第6話『終わりと始まりのサザンクロス』
☆
棺桶の中に閉じ込められて、上空三十メートルの高さから落とされた。
しかも果てなど無いような広大な海へと。
状況は絶望的も絶望的……だが、不思議と言うほどの焦りはなかった。
それはいわゆる甘えでしかないのだけれど。
私にはまだ――最後の頼みの綱が存在している。
だからこそ湖から飛び出てきた列車に攫われ、見も知らぬ世界へと移動し、そこでかつて決着をつけたはずの因縁と再会を果たし、棺桶と共に海へと射出されようとも――すんでのところで踏み止まれている自分がいるのだ。し、それに。
比較的緩やかな落下の果て、柩が着水する。
てっきりそのまま海中に沈み、徐々に浸水していくものかと身構えたが、そんな感じはない。どうやら柩は水面の上で静止したようだ。
柩の天板が開く。
目に飛び込んでくる景色は、一面の海と一面の銀河――そしてもう一つの柩。
そう、何も棺桶に閉じ込められて海に落とされたのは、私だけではないのだ。
何か事情を知っていそうだったペイルパープルの髪を持つ少女……彼女もまた同じ状況にあるからこそ、少なくともすぐに身の危険が訪れることはないだろうと、直感したのである。
……前方、十五メートル先。まるで計算して落とされたように向かい合うもう一つの柩から、少女が出てくる。
海へと一歩踏み出し、そして落ちることなく、確かに水面の上に立っている。
なるほど。浮いているわけではないと感じてはいたが、柩が沈んでいないのはどうも、この水面自体が地面のように固定化されているかららしい。
「…………」
意を決して、私も柩の外へと一歩踏み出す。
すると身体中に絡まっていた花が引っかかり、張り詰めた糸が千切れたような感触があった。……特に首の辺りに。
月の海――『サザンクロス』、と言ってたわね、あのアナウンスは。
水面を足場にして底の見えない海の上に立つ。魔力を収束して足場にするといった風でもなく、普通に地面として安定している。なぞるように立てた爪先には水が付着したため、感覚としては、浅い水溜まりに立っているというのが近いか。
それから……空。
見上げるまでもなく目に映る一面の銀河――天の川は、息を呑むほど幻想的だ。
昼とも夜とも言えない明るさのある景色は、いつか写真で見たオーロラの眩しい夜を想起する。
空想めいた眩しさと心地良い暗さが同居する光景。安易に言い切れはしないが、まるで広大な宇宙空間を漂っているような気分になる。
もしもここが本当に宇宙だとするなら、遠くにヘリオスレッタの大地が見えたりしないだろうか、とさらなる状況把握のために辺りを見回そうとしたところ。
「…………っ」
何かに顎をくすぐられた。なんだろう。首元に手をやる。
すると指先に皮膚でも布でもないモノが当たったので、顎を引いて下を向く。
「…………これは」
真後ろにある柩の中を確認する。間違いない。中に敷き詰められていたあの花――五芒星を描くような花弁に、レースのような、クモの巣のような糸が広がっている真白の花が、私の首を囲うように輪を形成していた。
決して一般的な花じゃない。でも見覚えはある。
カラスウリの花――夏の季節に日没と共に開花し、夜が明ける頃にしぼんでしまうという一夜花。
いつだったか珍しい花を紹介している動画で見た記憶がある。でも。
「どうして首輪に……」
「――それはアトロポスの輪だよ」
「アトロポスの……輪?」
顔を上げて正面を見る。
するとペイルパープルの髪の少女は緩慢にその白い細腕を動かし、人差し指で自らの頭部を指差した。
「どちらかの輪が断ち切られたら、儀式は終わる。君はその首輪で、私はこれ」
「黒薔薇の……花冠……」
「だから――切らせてもらうね」
抑揚のない平淡な、囁くような声でそう言い切った瞬間、少女は駆け出した。
流れるような動きだった。そのミステリアスな雰囲気とは裏腹に、過不足ない重心移動でスタートダッシュを決め、隙のない動きで肉薄する様は、さながら修練を積んだ兵士のような――――否。
「――――」
残り三メートルを切ってからの踏み込みの後。
あとは慣性に身を任せるだけで、私の懐まで入り込めるという状況下で、少女は右手を構え――虚空から一振りの剣を取り出してみせた。
瞬間、まだ少しだけ余裕のあった間合いが、刀身の分だけ縮められる。
意識の外側を突く行動。判断を下すまでの猶予を刈り取る思索。
少女は兵士ではなく――剣士であった。
切られたら儀式が終わるというアトロポスの輪。
まさか徒手空拳で接近して引き千切るつもり……だとは考えてはいなかったが、それでも何かが来ると予測していた絶対絶命が、一秒早く刃を煌めかせる。
凶刃相手にこの間合い。
この誤差がどれほど致命的か、私は身を以て知っている。ゆえに。
「――――ッ」
私は半歩横に逸れて、迫り来る刃を文字通り紙一重で避けた。
「ん――」
少女の口から、微かに困惑の声が漏れる。
避けられる可能性など微塵も想定していなかったのだろう。
しかし生憎、切っ先の向かう先がアトロポスの輪――つまり私の首元であることは少女本人が語ってくれたし、加えて先月末からこっち、白髪紫眼がもたらした身体能力にも慣れてきているのだ。
口には出さないけれど、今の突きの速度なら、一秒の誤差でも誤差足りえない。動き出しを見てから回避できる。
……と、そんな私の内心を読んだのか。
「ふっ――――!」
少女は強引な足運びで二振り目を繰り出した。
だがそれも半歩下がるだけで回避成功。そして空ぶる袈裟斬り。大丈夫。少女の本命がまだ先であることは見えている。
続けて少女は剣を両手で握り直し、左逆袈裟を放つが、軽く身を屈めて避ける。
――次も、次も、その次も。
本命の一撃は既に避けた。だがそれでも反撃のない私を見て、少女は一手先を予測した攻撃すら放棄し、ブレた剣先をただただ無闇に振るい続ける。
……それにしても、あの剣。
少女が手にしている漆黒の剣。何も無いところから取り出されたということは、虚数空間に格納されていた、ということだろうか。だとするならあれは聖剣?
いえ、でも、少し違う気がする。
「……君」
少女の動きが止まる。一歩分の間合いを残して、少女は切っ先ではなく紫銀色の瞳を私に向けてくる。
「力を持たないから争いを避けているわけじゃあないんだね」
「このアトロポスの輪とやらを切られるとどうなるのか、もっと教えてくれない? それともこの儀式には時間制限でもあるのかしら」
「多分ないと思う。だけど、朝までここに居たくない、でしょ?」
言って少女は再び剣を構えた。……来る。
深い踏み込み。低い姿勢。自身の身体をまるでアンダースローのように解き放った少女の切っ先が、懲りずに私の首を狙う。
「――、――ッ」
一振り、二振り、先ほどの再放送を行うような無軌道な攻撃。
それらを見切った私は、再度少女に説明を求める言葉をかけようとした。
今の私にはそれだけの余裕があったし、少女の動きには自然とそう思わされた。
そう思わせることこそが――剣士の計略だった。
「ふ、ぅ――‼」
無軌道だったはずの剣閃が、一瞬にして研ぎ澄まされる。
油断を誘うための緩急。必殺の初撃を避けられた直後にはもう始まっていた、絡め手の二撃目。狙いは正確無比。
だけれど、それでも私は避ける――が、剣士はまだ止まらない。
続く三撃目。即座に正面から振り下ろされる正道の一刀。
……私は避けられなかった。
いや、反応は追い付いていた。このまま行けば確実に避けることができた。
だからこそ、なのだろう。
剣士はその直前で、振り下ろした剣を消失させたのだ。
虚数空間への再格納――そして剣を再顕現させるのは、振り下ろした空の手ではなく、次を見越して構えていた左手。続いていた魔の三撃目が迫り来る。
二段階に用意された不意を突く攻撃。
ああ、どう足掻いても――これは無理だ。
ぱきり、とガラスの割れるような音が響いた。
「――――――起源、抜刀」
手品のように消えて現れた剣には、こちらも同じ手段で対抗する。
空間を裂いて引き抜いた――十二番目の剣『ミゼリコル・トゥエ・レーヌ』。
この純白の剣を以て、私は一刀を受け止めた。
「っ……その髪と目、偶然じゃないかもって思ってた。やっぱりそうだったんだね。本物の……聖剣」
ついに交わる刃と刃、しかしそれも一瞬のことだった。
剣こそ抜いてしまったが私の目的は戦うことではないのだ。
受け流すように刃を捌いた私は、足をバネのように使い、後方に飛んで剣士から離れる。
「……ッ、と……この軽さ、まさか本当に……」
距離にしておよそ十メートル以上は稼げただろうか。
いくら常人離れした身体能力を宿していようと、これはさすがに飛び過ぎだ。
いよいよ本当に、首輪を切られるわけにはいかなくなってきた、かもしれない。
私……ではなく、私の握る聖剣を見つめて止まる少女に、意を決して問う。
「ねえ、ここってもしかして、月なの――?」
「うん」
「そ、そう……」
思いのほかあっさり答えてくれた少女だった。中々掴みどころのない子だ。
しかし……今のはわりとハッタリというか鎌をかけた感じだったのだけれど、どうやら本当に月らしい、ここ。
まあアナウンスで『月の海』と思いっきり言っていたのだから、もっと推測に自信を持っても良かったのかもしれないが……少なくとも前世で月の海といえば、静かの海とも呼ばれるクレーターのことで、実際に海水があるわけではないのだ。
というかそもそも、まずこうして呼吸できるわけないし。
でもそこはそれ。
ここは前世の月ではなく、異世界ヘリオスレッタの月なのだから、何もかもが同じというわけでもないのだろう。
そして同時に、何もかもが違うというわけでもない。
たとえば――重力だ。
うろ覚えだが、月の重力は地球の六分の一しかない。
それでこの異様に軽い身体と、緩やかに落下した柩――空気抵抗の関係上、重力が弱いからといって高所から落下しても一概に無問題とは言えないらしいが――に説明が付いた。
確信とまではいかずとも、半信半疑ぐらいにはなった。
で、トドメに彼女の返答だ。
さて……ここが月だと、月の冥府だとするならば。
「柩。葬儀。月の冥府。あなたはさっき、片方の輪が切られたら儀式は終わると言っていたけれど、それは――切られたほうが死ぬから、ということ?」
「うん」
またも即答だった。
私は眉根を寄せて、聖剣を握る手に力を入れる。
いざとなれば……『絶対無血領域』を発動する。
だがこの儀式、術式が、どこまで魔法の対象となるかは私にも分からない。
もしも月でこうして呼吸できているのが、単に異世界の月だからというわけでなく、そういった魔術の影響下にあるからだとするなら……身を守るつもりで自らの生命線を断ってしまうという最悪の可能性も、決してゼロじゃない。
考えろマリモジュナ。大丈夫。指針は見失っていない。
ならば、進むべき道はきっと――、
「――でも、それはまだ本当の死じゃない。死ぬことも生き返ることもできるって、教わった」
何気なく平淡に続けられた少女の声。
本当の死では、ない。
つまり切られた瞬間、即座にすべてが終わるわけではない。
重要な情報だ。……なぜ少女は今、それを私に教えたのだろうか。
私に剣を執らせるため? 少女のアトロポスの輪を狙わせるため?
だが、今の言葉に嘘がないなら、どうしてあの子は私の輪を狙ったのだろう。
儀式を終わらせるだけなら、自分で自分の輪を切るということもできたはず。
いや、答えは単純だ。
少女にはそれをできない、そうしたくない理由があるのだ。
そこで再度、この疑問に立ち返る。
ならばなぜ――少女は今、私にそれを話したのか?
自身の輪が狙われるリスクを、少女は極力抱えたくないはずなのに。
これも私を誘い込むための駆け引きの一種なのだろうか。
分からない。確信を持てるほど、私はあの子を知らない。
……だからこの開示が。
あの子なりのせめてもの誠意、気遣いという可能性だって、あるはずよね。
「――なら、やるべきことは」
見えた気がする。
なに、思い込みならそれで結構。
なぜかと問われるのであれば、貸しを作っただけとでも答えるまで。
私は少女に視線を送った。第二ラウンドを始めよう、と。
「――――」
少女が走り出す。綺麗なフォームだ。まるで氷上を自在に舞うフィギュアスケーターのよう。ただ走っているだけなのに、目を奪われる美しさを内包している。
棚引くペイルパープルの髪。跳ね上がった水滴を受ける毛先の蒼白。
白い細腕が支える漆黒の剣。その切っ先の行く末を狙い澄ます、紫銀色の瞳。
少女の間合いに入るまで残り五メートルを切った、束の間。
私は少女の瞳をそっと見返して――手にしていた聖剣を、格納した。
それは先ほどの少女が取ったような、駆け引きの一環ではなかった。
もう使わないからポーチに仕舞った。本当に、ただそれだけのこと。
一瞬、驚いたように目を見張る少女。しかしすぐに私の考えを見抜いたのか、あるいは内心を測れずとも千載一遇の好機と取ったのか、射程距離に入った少女は滑らかに浅く息を吐いて――剣を振るう。
黒刃が描く軌道は、寸分の狂いなく私の首元――カラスウリの花によって形作られたアトロポスの輪を捉えている。
目は瞑らなかった。逸らさなかった。そっと息を止めて身体を固定し、差し出すように私は、その切っ先を受け入れた。
「――――――」
音がした。刃が空気を切り裂く音。
結われた花が断ち切られ、水面に落ちる音が。
「ありがとう。私はあまり多くの人を知らないけど、それでも君が特別に優しい人だって、分かったよ。だから必ず――」
その先の言葉を聴くことはできなかった。
なぜなら、背後で音もなく佇んでいた柩から蔦が伸びてきて。四肢に絡みついて。私の身体を強引に、柩の中へと引きずり込んだから。
――マリモジュナは納棺された。
儀式が次の段階へと移行する。
鈍い水音が響く。今まで立っていた水面に沈んでいく。柩に水が満ちていく。
次第に息が途絶え、閉ざした口の間から気泡が漏れていく。
ぼうっ、と柩に炎が灯る。
私はふと……いつかの神父の言葉を思い出した。
古来よりヘリオスレッタでは、死者は死神に魂を回収されることで月の冥府へと還り、生命の循環を進めることができるという言い伝えがある。
だからこの世界の葬儀では、死者の魂が彷徨うことのないように、死神の目印となるように。
遺体を納めた柩に火を付ける送葬――即ち火葬を行い、白煙を高く立ち昇らせる風習があるのだ、と。




