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6.先代魔王は死んでいない

魔王城でいちばん安全な場所は、玉座の間ではない。


排水制御室である。


城が攻め落とされても、汚水は流さなければならない。その一点において、設備設計者は歴代魔王より現実的だった。


「左へ!」


バルガが叫び、全員が保守扉へ飛び込んだ。ヴェルダが最後に入り、白炎へ黒い障壁を叩きつける。扉が閉じる直前、グレイヴの穏やかな声が届いた。


「お話の続きを、お待ちしております」


「待たなくていいわ」とエッダが言った。


厚い扉が閉まり、送水管の唸りだけが残った。


排水制御室は狭かった。壁一面に弁が並び、中央には椅子が一つ。ヴェルダがその椅子をノアへ譲ると、ノアは断った。


「座ると意識を失う」


「立ったまま失うより安全だ」


「転倒すれば目が覚める」


「その治療方針、患者には勧めないでしょう」とジルが言った。


「医者は自分の患者ではないの」


「いま、うちの管理物です」


バルガがノアの肩をつかみ、椅子へ座らせた。


「理不尽な城ね」


「褒め言葉として受け取る」とヴェルダは言った。


現魔王を前にして、アレンは剣を構えようとした。半分しかないことを思い出し、途中で下ろす。


「あなたが魔王ヴェルダか」


「そう呼ばれている」


「俺は勇者アレンだ」


「そう呼ばされているようだな」


アレンは言葉を失った。


「魔王のほうが一枚上ね」とエッダが言った。


「いま勝負してないだろ」


「会話はいつも勝負よ」


「二人とも、静かに」とノアが言った。「余命二十七分の患者がいる」


「どなたです?」ジルが聞いた。


「私よ」


「やっと患者に入りましたね」


ノアは嫌そうな顔をした。嫌そうな顔をする体力は、まだ残っている。


ヴェルダは灰色の雑巾を見た。


「それは、戴冠衣だった」


「ずいぶん吸水性のよい王様ですね」


「お前は昔から、緊張するとつまらないことを言う」


「昔から?」


「いまのは、少し面白かった」とアレンが小声で言った。


ノアが脇腹を杖で突いた。


ヴェルダは革手袋を外した。右の掌に、古い火傷が走っている。


「百年前、お前はジルヴァールという名で、この城の王だった」


「書類と扉は、そう言っています」


「私も言っている」


「三件続きましたね」とククが言った。


「では、選ばれているのでしょう」


ジルは、ひっくり返した清掃用の桶へ腰を下ろした。


王だった者の座り方としては、だいぶ低い。


「先代魔王は、戦死したと教わりました」


「死体はなかった」とヴェルダが言った。


「勤務中だったから?」ククが聞いた。


誰も答えなかった。それが答えだった。


ヴェルダは、百年前のことを短く話した。


ジルヴァールと人間の王太子エリアスは、和平文書を作った。第零保管庫は、その最初の実験だった。敵味方の所属を失った者を、肩書ではなく生き物として保護する場所。


和平を望まない者は、両側にいた。


エリアスは白冠で殺された。魔族の毒に見せかけられた死を理由に、戦争心臓を起動する計画が進んだ。戦争心臓は正統な魔王の名だけを命令として受け取る。


「だから、あなたは自分の名を消した」とエッダが言った。


ヴェルダがうなずく。


「戴冠衣を布へ戻し、王名と王権の接続を拭った。接続に結びついていた記憶も失った。城を守る手順と、汚れの由来を記録する習慣だけが残った」


「なぜ清掃員に?」アレンが聞いた。


「本人の希望だ」


「記憶を失う前から?」


「最後の申請書へ、そう書いた」


バルガが低く唸った。


「採用申請書は」


「私が焼いた」とヴェルダが答えた。


「保存年限は永久だぞ」


「知っている。当時のお前はいなかったが、お前のような者に百年後叱られるとは思っていた」


「始末書を出せ」


「王へ?」アレンが目を丸くした。


「だから困っている」


ヴェルダはほんのわずかに笑った。笑い方まで、長く使っていない道具のようだった。


「私は、お前の最後の命令に従った。『和平のもう一方の証人が、証拠を携えて第零保管庫へ戻るまで、私を王へ戻すな』」


エッダは外套から、盗んだ和平文書の半分を抜いた。


「もう一方の証人は死んでる」


「その記録を継いだ者でもよい、と付記がある」


「ずいぶん律儀な抜け道ね。好きよ、そういうの」


「私は好きではないです」とジルは言った。


部屋の空気が止まった。


「命令を守ってくださったことには感謝します。けれど、私が私を知る機会を百年ぶん隠したことは、別です」


「分かっている」


「守るつもりだった、と?」


「そうだ」


「保管と所有は、よく似ています」


ヴェルダは反論しなかった。


「許せとは言わない。私がしたことは、私が記録し、私が公にする」


ジルは雑巾を膝の上で畳んだ。いつもの四つ折り。七つにはしない。


「王名を戻せば、どうなります」


「第零保管庫が開く。同時に、戦争心臓もお前を王として認識する」


「私が古い整備扉を開けたときから、気づいていたんですね」


「戦争心臓が最初の脈を打った。私は玉座の下で、それを押さえていた。離れれば城が先に目覚め、離れなければお前のところへ行けない」


「それで、遅刻を」


「始末書が必要か」


「事故対応ですので、今回は」


「助かる」


「グレイヴさんの目的は?」


「お前を起こし、私と勇者を殺させる。暴走した先代魔王の復活として、人間界へ見せることだ」


アレンが壁を殴った。送水管が鳴り、ノアが眉をひそめる。


「すまない」


「壁ではなく手を診せなさい」


「大丈夫だ」


「その言葉は患者に発言権がないときだけ使われる」


ノアはアレンの手を取り、包帯を巻いた。


「魔王へ戻れば、あいつを止められるのか」とアレンが聞いた。


ジルは少し考えた。


「戻るというのは、いまの私がどこへ行くことです?」


アレンは答えられなかった。


「俺も、勇者へ戻れと言われたら困る。そこから逃げてきた」


「逃げたのではないわ」とエッダが言った。「進行方向を、王都から反対へ訂正したの」


「それを普通は逃げたと言う」


「訂正は人気がないのよ」


ジルは作業票を床へ広げた。


白冠の呪い。勇者の称号。王命書。戦争心臓。無銘布。


「汚染は三つに分けます。発生源、移動経路、残留先」


ククが透き通っていく。ジルがいつもの仕事の話をすると、安心するのだ。


「全部まとめて消すから、人まで消える。分けて、記録してから、接続だけを拭けばいい」


「できるの?」ノアが聞いた。


「分かりません」


「ずいぶん頼りないな」とアレンが言った。


「あなたにだけは言われたくありません」


「たしかに」


アレンはすぐ認めた。そういうところは勇者らしかった。


扉の向こうで、白炎が鉄を舐め始めた。


ジルはバルガへ手を出した。


「主任。重大汚染事故の現場判断権をください」


「もう渡した」


「正式には、赤印が要ります」


「こういうときだけ規則に細かいな」


「こういうときのためにあるんでしょう?」


バルガは桃色の眼鏡をかけ、作業票の一番下へ赤い印を押した。


「全員、生きて退勤させろ。現場責任者命令だ」


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