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8.魔王城を廃棄する

「第九排水弁、開放!」


バルガの声と同時に、床の格子から水が噴き上がった。


グレイヴの白炎へ、真下から汚水がぶつかる。炎は消えない。だが、白い礼装へ黒い飛沫がついた。


グレイヴは自分の袖を見た。


「わざとですね」


「流量計算の結果だ」とバルガが言った。


「ぜったい、わざとだ」とアレンが言った。


「主任にも感情はありますから」とジルは答えた。


「お前は黙って働け!」


換気が逆流した。前室の空気が渦を巻き、白炎を床へ押しつける。


『千槍回廊、手動停止!』


放送管からテッタの声。続いて、金属がまとめて落ちる壮大な音がした。


『二百四十一本、ぜんぶ無事! 勇者、一本でも曲げたら請求するから!』


「もう二本曲げた!」アレンが返す。


『人件費も払って!』


「聞こえてるのか、これ」


『城内全域へ放送中』とミミの声がした。『人間界にもたぶん』


「先に言ってくれ!」


『三秒前に?』


城内に笑いが走った。短く、すぐ消えた。それでよかった。笑っているあいだだけでも、誰も命令どおりには恐れていなかった。


「ククさん」


「出します」


ククの体内で、青、紫、白の層が分かれた。


最初に、空き瓶から吸った解毒剤の残り。次に白冠の結晶。偽造命令の蜜蝋。庭園で拾ったパン屑。最後に、白炎で焼かれた床から吸い取っていた黒い血の粉。


「モロさんのですね」


「はい。名前の輪っかも、少し」


「それも吸っていたんですか」


「吸うなって言われる前です」


「便利な言葉として使い始めましたね」


「成長です」


「あとで話しましょう」


「あとが、また増えました」


ククは嬉しそうに震えた。


ノアが最後の小瓶を開けた。アレンが手を伸ばす。


「待て。それを飲まなきゃ、君が」


「飲めば三時間延びる」


「三時間あれば」


「次の一瓶はない。原因を焼かれれば、三時間後に全員死ぬ」


「でも」


「患者は治療方針へ口を出さない」


「君が患者だろ!」


「だから、医者の私が決める」


ノアは瓶の中身を排水格子へ落とした。


一滴。


二滴。


透明な薬が、ククの並べた試料へ触れる。


床一面に白い線が浮かび上がった。


線は王命書から始まり、グレイヴの白手袋を通り、アレンたち三人の胸へつながっていた。もう一本は遠見水晶へ。さらに太い一本が、戦争心臓へ落ちている。


「きれい」とククが言った。


「きれいなものほど、注意してください」ジルは答えた。


グレイヴが白炎を振るった。


「記録する前に焼けば、存在しなかったことになる」


「それ、書庫員の前で言う?」


エッダが両手を床へついた。外套の内側から紙片が飛び、白い線の上へ次々と貼りつく。


「王室薬房の納品票。辺境軍への白冠搬送記録。勇者任命状。浄化官への権限委任。全部、期限の長い貸出品よ」


「窃盗です」とノアが言った。


「歴史的には保護」


炎が紙を包む。エッダは笑った。


「はい、いまのも記録」


頭上の事故記録晶に、白い紋章が刻まれた。グレイヴが炎を使うたび、術式の発信元、王室印、時刻が新しい面へ焼きついていく。


「証拠を燃やす火が、証拠になってる」とアレンが言った。


「訂正。証拠を燃やす人が、自白を連投してる」


「言い方が軽いな」


「重く言うと怖いもの」


エッダの指先は震えていた。声だけが楽しげだった。


グレイヴが初めて歩調を乱した。


「記録は解釈されます。民は王を信じる」


「かもしれません」とジルは言った。「それを決めるのは、あなたではない」


白炎がジルへ伸びた。


ヴェルダが受け止める。黒い障壁へ亀裂が走り、古い革手袋が裂けた。


「三割まで落とすと言ったな」とジルが言った。


「二割だ。残りは、お前を王と認識している」


「働き者ですね、この城は」


「主人に似た」


「いま、褒めました?」


「百年前から保留している」


戦争心臓が鳴った。


アレンの腕が跳ね上がる。


「来るぞ!」


折れた剣がジルの胸へ突き出された。ジルは避けず、灰色の雑巾を刃へ巻いた。


衝撃が肩まで突き抜ける。剣先はない。それでも折れた断面が胸当てを割り、皮膚へ届いた。


「手を離せ、ジル!」


「離したら、斬るでしょう」


「斬りたくない!」


「知っています」


ジルは笑った。


「外すの、お上手ですから」


「いま褒めるな!」


剣の柄には、壊しきれなかった追跡術式が残っている。その線を、王命書の白線へ重ねる。


無銘布が黒く染まった。


アレンを縛る命令が、腕から剣へ、剣から紙へ流れていく。名前と記憶は動かさない。王が「勇者」を所有している接続だけを探る。


発生源。


経路。


残留先。


「見つけました」


ジルは王命書を一度だけ拭いた。


紙から、〈服従〉の文字が消えた。


アレンの腕が止まる。ノアとエッダの喉からも黒い紋様が剥がれ、床へ落ちた。


アレンはその場に膝をついた。


「終わった?」


「毒は残っています」ノアが自分の脈を測る。「でも命令はない」


「では、次です」


ジルはククを見た。


「瓶六本ぶんの残り、まとめれば?」


「一人ぶん。少し薄いです」


「ノアさんへ」


「三人で分ける」とノアが言った。


「あなたが一番深い」


「だから分かる。二人にも必要」


アレンとエッダが何か言う前に、ノアはククから三つの小さな雫を受け取り、二人の口へ一つずつ押し込んだ。最後を自分で飲む。


「相変わらず薄い」とノアは言った。


「味の問題ですか」


「患者の苦情よ。命令が切れたから、これで進行は止まる。処方はもう分かった。次は作れる」


まだ、戦争心臓は止まっていない。


黒い王冠がジルの頭上で形を増していた。名を拒んでいるかぎり、第零保管庫は開かない。受け入れれば、城は彼の命令を待つ。


百年前の記憶が、扉の向こうにある。


アレンが立ち上がった。足は震えている。それでも赤い外套を直し、ジルの隣へ並んだ。


「一人でやるな」


「これは、私の名です」


「俺の肩書も、俺一人のものだと思ってた。でも違った。見て安心した人も、命令した王も、守れなかった人も、みんなくっついてた」


「重かったですか」


「外套よりは」


「それは相当ですね」


「だから、一緒に下ろそう」


ジルは、黒い王冠を見上げた。


「ジルヴァール」


グレイヴが呼ぶ。


今度は、返事をした。


「はい」


城のすべての扉が開いた。


百年分の記憶が戻る。エリアスの笑い声。白冠の匂い。ヴェルダの火傷。自分で破った戴冠衣。誰にも見せずに泣いた夜。


それらはジルを別人にしなかった。


ただ、清掃すべき場所が増えた。


『正統王権を確認。命令を』


声が変わったわけではない。


背が伸びたわけでも、目が燃えたわけでもない。


それでもその瞬間だけ、魔王城の十三層すべてが、紺の作業着を着た男の次の一言を待った。


「現魔王ヴェルダ」とジルは言った。


「ここに」


「王権を返上しますか」


「する。百年前に借りたものを、いま返す」


「勇者アレン」


「ここにいる」


エッダが、焼けかけた任命状を広げた。


「あなたには『魔王領内における討伐、占領及び事後処理の全権』が委任されてる。王は、あなたを使いやすくしすぎた」


アレンは任命状を受け取った。


「人間王の代理として、魔王城の軍事機能廃止と、中立避難区への変更を承認する」


グレイヴが一歩踏み出した。


「勇者に、その判断はできない」


「頼りないから?」


「王命に反します」


「もう服従の字はない」


アレンは折れた剣を床へ置いた。


「だから、俺が決める」


城が二つの承認を読み取った。


『現行用途と創設目的の不一致を確認』


『軍事施設指定を解除可能』


ジルは灰色の布を手にした。


最後に消すべきものは、人ではない。記憶でもない。王と城をつなぎ、戦争を命じるためだけに残った接続だった。


グレイヴが白炎を放つ。


ヴェルダが防ぐ。バルガが排水をぶつける。テッタが換気翼を閉じ、ミミが全遠見水晶を事故記録へ切り替える。ノアが倒れかけたエッダの肩を支え、エッダは最後の文書を記録晶へ貼りつける。ククがジルの足元へ広がり、炎を吸わずに受け流す。


アレンは、剣ではなく赤い外套を広げた。


白炎が布を食い、民衆が安心するための勇者らしい姿を燃やした。


「いまだ、ジル!」


ジルは無銘布を戦争心臓へ当てた。


一度だけ、王として命じた。


「先代魔王ジルヴァールが命じる。魔王城を廃棄せよ」


黒い王冠が砕けた。


玉座が割れ、十三層の罠から殺意が抜ける。戦争心臓は小さく縮み、ただの黒い石になった。灰色の布からも魔力が消え、使い古した雑巾だけが残った。


グレイヴの白炎が消えた。


アレンが男へ飛びかかり、胸倉をつかむ。拳を振り上げた。


「アレンさん」


ジルはもう、いつもの声だった。


「焼却禁止です」


「こいつは、村を」


「証拠です。証人です」


拳が止まった。


グレイヴは汚れた白衣で、初めて周囲を見回した。命令も炎も失い、自分がどこへ分類されるのか分からない顔をしていた。


ジルは赤い札を一枚、グレイヴの胸へ結んだ。


「王室由来。意思あり。焼却禁止」


「私は、遺失物ではありません」


「でしたら、ご自分の言葉で話してください」


グレイヴは答えなかった。


その沈黙も、事故記録晶が残した。


背後で、第零保管庫が開いた。


中には、百年前の和平文書と、エリアスの署名が残っていた。最後の頁だけ、二人の署名とは別の筆跡で一文が加えられている。


エッダが読み上げた。


「『真実は清潔な場所ではなく、誰かが拭かなかった場所に残る』」


ジルは魔力を失った雑巾を見た。


「いい言葉ですね」


「覚えてないの?」アレンが聞いた。


「エリアスは、格好のよい言葉だけ自分で書く人でした」


「友達だったのね」とエッダが言った。


「ええ。人件費を見積もりへ入れないところまで、よく似ています」


放送管からテッタの叫びが響いた。


『聞こえてるから!』


ジルは天井を見上げた。


「全員、退避表示は見えていますか。ここからは通常の設備停止作業です」


「世界を変えた直後に?」アレンが言った。


「世界は担当外です。城を閉めます」


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