01.甘い香り
部屋いっぱいに、甘い香りが漂う。
空気がまるでとろみを持っているかのように、全身にねっとりとまとわりつく。
自分の意識がここではないどこかへ、ゆっくりと向かっているような感覚。いや、本当は一気に向かっているのか。
自分の意識のはずなのに、別の誰かのもののようにも思える。身体から次第に力が抜け、心地いい。
甘い空気がのしかかり、もう指一本すら動かせない。動かす気にもなれない。
だが、不安はなく、全てをこの甘さの中にゆだねてしまいたい、とさえ思う。何も考えたくない。
そういったことを考えている自分。同時に、どこか冷めた目をして、そんな自分を見ている自分がいる。
何かしようという気はない。ただ、見ているだけ。結局は、あの甘い香りに溺れている自分と同じ、ということか。
声が聞こえる。遠く、近くで。
聞いた覚えのない声。いや、もしかしたらあるかも知れない。それもつい最近、ではなかったか。
なぜだろう。何もかもがあいまいで、はっきりしない。思い出せない。
でも……どうでもいい。
ただ、声が聞こえてくる。
行きましょう、私と一緒に。
ずっとあなたを見ていた。あなたと一緒にいたかった。
これからは、ずっとそばに。
自分の何かが、はがれるような感覚がある。切り取られる、が正しいのか。
とは言っても、痛みはない。自分が分けられているように思えて、わずかな戸惑いのようなものがあるだけ。自分の身に何が起きているのか、と。
いつの間にか、目の前に女性が立っている。人間、だろうか。ほんのわずか、違和感があるような気がする。……気がするだけ、か。
誰だったろう。見たことがあるような、ないような。
静かに微笑む彼女が、話しかけてきた。さっきの声だ。
「行きましょう、私と一緒に」
☆☆☆
「おはようございまーす」
シャルリアはノンシュ薬局の扉の鍵をあけると、中へ入っていつものように挨拶した。
人間、獣人、鬼人など、様々な種族が暮らすフーランの街。
一つ、もしくは二つの種族用の薬しか扱っていない薬局が多い中、ここはどの種族もウェルカムな薬局だ。
シャルリアは、ここの薬剤師である。
この薬局の経営者であり、薬剤師である鬼人のゼルアクス。七年前に彼に雇われてからは、合鍵で中へ入るのが一日の最初の作業だ。
こうして挨拶しながら入れば、二階に住んでいるゼルアクスが返事をする……のが常なのだが、今日は声が聞こえない。
「あら、聞こえなかったかしら。寝坊しているとか。それとも……」
シャルリアが入った店舗スペースの隣には、調合室がある。
店舗の倍の広さがあるが、その半分の面積を薬や薬草が置かれた棚が占めているので、広く感じない。ここは、薬草の倉庫も兼ねているためだ。
もちろん、名前の通りに調合もする。
ゼルアクスの返事がない時は、ここにいることが多い。一般的な頭痛や腹痛などの薬を調合する他に、あれこれと新しい薬の研究をしているのだ。
それはいいとして。研究に没頭すると、時間も自身のこともかえりみなくなってしまう、というのはよくあること。
研究者などに多いパターンだが、やはり限界はあるので寝落ちしている、ということも一度や二度ではない。
ゼルアクスは鬼人なので、シャルリアのような普通の人間よりもずっと体力はある。だが、徹夜で研究を続けているうち、ふっと集中力が途切れた途端に落ちるようだ。
昨日は薬局が休みだったので、一昨日シャルリア達が帰ってからずっとこもっていたに違いない。
タイマーをかけるなどして休憩をはさむように、と何度も言うのだが、そのタイマーを止めてからそのまま研究を続けてしまうらしい。
注意しても「つい……」と、苦笑いでごまかすのだ。
早く生涯の伴侶を見付けてもらって監視……もとい、生活態度を管理してもらわないと、いくら鬼人でもいつか身体を壊しかねない。
薬剤師が薬の世話になるのは、販売する時だけで十分だ。
「もう……仕事熱心なのはいいんだけどな」
仕事を丸投げしてくる上司よりはいい。だが、部下に心配をかける上司も、迷惑とまでは言わないが、それはそれで困りもの。
小さくため息をつきながら、シャルリアは店舗から調合室へと続く扉をノックして開けた。
「先生、こちらですか」
薬の研究者という立場もあることから、シャルリアはゼルアクスを「先生」と呼ぶ。彼女がそう呼ぶので、薬を買いに来る客もそう呼ぶことが増えてきた。
呼ばれると、ゼルアクスはいつも気恥ずかしそうに苦笑している。
「また徹夜ですか、先生」
言いながら調合室へ入ったシャルリアは、部屋に充満している甘い香りに驚いて動きを止めた。
な、何、これ。何か失敗?
研究に失敗は付きもの。それは、ゼルアクスに限ったことではないだろう。
これまでにもシャルリアは、ゼルアクスがしでかした数々の失敗を目にしてきている。
今までは目がしみるような臭いや、焦がしたらしい臭いが多かった。既存の甘い香りの薬もあるが、ここまで甘ったるい香りは初めてだ。
どちらにしろ、シャルリアは「ゼルアクスが失敗したのか」と思った。
でも、こんな臭いで失敗って、あるのかしら。むしろ、これはこういうものって気もするし。甘い香りの薬って、子ども向け? でも、この香りだとやっぱり強すぎるわ。
シャルリアはハンカチを取り出し、鼻に当てながら部屋を見回す。こんな香りを残したまま、ゼルアクスが扉も窓も開けないでいなくなるとは思えない。
だが、調合する際に使う作業机に、ゼルアクスの姿はなかった。寝落ちしているなら、いつもその机に突っ伏しているのだが。
これ、何かおかしいかも……。
ふいにいやな予感がした。
いつもとは違う状況に、シャルリアの鼓動が速くなる。
よく見れば、作業机の上はきれいだ。つまり、ゼルアクスが何かを研究して失敗した結果、この部屋の空気がおかしくなった訳ではない。
この部屋の棚に、こんな香りを放つ薬草などはなかった。普段からシャルリアは薬草の棚を整理するようにしているので、その点では自信がある
だとすれば、この香りは何で、ゼルアクスはどこなのか。二階にいて、単に寝坊しているだけ……ならいいのだが。
そうだとしても、彼がこの香りを放っておくのも妙だ。何か作業をして、その後に何かしらのきっかけで匂いが出てきた、なら気付かないのかも知れないが……。
シャルリアは考えられそうな状況をあれこれ思い浮かべながら、棚が並んでいる方へ目を向ける。途端に、どきりとした。
並んだ棚と棚の間から、足が伸びているのが見えたのだ。
まさか、等身大の人形の足が放り出されているはずもない。シャルリアの知らない間にゼルアクスが拾って来たならともかく、そうであってもそんな所に放置はしないだろう。
ここには、薬関係の物しか置かないようになっているのだ。それは、シャルリアがノンシュ薬局に就職する前から、ゼルアクスが決めていたこと。
シャルリアは、急いでその足が見える方へ向かう。
少しくせのある明るい茶色の長い髪に、二本の短く太い角。白衣を着た、長身の男性。
「先生っ」
見えていた足は、やはりゼルアクスのものだった。棚と棚の間に、仰向けで倒れていたのだ。
シャルリアは急いでゼルアクスに駆け寄ろうとしたが、ずっと甘い香りを嗅いでいたせいか、頭がくらりとする。
ハンカチで鼻を押さえ、この香りを直接吸わないようにしていたつもりだが、ガスマスクではないから完全にシャットアウトは無理なのだ。
どうにかゼルアクスのそばへ駆け寄り、肩を揺すってみるがまるで反応がなかった。
胸がかすかに上下しているのがわかったので、死んでいる訳ではない。首筋に指を当てると、温もりと脈を確かに感じた。
ただ、顔や手など、露出している部分は少し冷たい。ずっとここに倒れていたせいだろうか。だとすれば、何時間この状態でいたのだろう。
やっぱり、この香りがおかしいんだわ。麻酔みたいなもの……? でも、鬼人の先生が、そんな簡単に倒れてしまうかしら。
あれこれ考えはするが、甘い香りのせいでだんだんと考えがまとまらなくなってくる。
このままではまずい、とシャルリアが思い始めた時。
「おはよーっす」





