31 王妃殿下の化粧係
それから目まぐるしい日々が始まった。
午前中はそれまでどおり、アルマの弟子として薬草園の世話と化粧品作りに勤しむ。
昼からは王宮の中心に出かけて行って、王妃の侍女を務めるための化粧や行儀作法、給仕の仕方について学ぶ。
行儀作法と給仕の指導を担当することになったバーネット夫人は、表情も口調も常に厳めしい女性だった。
不本意であることを隠そうともしない。それでも真面目な性格ではあるらしく、王妃から命じられた職務に手を抜くことはなかった。
「あなたが無様な姿を晒せば、王妃殿下の威信に傷がつきます」
口癖のようにそう繰り返し、ソフィに行儀作法と給仕を厳しく仕込んだのだ。
失敗すれば厳しく叱責される。上手くできたときも褒め言葉はなく、小さくうなずくのみ。
ソフィは毎日必死になって、バーネット夫人の指導に食らいついた。
バーネット夫人による指導の次は、イザベル王妃の化粧係筆頭を務める侍女のヘレナから、化粧の指南を受ける。
王妃の化粧係は、ソフィの他に三名いる。いずれも貴族階級の出身である彼女らは、ソフィに対してあからさまによそよそしい態度を取った。ソフィを仲間として受け入れる気がないことは明らかな態度。
それでも、ヘレナもまた、王妃の命令には忠実だった。渋々といった様子ながら、目元や口元の化粧の仕方について教えてくれたのだ。
もっとも最低限の基礎を教えてしまうと、「あとは練習あるのみですから」と、早々に指導を切り上げてしまったが。
決して好意的とは言えない人々から、慣れないことを教わる日々。
そんな生活の中にも癒やしはあった。
アルマと共に薬草の仕事に携わる時間は、ソフィの心を穏やかにしてくれる。
薬草園で作業を始めると、クーが飛んできてソフィの周りをちょんちょんと跳ねるのも嬉しい。
どうやらクーは、アルマの家の近くに住み着いたらしい。
ソフィとアルマがリンデンの木の下でお茶の時間を始めれば、お菓子をねだりにやってくる。
アルマの反応が気になったが、「ふぅん、こうして見ると、案外カラスも可愛いもんだね」という言葉にホッと胸を撫で下ろし、ソフィは自分の菓子をクーに分け与えるのだった。
お茶と言えば、ソフィとアルマのティータイムにやってくる人物がもう一人いる。ラナである。
ラナは白粉を届けに来た冬の日以降、週に一度の休みの度に、アルマの家を訪れるようになった。
ただしラナは薬草茶が苦手らしく、もっぱら薬草のシロップ漬けを水やお湯で割って飲んでいる。エルダーフラワーのシロップ漬けが、最近のラナのお気に入りだ。
「まったく、薬師の家に来ておいて薬草茶を飲まないとはね……」
アルマはそうぼやきつつも、
「嬢ちゃんが来たときに飲むものがないんじゃ困るからね」
と、せっせとシロップ漬けを仕込んでいるのだった。
イザベル王妃の侍女を兼任することになったことをラナに報告すると、ちょうどティーカップに口をつけていたラナは盛大に咽せた。
しばらく涙目で咳き込んでいたラナは、それが収まるやすごいすごいと大騒ぎし、ようやく興奮が鎮まると、
「じゃあ、これからは仕事中もソフィに会えるかもしれないんだ。あ、制服もまたおそろいね」
と頬をゆるませた。
ラナは、化粧の練習台になってほしいというお願いも二つ返事で引き受け、休日はもちろん、仕事のある日もその合間を縫ってソフィの練習に付き合ってくれた。
そうして半月の準備期間を経て、ソフィは初めてイザベル王妃の尊顔に白粉を塗ることを許された。
王妃はもともと美容に熱を入れていることもあって、その肌は年齢のわりに白くなめらかだ。それでも加齢には抗えず、こめかみ付近にうっすらとシミができ始めているのを気にしていた。
それを綺麗に隠し、自然な透明感が出るように白粉を塗れば、イザベル王妃はまるで娘時代に戻ったようだと喜び、対外的な公務のある日には必ずソフィを呼んで白粉を塗らせるようになった。
ただし白粉以外の化粧についてはまだ任せてはもらえない。
ソフィは、ヘレナ達がイザベル王妃に化粧を施すのをそばで見て学ぶ。一方で他の化粧係達もソフィの白粉の技術だけは認めているらしく、王妃に白粉を塗るソフィの手元には、彼女達から熱心な視線が注がれた。
さらに半月が過ぎた頃、行儀作法と給仕を担当するバーネット夫人から合格が言い渡された。
「あなたは思っていたより筋の良い生徒でした」
バーネット夫人は厳めしい顔のまま、初めて褒め言葉を口にした。ただし、
「合格と言っても最低限のものだということを忘れないように。これからも鍛錬を欠かしてはなりませんよ」
と言い添えることも忘れなかったが。
バーネット夫人の合格を得たソフィは、王妃主催のお茶会で給仕を務めるようになった。王妃が主催するお茶会や夜会では、王妃お気に入りの見目麗しい美男美女が給仕を務めるのが慣わしとなっている。ソフィもその一人に加わったというわけなのだった。
◇
小規模なお茶会での給仕を何度か経験し、少し慣れてきた頃だった。
「まあ、ソフィじゃないの」
十名ほどの貴婦人が招かれた王妃主催のお茶会で給仕をしていたソフィは、背後からかけられた声に、ティーポットを手にしたまま固まった。
ぎこちなく振り向いた先に、予想どおりの人物の姿があった。
「……ベリンダ、様……」
からからに乾いた口で、どうにか声を絞り出す。
このお茶会にベリンダが参加していることは初めから知っていた。なるべくベリンダの視界に入らないよう気を付けて動いていたのだが、その甲斐もなく目に留まってしまったらしい。
ソフィが王宮に送られて以来、およそ十ヵ月ぶりの再会だった。
美しく着飾ったベリンダはソフィの顔を見て一瞬目を瞠ったが、すぐにその美しい顔にたおやかな微笑みを浮かべた。
けれどその視線は探るようにじっとソフィの顔に――その左側に注がれている。
「久しぶりねぇ、ソフィ。元気そうで良かったわ。あなたったら、仕事が忙しいからってめったに便りもくれないんだもの。ねぇ、もっとよく顔を見せてちょうだい」
言いながら、ベリンダは優雅な身のこなしで席を立ち、ソフィに向かってゆっくりと歩き出した。
まるで親しい家族に久しぶりに会えて嬉しいとでも言いたげなベリンダの口調と表情に、ぞくりと肌が粟立つ。
(手紙を送ったことなんて一度もない……送るはずがないのに……!)
思わず身を引こうとするが、足はその場に縫い止められたように動かない。
ソフィはベリンダの視線から逃れるように、「申し訳ありません、ベリンダ様」と頭を下げた。
「もう、ソフィったら……仕事中とはいえ悲しいわ、そんな他人行儀にされては。いつものようにお義姉様と呼んでちょうだい? あなたとわたくしの仲ではないの」
顔を上げると、すぐ目の前でベリンダの美しい顔がソフィを凝視していた。
寂しそうにほんのわずかに眉を下げた、可憐な微笑み。ソフィを罵倒し、何度も鞭打ったのと同じ人物とは思えない。
ひやりとしたベリンダの白い手にするりと左頬を撫でられ、ソフィはびくりと身を震わせた。手に持ったままだったティーポットが大きく揺れ、注ぎ口から紅茶の飛沫が跳ねた。
「あ、も、申し訳ありません……」
青ざめるソフィに、ベリンダが優しく微笑みかける。
「大丈夫よ、かかってはいないわ。王妃殿下の御前ですもの、緊張するのも無理はないわよね。でもね、気をつけなくてはだめよ。あのときのように火傷をしてはたいへんだもの」
「……っ!」
ソフィの呼吸が一瞬止まる。
何も言葉を返せずにいる間に、イザベル王妃が二人のやり取りに気づいて会話に入ってきた。親しげな微笑みをベリンダに向ける。
「よく来たわね、ベリンダ」
ベリンダはイザベル王妃に体を向け、優雅に礼をした。
「ご機嫌うるわしゅう、イザベル王妃殿下。本日はお招きいただきありがとう存じます」
「楽にしてちょうだい、ベリンダ。あなたは今日も美しいわね。先日あなたからいただいた薔薇ジャムもとても美味しかったわ」
「お褒めいただき嬉しゅうございますわ。イザベル様のために、専用の薔薇を育てるところから始めましたのよ。お気に召していただけたのでしたら、また明日にでもお持ちいたしますわ」
「まあ、嬉しいこと。それにしても」
イザベル王妃は言葉を切り、ソフィとベリンダを見比べた。
「二人は従姉妹同士だとは聞いていたけれど、ずいぶん親しいみたいね」
「ええ、そうなのです、イザベル様。ソフィは七歳のときに事故で両親を亡くし、以来、我がクラプトン伯爵家で育ちましたの。わたくしにとってソフィは、従姉というより妹のような存在ですわ」
「そうだったのね。こんなに美しい従妹がいるのなら、もっと早く紹介してくれてもよかったのではなくて? ベリンダ」
「申し訳ございません、イザベル様。隠すつもりはなかったのですが、クラプトン伯爵家の名に頼らず実力で上を目指したいというのが、ソフィのたっての希望でしたので……」
「あら、謙虚なこと。それならばソフィは見事にその望みを叶えたというわけね」
「ええ、驚きましたわ。父親が伯爵家の出とはいえ身分の上では平民ですのに、まさか給仕の女官に取り立てていただいたなんて……」
「ふふ、あなたの従妹に対する評価はもっと高くてよ。ソフィは先月からわたくしの侍女を務めているの」
「まあ……」
ベリンダは目を瞬き、しばし言葉を失った。それから、さも感激したように頬を染めた。
「ソフィがそのような栄誉にあずかるなんて、従姉として、いいえ義姉として誇らしいですわ。それにしても、イザベル王妃殿下はなんて寛容な御方でいらっしゃるのでしょう。ソフィは平民というだけでなく、その……」
ベリンダは戸惑ったような顔で言いよどみ、ちらりとソフィに目をやった。
「顔にあのような酷い火傷痕がありますのに……」
その言葉に、周囲でなりゆきを伺っていた貴婦人達がいっせいにソフィの顔を見た。遠慮のない視線が注がれる。
「その火傷痕ゆえに、よ。火傷痕を見事に隠しきった化粧の腕前を見込んで、わたくしの化粧係に抜擢したの」
「まあ、そうでしたの……化粧で……」
ベリンダは納得したように小さく何度もうなずくと、ソフィに身を寄せた。華奢な白い手がソフィの腕をするりと撫で、手首をそっと握った。
「あなたに変わりがなくて安心したわ、ソフィ。たまには屋敷にも戻っていらっしゃいね。お父様もお母様も、それからお兄様も、可愛いソフィに会えるのを楽しみにしているのよ――」
優しげな微笑みをたたえるベリンダの手に、ギリッと力がこめられた。綺麗に整えられた爪がソフィの手首に食い込む。
瞬きもせずにソフィを見つめるその青い瞳は、決して逃がさないと告げているようだった。
次回から新章に入ります。




