43 火傷痕の秘密
夜が更け、夜会がお開きになって間もなくのこと。
「ソフィ」
給仕の仕事を終え、化粧箱を手にアルマの家に戻る途中。王宮内の廊下を歩いていたソフィは、声をかけられてびくりと肩を震わせた。
返事をする間もなく強く腕を引かれ、近くの空き部屋に連れ込まれる。
扉を閉め、その前に立ち塞がったのは、目を吊り上げたベリンダだった。
「ソフィあなた、わたくしの言いつけをすっかり忘れてしまったようね」
「忘れてなど……」
「だったら、さっきのはいったいどういうことかしら? なぜあなたなんかが、あの方と二人きりでいたのよ?」
「あれは本当に偶然――」
「嘘おっしゃい!」
叩きつけるような調子で、ベリンダがソフィの言葉を遮る。
「とんでもない子ね。お兄様に色目を使った上に、ジークベルト様にまですり寄って。なんてふしだらなのかしら!」
「そんな……そのようなことは決して……!」
ソフィの否定の言葉を無視して、ベリンダはこれ見よがしにため息をついた。
「ほんと、血は争えないわよねぇ。あんたの死んだ母親もそうだったわ」
ひやりと血の気が引くような感覚があった。続く言葉が容易に想像できて、ぎゅっと化粧道具を持つ手に力がこもる。
「どこの馬の骨とも知れない卑しい身分のくせに、伯父様を誘惑して由緒あるクラプトン伯爵家に穢れた血を持ち込んで」
「……っ」
ソフィはうつむき、きゅっと唇を引き結ぶ。幼い頃から何度も何度も聞かされてきた侮辱の言葉。何度聞いても、慣れることなど決してない。
「あんたのような下賤の血が流れた人間がこのわたくしの従妹だなんて、おぞましくて吐き気がするわ」
確かにソフィの母アンは、カナル王国の貴族階級に属する人ではなかった。それどころか、生まれた国も、親兄弟のことすらわからない。
素性がはっきりしないソフィの母のことを、血筋にこだわるクラプトン伯爵家の人々は忌み嫌っているのだ。
けれど、記憶にある母はとても美しくて優しい人だったし、両親は深く穏やかな愛情で結ばれていた。誰の援助を受けることもなく、家族三人で慎ましくも堅実な生活を送っていた。
こんな風に貶められる理由などないはずなのに。
「あんたの母親が早死にしたのは天罰よ。巻き込まれて死ぬなんて、伯父様も愚かよねぇ。あんな疫病神となんか結婚しなければよかったのに」
「……やめてください」
うつむけていた顔を上げ、ソフィはまっすぐにベリンダを見据えた。
自分への侮辱ならまだ耐えられる。けれど、両親に対するそれをこれ以上我慢し続けることはできなかった。
「お父さんとお母さんを侮辱しないで――」
低い声で抗議の言葉を発した次の瞬間、左の頬に衝撃が走った。よろめき、こらえきれずにその場に倒れこむ。ベリンダがソフィの頬を打ったのだ。
手から離れた化粧箱が床に転がり、中身が散乱する。それをベリンダの靴のヒールがギリッと踏みつけた。ラナから贈られた白粉の入れ物が、無残に凹んだ。
「誰が口答えしていいと言ったの?」
ベリンダが蔑むような目でソフィを見下ろす。
「王宮で侍女の仕事を続けたいと、お兄様に言ったそうね。どうせ男を引っかけようって魂胆でしょう? 卑しい平民のくせに。だけどお生憎様、醜いあんたのことなんて誰も相手にしやしないわ。もちろん、ジークベルト様もね」
ベリンダは床に転がった化粧水の瓶を拾い上げると、ソフィの顔目掛けて中身をぶちまけた。
「あーら、手が滑っちゃったわ」
クスクスと歪んだ笑みを浮かべ、ベリンダはソフィの前にしゃがみ込む。取り出したハンカチでソフィの顔を力任せに拭いた。
「まぁたいへん、化粧が落ちてしまったわぁ。ごめんなさいねぇ、せっかく苦労して醜い顔を誤魔化していたのに。でもね、しっかり自覚した方がいいと思うのよ。あんたには醜い火傷痕があるんだってことを。醜い女に価値はないんだってことをね!」
ベリンダは立ち上がり、うなだれるソフィに汚れたハンカチを投げつけた。
「ああそうだわ、いいことを教えてあげましょう。明日ジークベルト様を、我がクラプトン伯爵家の屋敷にご招待しているの。わたくしと二人きりのお茶会にね」
顔を上げると、ベリンダが勝ち誇った顔でソフィを見下ろしていた。
「もう一度言うわ。ジークベルト様の運命の相手になるのはこのわたくしなの。醜いあんたは、這いつくばって床でも磨いているのがお似合いよ」
もう一度化粧道具をぐちゃぐちゃに踏みつけ、ベリンダは部屋を出て行った。
一人残されたソフィは深いため息をつく。こぼれそうになる涙をなんとかこらえ、ソフィはのろのろと床に散らばる化粧道具を拾い集めた。
◇
九年以上経った今も忘れられない記憶がある。
それは、両親を亡くし、クラプトン伯爵家の屋敷で暮らすようになって一年半が経ったある日のこと。
この日、幼いソフィは思い知った。良い魔法使いは、自分のところには来てくれないのだということを。
「いや! はなして!」
「おとなしくしろ! 穀潰しのお前が、ようやく我が家の役に立てるんだ。光栄に思え」
突然連れて来られた地下室で、ソフィはわけがわからないまま叔父から羽交い締めにされた。
「縛った方がいいのではなくて?」
叔母が眉をひそめながら縄を顎で示す。縄を持つ二つ年上の従兄は、無感動な目でソフィを眺めている。
その傍らに立つ一歳年上の従姉は、暗い地下室だというのにベールの付いた黒い帽子を被っている。
「口も塞いでおけ。わめかれると集中が削がれる」
神経質そうな男の声。部屋にはもう一人、灰色のフードで顔を隠した見知らぬ男がいた。男の肩に絡みついた灰色のヘビが、その赤い目で監視するようにソフィを見ている。
力づくで椅子に縛り付けられ猿ぐつわを噛まされたソフィは、カタカタと震えることしかできない。
灰色のフードの男が、ソフィの座る椅子を中心に石造りの床に円を描き、見たこともない文字や模様を描き加えていく。その円と一部が重なるように描かれたもう一つの円の中央に、従姉が立った。
(こわい……こわいよ……)
フードの男が分厚い本をめくりながら、聞き覚えのない奇妙な言葉を紡いでいく。
陰鬱なその響きがソフィの不安と恐怖を煽る。
永遠とも思えるような長い詠唱が終わったとき、床に描かれた二つの円が鈍い光を帯びた。
フードの男が従姉に目で合図を送る。
従姉は小さくうなずき、ベールを上げた。あらわになった顔の左半分には燃え上がる炎のような火傷痕。従姉はそれを自身の右手で覆い隠した。
隠れていない方の目が、暗闇の中で爛々と光る。その目はひたりとソフィを見据えていた。体の震えが大きくなる。
従姉がソフィの方へゆっくりと足を踏み出す。
(やめて……こないで……!)
青い右目が瞬きもせず近づいてくる。
やがて従姉は二つの円が交差する地点で足を止めた。
顔の左半分を覆っていた右手が、ゆっくりとソフィにのばされる。その手は不気味な光を帯びている。
(だれか、だれかたすけて……!)
恐怖が込み上げ、白い頬を涙が伝う。
のばされた従姉の右手がソフィの顔の左半分を覆った瞬間、触れられた部分が焼けつくような痛みに襲われた。
「――――っ!!」
あまりの痛みに体が大きく跳ね、ソフィは縛りつけられた椅子ごと床に倒れこんだ。硬い床で頭を強打し、一瞬目の前が真っ白になる。
「成功だ。お嬢様のお顔はほら、このとおり」
ソフィを見下ろす従姉の白い顔。その左半分にあったはずの火傷痕が綺麗に消えていた。
叔父と叔母が歓喜の声を上げる。
「ああ、綺麗な顔……良かったわ、これで堂々と外に出せる」
「ああ、本当に」
「お父さま、お母さま……!」
喜びの涙を流し、抱きしめ合う親子。
興奮を滲ませ食い入るようにソフィを見つめる従兄。
ソフィは床に転がされたまま、朦朧とする意識の中でその光景を眺める。
(いたい……いたいよ……おかあさん……おとうさん……)
涙でぐちゃぐちゃになったその顔の左半分には、炎のような火傷痕がくっきりと――。




