 俺がそれに気付いた瞬間、暁さんが俺を抱きしめる腕の力が強くなる。

 さらに密着すると、俺は頭の中は騒々しくて、身体は熱いし、目はどんどん冴えていった。


「……おやすみ、鳴海」


 耳元で囁かれた声が、耳にかかる吐息が、擽ったい。

 こんなの寝られるわけがなくて、俺はなにも返事ができないのだった。









 結局、ほとんど寝られなかった。

 あの後、どうすることも出来ずただ抱きしめられていた俺は、暁さんの寝息が聞こえてくると、沸々と怒りが込み上げてくる。


 この状況で本当に寝やがったことが、信じられない。

 俺を置いていくなと思いながら、後を追うように俺は必死に目を閉じる。

 けれどアドレナリンの出ている身体はいっこうに眠気を感じず、結局朝日が差し込む中、気絶するように2時間ほど寝ることが出来たと思う。


 朝食の席でげっそりしている俺を見て、ユウキさんが何度も謝っていた。

 俺は気にしないで良いと言いながらも、結局帰りの電車はほとんど爆睡していた。


 東京駅について、各々解散になる。

 また3日後に会おうと挨拶をして、俺は電車を乗り換えるために歩き出すと、唐突に腕を引かれた。


 見れば、申し訳なさそうな顔をして、暁さんが俺を見ている。


「鳴海……車で家まで送るよ」

「いえ、お構いなく」

「……怒ってるだろ?」

「……怒ってないです」


 俺は不機嫌を隠すことなくそう首を横に振った。

 しかし暁さんも引き下がることなく、俺の腕を引いて黙々と駐車場へと歩き出す。

 そうなってしまえば、俺もそれ以上は抵抗せずに、渋々と暁さんに着いて行った。


 暁さんは俺のお陰で快眠だったようなので、此処はお言葉に甘えるとしよう。

 そう思って、俺はもう慣れ親しんだ車の助手席へと乗り込んだ。


 不思議と、助手席に乗っている間、眠くならなかった。

 呆と窓の向こうの景色を見ながら、窓ガラスに映る暁さんの横顔を見る。


 この人が、一晩中自分を抱きしめていたと思うと、なんだか不思議な気分だった。

 夢でも見ていたような気がする。


 すると、暁さんが唐突にこう提案した。


「なぁ、ちょっと寄り道しないか?」

「……どこへ?」

「鳴海の家の近くに、海の見える公園があるだろ?」


 たしかに、俺の住んでいる街は港町なので、家から歩ける範囲に海の見える大きな公園があった。

 いつも俺を送る道すがら、見える公園だ。

 観光地でもあるので、興味があったのだろうか。


 運転手は暁さんなので、俺は特に反対することもない。

 無言で頷くと、暁さんの運転する車は、公園の脇にある駐車スペースで停まった。


 もう夕方で、ちょうど海の向こうに陽が沈んで行くのが見える。

 俺たちは、自然と海の方へ足を向けながら、雄大な自然の風景を眺めていた。


「初日の出ならぬ、初日没だな」

「初めて聞きましたよ、それ。縁起良いんですか?」

「さあな。鳴海と一緒に見れば、全部良いよ」


 暁さんはしれっと、そんなことを口にする。

 本当にこの人は、『俺を愛している演技をする』という建前があるから、なんの恥ずかし気もなくこんなことを言えてしまう。

 それが少しだけ、狡いと感じた。


 俺が言い出したことなのに。

 俺が暁さんに、「俺を愛している演技をしてください」とお願いしたのに。

 それが今になって、俺の胸を苦しくしている。


 俺が暁さんの発言を無視していると、暁さんは独り言のようにこう続けた。


「まだ初日まで一週間あるけど、楽しかったな……稽古」

「そうですね」

「初めは、ソウちゃん以外話せる奴いないなって思ってたけど、なんだかんだみんなと仲良くできたと思うし」

「翔さんなんて、一緒に温泉へ入った仲ですもんね」


 俺が揶揄ってやると、暁さんは無言で俺の肩を小突く。

 その何気ないやり取りに俺が笑っていると、暁さんはさらに続けて言った。


「まあ、翔のことは相変わらず嫌いだけど、前よりは気楽に接することが出来るようになった」

「偉いじゃないですか。大人なんですから、好き嫌いは良くないですよ」

「……『嫌い』は良くないかも知れないけど、『好き』は良いだろ」


 暁さんの言葉に、俺は口を閉じる。

 そして、ゆっくりと暁さんを見た。


 暁さんも黙って俺を見ている。

 夕日に照らされた暁さんの顔は、陽の光のせいか少し赤くて、俺の頭の中で警鐘がなった。

 これ以上、目を合わせてはいけないと、そう思う。


 けれど、俺は暁さんの瞳から、目が離せなかった。







「好きだよ、鳴海」







 それは、吐露。

 暁さん自身、いま言うつもりなんてなかったような、自然な言葉だった。

 演技でもなければ、用意された台詞でもない。

 暁さんの心の中から、漏れ出してしまった言葉だと、わかる。


 わかってしまう。


 俺はその言葉を聞くと、胸の奥からじんわりと幸福が込み上げてくるような気分だった。

 嬉しくて、幸せで、愛おしくて。

 俺の中のジグソーパズルに、ピースが一つ嵌まる感覚。


 俺は、視界が涙で滲む。

 口を開けては、閉じてを繰り返して、どうにか俺は自分の気持ちを口にした。



「俺も、暁さんのことが――好きです」



 ピースが嵌まる。

 暁さんの気持ちと、俺の『好き』のピースはピッタリと嵌まった。


 目の前で、暁さんが緊張から解放されるように、微笑むのがわかる。

 俺は、瞳に溜まり切った涙が零れ落ちるのを感じながら、続けて言った。







「だから、暁さんとは……付き合えません」







 ――また一つ、ピースが嵌まる。

 暁さんの表情から、笑顔がスッと消えた。


 俺は、涙が溢れるのを止められなくて、みっともなく涙を流し続ける。

 一方で暁さんは俺のことを困惑した表情で見つめながら、慌てて言葉を口にしていた。


「な……んで? なんでそうなるんだ?」

「……っ」

「俺のこと好きなんだろ? だったら…――」


 俺は首を左右に振る。

 それに合わせて涙が散って、俺は少しだけクリアになった視界で、暁さんの目を真っ直ぐに見つめた。


「だって、暁さんは俺なんかよりもずっとすごい役者で、この先も活躍する人で……。だから暁さんのキャリアを考えたら、男の恋人なんてただの荷物でしかない。それに暁さんの才能は……遺伝子は、後世に遺した方が良いに決まってる」

「……それは、誰に言われたんだ?」

「俺が、そうだと思ったんです。それが正しいって、分かってるんです」




 俺は、ユウキさんが言っていた言葉を思い出しながら、そう口にする。

 ユウキさんにこの言葉を言われてからずっと、腹の奥にズンと燻っていた。あまりにも正論で、あまりにも残酷な現実。

 俺だったらきっと見逃していた、世界の理を教えてもらったような気分だった。


 昨日言われた、「深く考えずに付き合ってしまうと、相手を傷つけることだってある。」という言葉も、俺の脳裏に焼きついていた。

 俺はきっと、自分の感情に従っていたら、暁さんと付き合うことを二つ返事で了承していただろう。

 目の前に吊るされた美味しそうな餌へ、飛びつくように。


 でも、それではダメだ。

 俺のせいで暁さんの、あるかも知れない幸せな将来を、潰したくなかった。


 俺が暁さんのことをどう思っているのか。どうしたいのか。どうなりたいのか。

 そのピースが、綺麗に嵌っていく感覚だった。


「俺は暁さんのことが、好きです……。だから俺は、暁さんには幸せになって欲しいんです。そのために、俺は暁さんの足を引っ張りたくないんです」

「……そんなこと、考えなくて良い。俺は鳴海が居れば幸せだ。そう言っても、ダメなのか?」

「目の前の俺なんかより、もっと先の未来で――幸せになって欲しいです」

「俺の幸せな未来に、鳴海は居てくれない……?」


 俺は、胸の痛みで吐きそうになる。

 苦しくて、苦しくて……この人にここまで言わせていることが、心のどこかで残酷なほど嬉しくて、その喜びが気持ち悪い。


 暁さんのことが好きだから、俺は気丈に首を横に振った。


「俺には、自信がないんです。暁さんを不幸にするかも知れない責任を、背負えないです」

「俺の不幸の責任は、俺が取る。鳴海は、幸せのことだけ考えればいい」

「……っ」


 その言葉で、覚悟が揺らぎそうになりながら、俺は頑なに首を横に振った。

 もう、顔を上げられない。暁さんがどんな表情をしているのか、見ることができない。


 そのまま、暁さんは何も言わなかった。

 ただ暫くの間、黙って俺の目の前に立っている。


 やがて陽が完全に沈み切ったのか、公園の街灯だけが俺たちを照らし始めると、暁さんは静かな声でこう言った。



「……ごめんな、本番前に変なこと言って。言うつもり、なかったんだけどな」

「……」

「まあ、俺の気持ちにはたぶん、とっくに気が付いてただろ。たくさん悩ませて、ごめんな。もう、悩まなくて良いから」


 暁さんの声はどこまでも優しくて、それが更に胸を締め付ける。

 俺が顔を上げられずにいると、暁さんはこう提案した。


「……送ってくよ」

「大丈夫です。歩いて帰れます」

「もう暗いよ」

「大丈夫です」


 俺がそう言って断ると、暁さんもそれ以上食い下がってこない。

 そして、今までと何も変わらない、ただ優しい声でこう言った。


「……おやすみ、鳴海」




 暁さんが、俺に背中を向ける。

 一歩ずつ、遠ざかる。


 そして、車のエンジンが掛かる音。

 ゆっくりと、車が遠ざかる音。


 けれど、俺は顔を上げることが出来なかった。

 涙がとめどなく溢れて、顔が上げられない。


 俺の中のジグソーパズルは、完成した。

 俺の気持ちを全部整理して、そこには一枚の美しい絵が出来上がる。


 ――暁さんが、知らない女性と一緒に、赤ちゃんを抱きしめている絵。


 その何処にも、俺はいない。俺はいらない。

 暁さんの優しい瞳に、俺は映っていない。


 これで、良かったんだ。

 俺は、正しい選択をした。大好きな人が、幸せに笑っている未来。

 この美しい未来を、守った。

 そう自信を持っているはずなのに、涙を止めることが出来ない。




 家に、帰らなくては。


 そう思う心とは裏腹に、俺の足は一歩も前に踏み出すことが出来ないのだった。

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