9.残すべき汚れ
世界は、担当外だからといって待ってはくれなかった。
三日後、人間王は「魔族による悪質な映像捏造」を発表した。
同じ日に、王室薬房の調合師が二人失踪し、辺境軍の三個小隊が討伐命令を拒否した。神殿は白冠の成分調査を始めた。魔族側でも、ヴェルダを裏切り者と呼ぶ者と、そもそも魔王が辞められるとは知らなかった者が、同じくらい騒いだ。
戦争は終わらなかった。
ただ、続ける理由を一つにまとめられなくなった。
それだけで、城門へ届く矢の数は減った。
七日後、〈魔王城〉と書かれた看板が下ろされた。
新しい看板には、〈境界共同保全区〉とある。
「弱い」とテッタが言った。
「何がです?」
「名前が。千槍回廊みたいな強さがない」
「避難施設に強さは要りません」
「〈絶対中立・誰でも来い砦〉は?」
「長いです」
「〈魔王城・改〉」とアレンが提案した。
「改修工事にしか見えないわ」とエッダが却下した。
「〈旧魔王城〉」とクク。
「古物件です」とジル。
「現名称で決裁済みだ!」
バルガの一喝で、看板会議は終わった。
元魔王ヴェルダは、魔族側の交渉代表になった。
最初の仕事は、百年間隠してきた記録を自分の名で公開することだった。責任を問われるたび、言い訳をせず同じ事実を答えた。ジルはまだ彼女を許していない。ヴェルダも、許しを日程へ入れようとはしなかった。
「始末書です」
ある朝、ヴェルダが分厚い束をジルの机へ置いた。
「百年前の採用申請書焼却について。バルガに三度、書き直された」
「主任は句読点に厳しいですから」
「お前ほどではない」
ジルは最終頁へ受領印を押した。
「受け取りました」
「それだけか」
「記録は、ここからです」
ヴェルダは一度目を伏せ、それからうなずいた。
勇者一行は、保全区最初の正式な亡命者になった。
ノアは旧拷問室を診療所へ変えた。拘束具だけは「患者が逃げるときに便利」と残そうとし、ジルと二時間協議した末、すべて撤去された。代わりに待合室へ、逃げた患者の似顔絵を貼る制度ができた。
アレンの似顔絵は、初日からあった。
「検診だったんだ。忘れてたわけじゃない」
「結果として来なかった患者を、世間では忘れたと言う」とノアは診察台へ座らせた。
「あのさ、元勇者にもう少し敬意を」
「血圧、正常。尊敬、要経過観察」
エッダは第零保管庫の記録管理を引き受けた。
「盗んだ本は返すんですか」とジルが聞くと、彼女は鍵形の耳飾りを鳴らした。
「訂正。和平が成立したら、国境を越えた分館として登録するの」
「成立しなかったら?」
「期限を延長する」
「便利ですね、貸出」
「便利にするためにあるのよ。規則は」
バルガの真似は、本人に聞かれて翌月の夜勤を二回増やされた。
ククは〈証拠保全担当〉になった。昇格初日の研修で、ジルは三つだけ教えた。
「勝手に吸わない。勝手に捨てない。吸ったら報告する」
「前より一個増えました」
「成長です」
ククは誇らしげに、以前より少し小さくなった清掃帽をかぶった。
ジル自身は、施設保全責任者になった。
王位へ戻ってほしいという嘆願書は、魔族側から三百十二通届いた。すべてに、同じ回答を返した。
〈当該設備は廃止済みです〉
「魔王を設備扱いする人、初めて見た」とアレンは言った。
「玉座と接続していましたから」
「自分のことだぞ」
「保守契約も切れました」
「本人が言うなら、そうなのか……?」
アレンは折れた剣を持たなくなった。赤い外套も、白炎で半分になったところをテッタに短く縫い直してもらった。今度はどこにも引っかからない。
その代わり、アレンは人間界と保全区を往復し、事故記録晶の写しを各地へ運んだ。剣のない彼を勇者と呼ぶ者も、裏切り者と呼ぶ者もいた。
どちらに呼ばれても、困ったように笑った。
ただし魔王城へ戻るたび、ゴミの分別から逃げようとした。
「空き瓶、六十三本」
ジルは一覧を読み上げた。
「多くないか?」
「三人で十日なら妥当」とノアが言った。
「剣の破片、四点。食料包み、十一枚。銀貨、二十七枚」
「銀貨は寄付だ」
「備品代にも足りません」とテッタが請求書を置いた。「人件費込み」
「ちゃんと入ってる……」
「あなたのおかげで学んだの」
「歴史へ貢献できて嬉しいよ」
「罠の修繕にも貢献して」
ミミが回収箱を持ってきた。アレンを見ると、わざと肩を押さえる。
「重いなあ。誰かに助けてもらわないと運べないなあ」
「分かった、持つ。だからあの放送の件は」
「何の話?」
「忘れてるならいいんだ」
「勇者に助けられたなんて、ぜんぜん覚えてないけど」
「言ってるぞ」
ノアが空き瓶を薬品、エッダがラベルを記録、ククが残留液、テッタが金属、ミミが回収箱を担当した。バルガは工数を計り、ヴェルダは元魔王だからという理由で一番汚れた瓶を洗わされた。
「命を懸けた暗号だったんだぞ」とアレンが訴えた。
「暗号でも資源ゴミは資源ゴミです」
ジルが答えると、全員が笑った。
笑っていないのはグレイヴだけだった。
彼は拘束されたまま、自分の裁判で王室との通信記録を証言した。最初の三日間は何も話さず、四日目に自分の名前を名乗った。それが、役職ではない彼の最初の記録になった。
夜。
分別作業を終えたジルは、城門前の巡回へ出た。
境界の風が、新しい看板を揺らしている。その下に、小さな瓶が一本落ちていた。
見慣れない紋章。中には白冠とは違う、青黒い毒。栓の裏には、三角の印がある。角を一つ、わざと潰してある。
誰かが、ここまで来た。
ジルは瓶へ手を伸ばし、途中で止めた。
白墨で周囲を囲む。雨除けを置く。赤い札へ、時刻と発見場所を書いた。
最後に、札の表を門のほうへ向けた。
〈未清掃。証拠保全中〉
瓶は、朝までそこに残った。




