42 エスコート
その声に目を開けると、セオドアの背後にぴたりとジークベルトが立っていた。その右の手の平は、ソフィを守る障壁のように、セオドアの顔の前に回されている。
「……は?」
何の気配も前触れもなく現れたジークベルトに、セオドアが目を見開いて固まった。
セオドアの手の力がゆるんだ隙に、ジークベルトはソフィを引き寄せ、セオドアから遠ざける。
ジークベルトがソフィを見つめ、労わるように形の良い眉を寄せた。
「……可哀そうに、痣になってる。少しじっとしていて」
そう言うとジークベルトは、壊れ物を扱うように両手でそっとソフィの右手を取った。そのまま口の中で短く何事かを唱えながら、赤い痣のついたソフィの右手首をそっと撫でる。
ジークベルトに触れられたところがじわりと温かくなり、淡い光を帯びる。その熱と光が徐々に弱くなり、すっと消える頃には、セオドアに掴まれてできた手首の赤い痣と痛みはすっかり消え失せていた。
「大丈夫?」
呆然としたままのソフィを見つめ、ジークベルトが小さく首をかしげた。
ソフィは二度、三度と瞬きをし、それから小さくうなずいた。
(……助けに来てくださった。ジークベルト殿下が……)
安堵と喜びが、じわじわと胸に広がっていく。心の奥がどうしようもないほどに震えた。
ジークベルトは紫の目をやわらかく細めると、「ホールまで送ろう」と、貴婦人をエスコートするようにソフィの手を取った。
「お、お待ちください、ジークベルト殿下!」
ジークベルトに手を引かれて歩き出そうとしたソフィだったが、セオドアの声に再び足を止めた。
セオドアはようやく我に返ったらしい。取り繕うような愛想笑いを浮かべ、非難めいた目をジークベルトとソフィに向けている。ソフィは思わず、ジークベルトの手に乗せた右手に、縋るように力を込めてしまう。
「こ、このような場に割り入るなど、いかに殿下と言えど、無粋なのではありませんか?」
「無粋、ねぇ……」
ジークベルトはため息混じりに呟くと、ソフィに応えるように軽く手を握り返し、セオドアを振り返った。紫の瞳が冷ややかにセオドアを見下ろす。
「嫌がるレディの唇を無理矢理奪おうとする方が、よほど無粋だと思うけれど?」
「無理矢理だなんて……誤解ですよ」
セオドアが口元を引きつらせ、唇をちらりと舐めて湿らせる。
「僕はただソフィに、そろそろ家に戻っておいでと、そんな話をしていただけで。僕とソフィは家族なんです。距離が近いのも当然なんですよ。ね、そうでしょ? ソフィ」
優しげなセオドアの微笑み。その湿った視線が、じっとりとソフィに絡みつく。
ソフィはそれから逃れるようにジークベルトを見上げた。吸い込まれそうなほど美しい紫の瞳が、見守るようにソフィを見つめている。ソフィの手を握るジークベルトの手に、力がこもった。
ソフィは静かに一度深呼吸し、まっすぐセオドアに目を向けた。
「わたしは……セオドア様やクラプトン伯爵家の皆様を、家族と思ったことはありません。伯爵家に戻るつもりもありません。わたしは、このまま王宮で仕事を続けていきたいと思っています」
わずかに震える声で、けれどきっぱりと言い切ると、セオドアがサッと顔色を変えた。整った微笑みがぐにゃりと歪む。
「はは、ソフィ、冗談だよね……?」
「冗談などではありません。わたしの、本当の気持ちです」
ジークベルトが微笑みながらうなずき、それからセオドアに視線を向けた。
「言いたいことはそれだけかな。では、私たちはこれで失礼するよ。行こう、ソフィ嬢」
「はい」
ジークベルトの手を握り、今度こそ歩き出した。
「……行っちゃ駄目だソフィ! 魔法使いは、人の心を操る魔法を使う。ソフィも騙されてるんだ!」
背後から、切羽詰まったようなセオドアの声が追いかけてくる。
「耳を貸さないで」
ジークベルトが耳元で囁いた。それに小さくうなずきを返す。
「僕は諦めないよ、ソフィ! 君を、その火傷痕ごと愛してるのは、この世でただ一人、僕だけなんだから……!」
セオドアの声はずっと追ってくる。けれどソフィは振り返らなかった。
無言で薄暗い小道を辿り、ホールのざわめきが感じられるようになった頃、ソフィはようやくほっと息を吐いた。
「……ありがとうございました、殿下」
隣を歩くジークベルトを見上げると、「どういたしまして」とやわらかな笑みが返ってきた。
「ところで、さっきソフィ嬢は言っていたね。このまま仕事を続けていきたいと」
「はい」
「それなら一つ提案があるのだけど――」
ジークベルトが言いかけたとき、横手から「ジークベルト様?」と声がかかった。
反射的にジークベルトの手を離そうとしたソフィだったが、ジークベルトがやんわりとそれを止めた。
別れた小道の先から現れたのはベリンダだった。その後ろでは、ジークベルトの護衛騎士ギードが肩を竦めている。ベリンダはジークベルトの姿を認めるや、美しい顔を薔薇色に染めた。
「ずいぶんお探ししましたわ。ダンスが終わるなりどちらかに行ってしまわれるんですもの。どこか具合でも悪くなさったのかと心配で、騎士様と一緒にお探ししておりましたのよ……あら、ソフィ……?」
ベリンダはようやく、ジークベルトの陰で身を小さくするソフィに気づいたらしい。瞬いた青の目が、繋がれたままの手を見てほんの一瞬、剣呑な光を帯びる。けれどそれはすぐさま整った微笑に隠された。
「まあ、ジークベルト様。ソフィが何かご迷惑をおかけしましたかしら?」
ジークベルトもまた、整った笑みでそれに応えた。
「ああ、いえ。気分転換に庭園を歩いていたら、たまたまソフィ嬢があなたの兄上に言い寄られて困っているところに出くわしましてね。ソフィ嬢をホールまで送り届けるところなのです」
「まあ、兄が……。お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたわ。兄は昔からこの子を実の妹のように溺愛しているものですから、少々気持ちが先走ってしまったのでしょう……。ソフィ、お兄様は誰よりもあなたのことを思っているのよ? あまり無下にしないであげてちょうだいね? さ、それではあなたは急いで仕事に戻らなくてはね。ジークベルト様、お疲れでございましょう? 休憩室で飲み物でもいただきながら、ゆっくりお礼とお詫びをさせてくださいませ」
ベリンダがエスコートを求めて手を差し出す。しかしジークベルトはその手を一瞥しただけで動かなかった。
「あいにくですが、ベリンダ嬢。私は二人を同時にエスコートできるほど器用な男ではないのです。よろしければギードにエスコートさせましょう。ご心配なく。彼はこう見えて伯爵家の出ですから、あなたをエスコートするのに不足はないと思いますよ」
拒絶されるとは思っていなかったのだろう。ベリンダが顔をこわばらせる。刺すような視線を向けられ、ソフィの体温がさっと下がった。
「殿下、わたしは一人で大丈夫ですから、どうかベリンダ様をエスコートして差し上げてください」
「しかし……」
「お願いでございます」
ジークベルトと視線が絡む。ジークベルトが小さくため息をついた。
「……君が望むなら」
繋いでいた手を、そろそろと引く。今度は引き留められることはなかった。
「ギード、ソフィ嬢をホールまで送って差し上げて」
「いえ、そのようなお手間をおかけするわけには」
「私がそうしたいんだ。ギード、頼んだよ」
「お任せを。さあ、行きましょうか、ソフィ嬢」
「はい。それでは失礼いたします」
ジークベルトとベリンダに小さく一礼し、ソフィは踵を返す。ゆったりと護衛騎士がついてくる気配を感じながら、あとはもう振り返ることなくホールへと戻ったのだった。




