02.臨時休業
店の方から声がした。もうひとりの従業員、白うさぎの姿をした獣人の青年ミクテスが出勤したのだ。
「ミクテス!」
ここで自分が倒れたら、ゼルアクスの二の舞。そして、原因がわからないままミクテスがここへ来てしまったら、全滅だ。
「シャル? ……って、何、この甘い香り。甘いの通り越して、臭っ」
シャルリアの声が聞こえた調合室へ顔を覗かせた途端、ミクテスは鼻を押さえながら露骨に顔をしかめる。
鼻が利くタイプの獣人に、この香りは確かに「臭い」と表現されるようなレベルだろう。
人間のシャルリアも、最初は「何、これ」と思ったし、今ではすっかりこの香りがいやになってきた。
人間の鼻なんて、普段ならすぐに麻痺して臭いがわからなくなるものだが、なぜかいつまでも感じ取ってしまう。
たぶん、それもおかしい。まともな臭いではないのだ。
「中和剤、まいて。早く!」
シャルリアは、どうにかそれだけを叫んだ。
「え? あ、中和剤……えっと」
出勤したばかりで当然ながら事情はまだ不明だが、シャルリアの口調でミクテスは「何かまずいことが起きた」と察してくれたようだ。
ミクテスは息を止めて部屋へ入って来ると、棚から彼の拳より一回り大きな瓶を取り出した。透明な瓶の中には、白く細かい粉が入っている。
ゼルアクスが作った「自分が研究中に、おかしな作用を起こす薬を作ってしまった時のための薬」だ。
これでだいたいの薬の効果は半減、もしくは無効化できる……らしい。どこまで実用的かはともかく、今はその効果を信じるしかなかった。
「これ、まいていいの?」
「いいから急いでっ」
ミクテスはふたを取ると、大きく腕を振って中身を部屋にまく。細かい雪のような粉が、部屋中に降った。
どこまで万能かは不明だが、これでこの香り……もはや悪臭に近いこの空気も、時間が経てば消えてくれるだろう。
「先生、何か失敗した?」
シャルリアと同じようなことを、ミクテスも考えたらしい。
「まだわからないけれど、違うみたい。ここに倒れてるの。手を貸して」
「ええっ。先生、そこにいたの?」
ミクテスがいる位置からでは、シャルリアの姿しか見えていなかったので、気付かなかったのだ。
ミクテスは慌てて倒れているゼルアクスのそばへ寄るが、もうろうとしたような表情のシャルリアを見て、先に彼女を抱きかかえた。
うさぎの姿でも獣人なので、力は強い。軽々とシャルリアを持ち上げると、そのまま急いで店の方へ行き、待合スペースに置いてあるソファに座らせた。
すぐに取って返し、ゼルアクスを背中に担いで現れる。
「先生、細身だと思ってたけど、結構重いよっ」
文句を言うミクテスだが、どこか冗談ぽい口調に、シャルリアはそんな場合ではないがくすっと笑った。
☆☆☆
ミクテスが薬局にある窓や扉を全て開けて回り、とにかく風通しをよくする。
調合室では吹き込んだ風で中和剤の白い粉がほこりのように舞うが、これについては特に害はない。気にしていられる状況ではないので、今は放っておいた。
春の暖かい風のおかげで、寒さを感じないのはありがたい。
ミクテスから水の入ったグラスを渡され、それを飲むとシャルリアは少し落ち着いてきた。
一方で、ゼルアクスが目を覚ます様子はない。知らなければ、ソファに座って居眠りしているだけ……のように見えるのだが。
「で……何がどうなってんの?」
「と言われても……ねぇ」
ミクテスに事情を聞かれたが、シャルリアにだってわからない。薬局へ来たら、すでにこうなっていたのだから。
とにかく、何かよからぬ状態であるのは間違いないだろう。
扉こそ開け放してはいるが、こんな状況では営業どころではない。
ミクテスは、扉に休業の札をかけておいた。
まだ臭うのか、ミクテスは鼻をくしゅくしゅさせている。少し涙目になっているが、元々赤い目なので充血しているのかはわからない。
「何の薬なのかな、あれ」
ミクテスは、薬剤師になったばかり。ノンシュ薬局に入ったのも、三ヶ月前だ。
なので、七年先輩のシャルリアに意見を聞いてみる。基本的な薬についてはわかっていても、やはり知識量と経験値は先輩の方が上だ。
それを言えば、シャルリアよりずっと先輩になるゼルアクスの知識量は膨大だが、今はその薬辞典が眠っているので情報を引き出せない。
「あんな甘い香りは、私も嗅いだことがないわ。だけど、先生のこの状態から考えて……」
シャルリアが言いかけた時、開いたままの扉から誰かが入って来た。
「ゼル、いるかぁ。いつもの、頼む」
言いながら入って来たのは、短い黒髪にがっしり体型の鬼人だ。
レイアードという名の彼はゼルアクスの幼なじみであり、ノンシュ薬局の常連。なので、シャルリア達ともすっかり顔なじみである。
休業の札は、完全にスルーされたらしい。
「レーさん、また二日酔い?」
レイアードの顔を見て、ミクテスがあきれる。
常連なのは販売する側としてはありがたいが、彼に処方する薬はいつも二日酔いのためのもの。
自称・酒豪だが、調子づいて結局飲み過ぎるので、翌日にその反動がくるのだ。ノンシュ薬局の全員から「ほどほどに」と言われているが、なかなかやめられないらしい。
「鬼人だって、ダメージは蓄積するんだよ」
「んー、まぁ、わかってるんだがな」
何度もされた、このやりとり。
友の身体を心配するゼルアクスは「酒嫌いになる薬を作ろうかな」と最近本気で考えているらしい……というのは、レイアードには秘密である。
「レーさんがそんな状態じゃ、悪い奴がいても捕まえられないよ」
レイアードは、犯罪者を取り締まる警衛という仕事をしている。
こんな体たらくで大丈夫なのかな、とミクテスは心配になるが、これでも署内では一応「優秀」らしい。ただし、本人談。
「今日は非番。あれ、どうしてゼルがそんな所で寝てるんだ?」
いつもなら、処方待ちの客が座っているソファ。そこにゼルアクスが座っているのを見て、レイアードは首をかしげる。
「ええ、それが……」
シャルリアがレイアードに事情を説明しようとした時、戸口の方から控えめに声がかけられた。
「あのぉ……おはようございます。今日って臨時休業、ですか?」
ひょこっと顔を覗かせたのは、肩より少し伸びたくせのある金髪に、大きな紫の瞳をした女性。
彼女はアルルーラという人間で、見習い魔法使いだ。小柄で童顔だが、先日二十歳を迎えた大人。彼女もまた、ここの常連である。
「尋ねるなら、しっかりはっきり尋ねろ。相手に聞こえなければ、尋ねた意味がないだろう」
アルルーラの後ろから、また別の影。ドリーダという人間の魔法使いで、アルルーラの師匠だ。
口調がなぜか男性っぽいのだが、れっきとした女性。四十を超えているらしいのだが、胸まである真っ直ぐな赤い髪は艶があり、薄青の目の周辺にしわはなく、見た目だけなら二十七歳のシャルリアとそんなに変わらない。
もちろん、彼女もノンシュ薬局の常連である。
「あらら……。一気に増えちゃいましたね」
今日はちょっと……と言う前に、次々と入って来られてしまった。
常連の来局に、シャルリアは苦笑するしかない。
アルルーラは口調からして休業の札は一応見たようだが、普段なら今日は営業している日。それに、扉も開いていたので、どういうことかと気になったらしい。
このままだと、遠慮のない常連がどんどん増えてしまう。ミクテスは、店の出入口の扉だけを閉めておいた。
「ん? ゼルアクスはどうかしたのか? 具合でも悪いのか」
ソファに座って動かないゼルアクスに気付いたドリーダが、意外そうに尋ねる。それに、普段ならカウンターの奥に立っているシャルリアまでソファに座っているので、不思議そうな顔だ。
「えっとですね……」
こうなっては、話さない訳にはいかない。
それに、考えてみたら彼らは魔法使いと警衛だ。これがどういった状況であれ、一般市民とは違って何らかの対応をしてくれるだろう。
シャルリアは、自分が薬局へ来てから今までのことを、彼らに話した。





