2.回復薬では治らない
職務違反には、軽いものと重いものがある。
指定経路から外れるのは軽い。封鎖区画へ入るのは重い。後輩を連れていくのは、バルガ主任の機嫌次第で死刑に近い。
「ククさんは戻ってもいいですよ」
「戻ったら、どう言えばいいです?」
「ジルが急に床の汚れを追って走りだした、と」
「いつものことですね」
「説得力があるでしょう」
二人は第八層へ続く職員用階段を下りた。
途中の医務室では、右肩を包帯で吊ったゴブリン警備員のミミが、ベッドの上で粥を拒んでいた。まだ若く、耳だけが体に先んじて大きい。
「食べないと治りませんよ」とジルが言った。
「食べる。いま食べようと思ってた」
「匙を裏返しに持っています」
「冷ましてんの」
ミミは乱暴に匙を持ち直した。ジルが枕元の床を拭くふりをすると、声を落とす。
「あの勇者、変だった」
「どのあたりが?」
「全部。技名が長い。外套が邪魔。剣を持ってない手で、おれの肩を押さえた」
「斬ったあとに?」
「ちがう。後ろから白い火が飛んできて、あいつが押した。だから剣が肩に当たった」
勇者の剣で負った傷ではある。だが、勇者に斬られた傷ではない。
「そのこと、誰かに?」
「言うかよ。勇者に助けられたゴブリンなんて、格好悪いだろ」
「粥を食べられずに死ぬほうが格好悪いです」
「食うって!」
ミミは匙を口へ突っ込み、熱さで飛び上がった。ククが水差しごと吸おうとしたので、ジルは止めた。
「白い火は、勇者一行の後ろから来たんですね」
涙目のミミがうなずいた。
「足音は?」
「しなかった。でも、焦げた匂いがした。勇者の女の人が『来た』って言って、それから急にみんな走りだした」
追われている。
ジルは粥の盆をミミの膝へ戻した。
「ありがとうございます。食後は薬を忘れずに」
「あんた、清掃員だろ」
「床に吐かれると困るので」
第八層の封鎖札には、まだ朝の湿気が残っていた。ジルは札を剥がさず、蝶番のピンを抜いて扉ごと外した。
「破ってないです」とククが言った。
「そうですね」
「いいんです?」
「よくはありません」
中は〈飢えた庭園〉と呼ばれる区画だった。肉食蔓が天井を這い、床には噛み砕かれた石が散らばっている。今は定期剪定中で、蔓の先に赤い布が結ばれていた。赤は停止、黄色は注意、青はククが食べてはいけないものだ。
勇者たちの通った跡は、庭園の中央へまっすぐ伸びていた。
パンを包んでいた紙が三枚。油染みは二枚にしかない。三枚目には噛みちぎった跡だけがあり、飲み込んではいない。
「喉をやられています」
ククが紙へ体を寄せた。
「吸って――」
「紙はだめです」
「聞くだけです」
足跡も三人分あった。鎧靴、細い革靴、踵の高い長靴。途中から細い革靴が消え、鎧靴が深くなる。二十歩先で鎧靴が浅くなり、今度は長靴の右だけが沈んでいた。
「交代で運んでいますね」
「荷物を?」
「人を」
ククの透明度が少し下がった。不安になると濁る。本人は隠せているつもりらしい。
折れた蔓のそばに、銀貨が二枚置かれていた。
「また弁償です」
「人件費は?」
「テッタさんに教わりましたね」
少し先で、天井の遠見水晶がひび割れていた。その真下だけ靴跡が乱れ、石壁には大きな文字が剣先で彫られている。
〈魔王よ、首を洗って待っていろ〉
「洗うのは、こちらの仕事なんですが」
「字、下手です」
「急いだんでしょう」
最後の〈ろ〉だけ、妙に丁寧だった。おそらく書いている途中で、誰かに直された。
水晶の視界から外れたところには、肉食蔓の切り口へ軟膏が塗られていた。勇者一行は、見られている場所だけ派手に壊し、見られていない場所では後始末をしている。
「よい侵入者ですね」とジルは言った。
「よい侵入者は、入ってこないです」
「その通りです」
ククはたまに、研修担当者より正しい。
そのとき、伝令コウモリが天井から降り、ジルの頭へ紙筒を落とした。
『魔王直命。勇者一行に係る遺留品は、記録を省略し、発見次第焼却すること』
末尾には黒い封蝋。魔王ヴェルダの紋章が押されている。
「捨てろって」とククが言った。
「そう書いてありますね」
「捨てます?」
ジルは封蝋へ鼻を寄せた。甘い匂いがする。
「人間界の蜜蝋です。うちの封蝋は地底蜂なので、もう少し臭い」
「どれくらい?」
「三日洗っていないバルガ主任の靴くらい」
「聞かなきゃよかったです」
紙の折り方も違った。魔王城の公文書は、角のある者が額で破らないよう内側へ二つ折りにする。これは三つ折りだ。
偽造命令を伝令系統へ流せる者が、城内にいる。
ジルは紙を畳み、ポケットへ入れた。
「焼かないんです?」
「燃えるゴミは月曜です」
「今日は?」
「木曜です」
床の上で、勇者たちの足跡が途切れていた。
いや、途切れたのではない。
幅半歩ほどの帯が、庭園を横切っている。そこだけ砂も埃も、石の隙間へ百年かけて詰まった黒ずみまで消えていた。清掃した者なら褒めたいほど、完璧にきれいだった。
ただし清掃員は、古い汚れまで一度に落とさない。石材が傷むからだ。
「四人目ですね」
「ゴミがないです」
「ないことが、残っています」
帯の先から、白い光が一度だけ瞬いた。
直後、誰かの短い悲鳴がした。
ジルはモップをククへ押しつけ、走った。




