5.百年前の清掃記録
「全員、その場を動くな!」
怒鳴り声とともに、一つ目オーガが整備通路を塞いだ。
バルガ主任は右手に大斧、左手に桃色の老眼鏡を持っていた。戦うときに眼鏡を外すあたりへ、繊細な事情がある。
アレンがジルの前へ出た。
「ここは俺が」
「剣が半分ですが」
「勇気は長さじゃない」
「間合いは長さよ」とエッダが言った。
「味方の助言に悪意がある」
「ジル」
バルガの声は、アレンをきれいに無視した。
「指定経路外行動、封鎖区画侵入、後輩の危険作業、魔王直命の不履行」
「最後は偽造です」
「知っている」
「では三件ですね」
「飛び降り一件を足して四件だ」
バルガは大斧を床へ置き、抱えていた革鞄から包帯を出した。ジルではなく、ククに乗せられたノアへ投げる。
「まず処置しろ。死ぬなら退勤処理をしてからにしろ」
「私は職員ではない」とノアが言った。
「その赤い札がある間は、うちの管理物だ」
「理不尽ね」
「生存確認は労災課の都合だ」
ノアは包帯を受け取り、ほんの少し口元を緩めた。
バルガは、偽造命令の伝令経路を逆にたどってきた。発信元は魔王城の中ではなく、人間界の王都。誰かが遠見水晶を介して業務系統へ入り込んだのだという。
「それで」と彼はアレンたちを見た。「粗大ゴミが三点増えた理由を聞こうか」
「俺は勇者アレンだ」
「可燃か不燃かだけ答えろ」
「人間は可燃では?」エッダが言った。
「味方の分類に迷いがないな」
「知識は平等よ」
事情を聞き終えたバルガは、怒鳴りも笑いもしなかった。作業票の裏へ何かを書き、ジルへ差し出した。
〈重大汚染事故。現場保存を優先〉
「推理は業務ではないのでは」
「事故調査は業務だ」
「便利ですね、規則」
「便利にするためにある。上の顔色を見るためじゃない」
バルガは革鞄から、さらに分厚い台帳を出した。
「お前の人事記録も持ってきた」
「なぜです?」
「第零保管庫が、お前の職員番号に反応した」
開かれた頁には、ジルの名があった。
所属、最深部夜勤班。役職、清掃員。採用日の欄だけが空白で、給与の出所には〈王城永久保全費〉と記されている。
「無断で百年勤めていた、ということ?」エッダが覗き込んだ。
「百年とは書いていません」
「この台帳が使われ始めたのが九十六年前。最初の頁にいるのに採用日がない。少なくとも九十六年」
「残業代は?」アレンが聞いた。
「そこですか」
「大事だろ。九十六年だぞ」
「いい人ね、あなた」エッダが言った。
「勇者だからな」
アレンは胸を張り、外套をまた戸口へ引っかけた。
第零保管庫は開かない。白い帯は近づいている。
一行は隣の旧資料室へ入った。棚の大半は空で、残った文書も一面白く漂白されている。エッダは紙へ鼻が触れそうなほど顔を寄せた。
「薬品ね。インクだけ溶かしてる」
「読めるか?」アレンが聞く。
「書いてないものは読めない。書いてあった跡なら読める」
ジルは炉の煤を集め、紙へ薄く振った。羽根刷毛で払うと、筆圧のくぼみに黒が残る。
文字が現れた。
〈第零保管庫運用規程〉
〈所属を失った者は、種族、身分、従前の敵味方を問わず保護する〉
〈除去は記録の後。王命であっても、順序を逆転してはならない〉
文章の脇には、誤字を示す三角の印。角の一つが潰してある。
「あなたの印ね」とエッダが言った。
「似ています」
「筆跡も」
「長く勤めれば似ることも」
「句点を一画目から書く変人が、百年で二人?」
「変人は余計です」
ノアが台帳と規程を並べた。
「自分を患者から外す人間は、治療が遅れる」
「私は魔族です」
「そこを訂正する元気はあるのね」
ジルは答えず、灰色の雑巾を七つに折った。
煤の文字へ触れた瞬間、資料室が消えた。
同じ机を、人間の青年と挟んでいる。青年は署名したあと、インクで指を汚して笑った。
『君の城なのに、君より清掃員のほうが偉そうだ』
『汚した者が言うことではない』
場面が跳ぶ。
白い泡を唇からこぼした青年が、腕の中で冷えていく。若いヴェルダが、折れていない二本の角を床へつけている。
『陛下、ほかに方法が』
『あるなら、もう使っている』
黒い戴冠衣を裂く。名を織り込んだ布へ手を当てる。
拭う。
自分が誰であったかを、自分の内側から。
「ジル!」
アレンの声で、資料室が戻った。
白い火が棚の間を走っている。
文書が音もなく灰になった。炎の向こうから、一人の男が歩いてくる。銀髪。白い礼装。白い手袋には煤一つない。
「ようやく、お目にかかれました」
男は丁寧に一礼した。
「先代魔王ジルヴァール陛下」
城の底で、二度目の鼓動が鳴った。
返事をしてはいけない。
そう思うより先に、黒い影が白炎を断ち切った。
片方の角が折れた女が、古い革手袋をはめた手で炎を握り潰す。
現魔王ヴェルダは、グレイヴではなくジルを見た。
「その名に、返事をするな」




