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1.汚れの少ない侵攻

勇者は、魔王城第七層に空き瓶を六本置いていった。


しかも分別していなかった。


「世界を救う前に、ラベルくらい剥がしてほしいですね」


ジルは瓶を火ばさみで拾い、青い回収箱へ入れた。紺の作業着に灰色の髪。角は左右で長さが違う。魔王城最深部夜勤班の制服を着れば、どこからどう見ても、出世とは縁のなさそうな下級魔族だった。


膝のあたりで、青緑色のスライムがぷるりと震えた。体より大きな清掃帽には、〈安全第一〉と刺繍されている。


「瓶、吸っていいですか」


「だめです。ククさん、昨日も釘を三本吸ったでしょう」


「二本です」


「報告書には三本と」


「一本は画びょうです」


「それは訂正しておきます」


釘二本と画びょう一本。胃に相当するものがない生き物の食生活について、ジルはまだ理解を諦めていなかった。


第七層〈千槍回廊〉は、昨夜までの威厳をだいぶ失っていた。石壁には大穴。床には折れた槍。天井から垂れた鎖が、換気の風で寂しく鳴っている。魔王討伐の英雄譚では一行で済む場所だが、その一行を元に戻す者には半日仕事である。


「曲げた! 見てよジル、根元から!」


赤い羽根を逆立てて飛んできたのは、罠整備担当のハーピー、テッタだった。胸に抱えた槍を、怪我をした鳥のように見せてくる。


「直せそうですか」


「直すわよ。直すけど、これ手打ちなの。先端の返しも私が一晩かけて――あっ、そこ踏まない!」


ジルは上げかけた足を止めた。


「作動します?」


「しない。床石がずれる」


「そちらのほうが危ないですね」


ジルは黄色い札を立てた。〈つまずき注意〉。


テッタは壊れた槍を抱き直し、唇をとがらせた。


「勇者って、もっとこう、正面から刺さるものじゃないの?」


「職業ではなく個人差では」


「昨夜のは個人差がひどい。技名だけは立派なのよ。『蒼天を裂く暁の一閃!』って、振る三秒前に叫ぶの」


「親切ですね」


「間抜けなの」


「三秒あれば避難できます」


実際、回廊に血は少なかった。


少なすぎる、とジルは思った。


壁際に黒い飛沫がある。ゴブリンの血だ。だが剣が深く入ったなら、もっと高く、細く飛ぶ。これは皮膚を浅く切っただけだった。しかも傷口があったはずの位置には、人間界で使われる止血粉がこぼれている。


勇者が魔物へ止血をした。


英雄譚へ書けば、校正係に削られそうな一文だった。


「ジル!」


回廊の向こうから、大きな声とさらに大きな足音が来た。一つ目オーガのバルガ主任が、桃色の老眼鏡を鼻先へ載せ、作業票を振っている。眼鏡は妻からの贈り物なので、笑った者は翌月の夜勤が増える。


「遺留品の分別に何分かけるつもりだ」


「規定では二十分です」


「すでに二十七分だ」


「七分ぶん、世界が滅びますか」


「超過勤務になる」


「世界より先に主任が滅びそうですね」


「俺の心配をする暇があったら床を磨け」


バルガはそう言いながら、ジルの手から一番重い回収箱を奪った。いい人は、たいてい親切を叱責の形に梱包する。ジルの職場にはそういう者が多かった。


「ミミの搬送は?」とジルは聞いた。


「医務室だ。右肩を切られたが、口は動く」


「それなら大丈夫ですね」


「医務官も同じ判断だった」


回廊の隅で、ククが一本の瓶を透かしていた。


「ジルさん。回復薬、苦いです」


「吸ってはいけないと言いましたよね」


「舐めただけです」


瓶底に一滴だけ残った液体は、淡い紫色をしていた。回復草なら、乾けば緑の輪になる。これは白い結晶を残している。


ジルは指先へ一滴取り、匂いを確かめた。月塩。銀花。どちらも体力を戻すものではない。


「白冠の解毒剤です」


バルガの一つ目が細くなった。


「王室でしか作れん毒だぞ」


「だから高いんですね。空き瓶だけで私の月給くらいします」


「飲んだのか、持ち歩いているだけか」


「飲んでいます。三本は栓に歯形がある。二本は同じ人、一本は別の人です」


「なぜ分かる」


「瓶の口が欠けています。急いで開けたんでしょう。こちらは右の犬歯、こちらは左。あと、二本目だけ口紅がついている」


テッタが顔を寄せた。


「勇者、口紅するの?」


「個人差では」


「そこ便利に使わないで」


ジルは瓶を並べた。残量が違う。少量ずつ、一定の間隔で服用している。薬効は長くても三時間。一行は毒対策に持ち歩いているのではない。すでに毒を受けている。


回廊の中央には、勇者の剣先が落ちていた。


バルガが拾おうとしたので、ジルは手首を押さえた。


「呪いの残留があります」


「先に言え」


「先に触るからです」


断面を布越しに見る。剣は魔物の骨で折れたのではなかった。刃の片側だけに石粉が食い込んでいる。持ち主が床へ何度も打ちつけた跡だ。柄側にあったらしい術式の線も、断面で断ち切られている。


「勇者は、自分の剣を壊したようです」


「罠を避け、魔物を殺さず、自分の剣を壊し、王室毒の解毒剤を飲む」


バルガが指を折って数えた。


「何をしに来た」


「少なくとも、うちの備品を壊しには来ていますね」


床に銀貨が三枚落ちていた。ジルが拾うと、テッタが鼻を鳴らした。


「賄賂?」


「槍二本と壁材一枚の原価に、だいたい合います」


「人件費が入ってない!」


「勇者は見積もりが甘いですね」


バルガが咳払いをした。


「推理は業務ではない」


「はい」


「瓶を廃棄して、第八層へ回れ。死体が増える前に終わらせるぞ」


ジルは六本を回収箱へ入れた。


最後の一本だけ、栓の裏側に傷があった。


三角形。角を一つ、わざと潰してある。


ジルは親指でなぞった。現行版には載っていない、古い清掃記号だった。


――継続汚染あり。除去するな。


「ジル?」


「いえ。ラベルを剥がし忘れました」


彼は栓を作業着のポケットへ滑らせた。


薬の残り方を時計へ置き直すと、次の服用時刻まで五十二分。


勇者一行が進んだ第八層は、今朝から封鎖中だった。


清掃員が勤務経路を外れる理由としては、十分だった。


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