第5話『柩在列車-トロイメライ・トレイン-』
☆
「一緒に、暮らす……?」
ルカ・フローレンスの提案に、私は戸惑いの声を漏らした。
対するルカは、そのストロベリーピンクの瞳は、じっと私を見つめて、花のような笑みを浮かべて。
何とも素敵な提案だろうと言うように、盲目的にあるいは切実さを込めて、言葉を続ける。
「お互いを知るきっかけを作りたいんです。ですからまずは、わたしとの関係を疑似体験してみませんか? 終わることが前提の偽物の関係というのは、寂しいですけど……」
「――――」
心の底から、少なくともルカなりに真摯に紡がれる説明に、しかし私は何も言わなかった。
それはルカの言葉には一考の余地があると思索を巡らせている、わけではなく。
ただ、白髪紫眼がもたらした原初の直感が、意識を湖のほうへと誘って――。
「もちろん、本当にわたしを好きになってもいいですよ。本物になっても。これまで通り『みんな』も優しく受け入れて、」
ルカはそこで言葉を止めた。否――私が遮った。
無言で、待ったをかけるように、右手を軽く挙げて静止した。
「マリモさん?」
「――――歌が、聴こえる」
「歌? 言われてみれば。民謡ですかね? 初めて聴きますけど、なんだか懐かしいような」
歌が、聞き手の存在によってはじめて成立するものだというなら。
この歌は……断じて私たちに向けられたモノじゃない。
ならば誰だ? 湖に居る別の誰か? それとも森の中に潜んでいる誰か?
どれも違う気がする。
この歌を捧げられているのは。
この歌を本当の意味で聴いているのは。
……夜空の、向こうの。
「月に――いえ、月が、引っ張られているの?」
空色の青空の面影を失くした月夜に、おぼろに呟いた――刹那。
轟音が、突如としてこの場に在るすべてを貫いた。
「ッ――なに、っ?」
まるで雷でも落ちたかのような、あるいは花火でも弾けたような、鼓膜を、眼球を、内蔵を震わせる振動だった。
抗えない衝撃に怯む私とルカ。その一瞬の後、鼻先に冷たい何かが触れた。
それは水の粒だった。それはおそらく雨ではなかった。それはきっと湖だった。
空へと巻き上げられた湖の水が、まるで雨のように降り注いでいるのだ。
私は手を翳して水粒を避けながら、月を、空を見上げる。
そして目を見張った。その光景を目撃し、あり得ない答えを直感して。
この雨のような水飛沫は、巨大な質量を持った何かが湖に落ちたことで発生した現象――ではなく。
反対に、湖から飛び出してきたことで発生した現象であると。
月を背景に空を飛ぶ/空を駆ける、その『列車』を見て――思ったのだ。
「なんですあれ、列車が空飛んでますよ……!」
上空三十メートルほどの高さを周遊しているそれに、驚きの声を上げるルカ。
直後――列車の先頭車両、その上部で光が瞬いた。
閃光。それは即座にか細い糸のように形を変え、文字通り光の速さを以て、夜の海を照らす灯台の明かりのように回転し、天使の輪のようなモノを形成する。
そこで終わりではない。環を構成する光の糸――その一部が分離し、降り注ぐ雫に混じって、地上に放たれた。
光の糸は全部で七本。その内の二本は私とルカに照準を合わせ、やはり光速を以て目標へと急接近する。避ける隙などあるはずがない。
「ッ――、――?」
光は私の首元に迫り、貫く直前で湾曲して巻き付き、首輪を構築した。
一方で、ルカを狙った光は、彼女の左手の薬指に輪を構築したようだ。
それを見届けて、ようやく一秒が経過する。思考が追い付く。
手を構え、聖剣が格納されている虚数空間に意識を集中する。
この輪が契約魔術のような代物で、それが危害を加える意図を持つならば、『絶対無血領域』を発動し即座に無効化するべきだと判断したのだ。
よって私は魔法を発動するべく聖剣を顕現させた。
「――――ッ、⁉」
――はずだった。が、叶わなかった。
なぜなら、またもや思考を追い越す出来事が発生し、取り戻したはずの理性が、指の隙間をすり抜けていってしまったから。
「――ぅ、――――ぁ」
暗転した視界。一瞬覚えた浮遊感。
先ほどと違う地面の感触。鼻先をくすぐる独特の香り。
まるで酷い乗り物酔いをしたときのように揺らぐ平衡感覚。
それでも何とか眉間に力を込めて、重い目蓋をこじ開ける。
瞳を刺したのは暖色の明かり。木の床板。向かい合っているボックス席。木造りのフレームとガラス窓。その向こうに広がる高所からの景色と、眼下に望む湖。
「列車の……中? さっきの? ――――ぐ、ぅッ⁉」
聖剣を顕現させようとした瞬間、車両の中に転移した。
その出来事を、理解はさておき事実として認識したとき、すべてが傾いた。
私の視界も。身体も。景色も。列車そのものも。
これじゃあまるでジェットコースターだ。湖から出発して空へと上昇、一定の地点まで到達したところで――降下を始める。
私は割れんばかりに奥歯を噛み、手近な背もたれを掴んでぎりぎり倒れそうな身体を支えながら、ひたすらに耐えた。
遠ざかっていく意識。眩んでいく視界。どうしようもなく冷えていく全身。
何もかもが追い付かない、極限状態の最中で――。
『柩在列車――次の駅は月の海『サザンクロス』、『サザンクロス』――』
声を聴いた。
先ほどの歌とは違う。車内響いたそれはきっと、アナウンスだった。
『葬儀に出席されるお客様は、お好きな席にご着席の上、今暫くお待ちください』
列車が湖に飛び込んだ。
重力の鎖がたわんでいく。次第に落下は上昇へと移り変わる。
体内を暴れ回る内臓。立っているのか浮いているのかも分からない感覚。
それらに振り回される、永遠にも思えた刹那の時をやり過ごし、私はやっとの思いで……再び目蓋を開けた。
すると真っ先に瞳に飛び込んできたのは。
先ほど目にしたどれでもないモノだった。
一面の銀河と一面の青に挟まれた――果てなど無いような世界。
朝でも昼でも夜でもない、時の狭間……。
「また景色が変わった……一体何が起きて……ッ、ルカ――⁉」
辺りを見回そうと身体を動かしたことで、手を置いていた座席の、それまで死角になっていた部分が目に入った。
横になって倒れている――ルカの姿が。
私はすぐに彼女のもとへと駆け寄ろうとして。
けれど、まだ少し硬直気味だった足に力を入れたせいか、いつもと違う妙な感覚が走って。転びそうになって。とっさにまた、近くの背もたれに手を突いて。
ルカが倒れている座席のほうへと、後続車両の方向へと伏せた顔を上げた。
その瞬間。濡れた前髪の切れ間から、またもや、あり得ないモノを目撃した。
「な――ッ――――」
時間が止まったようだった。
呼吸は間違いなく止まっていた。
果たして一体いつからそこに居たのか。
どうして今の今まで気が付かなかったのか。
車両の中心。座席と座席の間を通る通路。そこに。
「ゴドー、神父――なんで――――」
――いつか、別れを告げたはずの死神が、佇んでいた。
再誕の日々の中で紡がれた、とても一言では説明できない因果を、因縁を持つ宿命の名前……ゴドー。愕然としてその名を呟くと。
「……マリモ、ジュナ」
男もまた、私の名を口にした。かつて身に纏っていた黒い神父服と、首元に垂らしていた銀の十字架を手放した姿で、険しい表情のまま。
まるで宿敵の名を口にするように……静かに、ゆっくりと。
決して夢や幻ではない。
これまで見てきた悪夢や幻覚と違って、あれは確かな存在感を放っている。
……間違いなく本人だ。
騎士団に逮捕され、水面下で極秘の施設へと移送された神父。
あの男がどういうわけか今、果ての無い世界で、あるいは世界の果てで、私の目の前に立っている――。
先ほどから一切動いてくれない思考が、既にフリーズしたはずの脳が、限界の先にもまだ到達できる限界があると嘲笑うかのように、魂をぐちゃぐちゃにかき乱して、最後に残った理性さえも摘み取ろうとする――けれど。
あの男の姿に投影されるのは何も、引きずり込むような死の抱擁だけではない。
己に課した赦しという贖い。
伽藍の空に抗う反逆の意思。
それが何とか理性を繋ぎ止め、荒れた呼吸の手綱を握り、元の視野を取り戻す。
そうして釘付けになっていた視線を逸らし、私はあの男の後方にある座席、その左右にそれぞれ見知った人物が倒れていることを確認した。
「――ッ、ハイネ……クロヴィスまで……⁉」
拳を握る。皮膚に爪を喰い込ませ、痛みで無理やり平静を取り繕う。
もう驚くことには疲れきった。
ならば次は状況を把握し、やれること、やるべきことの判断を下さなければ。
「答えて神父、これは機関の仕業なの――っ?」
「…………」
男の口は開かれない。が、目は別だった。逸れる視線。それは肯定と否定のどちらを示しているのか。さらに表情を窺おうと目を細めた、束の間。
ふと、男の背後で揺らめく影があった。
私は思わず、吸い込まれるようにそちらに視線を向けた。
座席を立って通路に出てきたのは、身に纏った黒い着物とそれより深い濡羽色の長髪が特徴的な……背の高い女性だった。
こつん。軽く響くヒールの足音。
それは前方に居る着物の女性から……ではなく、私の背後から聞こえた。
ああ、と私はそこで悟った。あの男が視線を逸らしたのは、口では言えない答えを目で訴えるためでも、何かを誤魔化すためでもなかったことに。
要は、あの男は私と同じように、相対する者の背後に現れた人物に気を取られただけだったことに。
「――ご安心くださいお客様方。皆様の命に別状はございません。慣れない感覚に酔ってしまわれたのでしょう。しばらくの後、目を覚まされますよ」
聞き覚えのある声、というよりも先ほど聞いた声といったほうが正しい。
……列車が湖に突入する直前に響いた、車内アナウンス。
それを行った人物を確認するべく、私は神父への警戒を切らさず振り返る。
先頭車両――即ち列車の操縦室からこの車両に来たばかりの、その存在は。
「ば、バニーガール……?」
そう、バニーガールの恰好をした、黒髪の女性だった。
先ほどの着物姿の女性によく似た綺麗な黒髪。そして病的なまでに白い肌。
さらにボディスーツにパンストというバニーガールの衣装を、見事に着こなせる抜群のプロポーションがこれでもかと目を惹いて――って、まさか。あの男、聖職者のくせにバニーの色香に釣られたわけじゃあないわよね……?
いえでも……あのバニーガールさん。
恰好こそ大胆なものの、どうにも印象としては煽情的でもプリティやキュートでもなく――儚さ、薄幸さが前に出ているような。
と、なんだか妙に冷静に分析してしまう程度には予想外の登場だったけれど……しかしそれすらも通り過ぎるように、また新たな足音が聞こえた。
「……君が案内役? 早く終わらせたいから、始めてもいいかな」
私とバニーガールの間、車両の先頭に近い座席から、気怠そうな声と共に姿を見せたのは、ペイルパープルの髪を持つ少女だった。
その青白い毛先には水が滴っている。彼女も湖に居たのだろうか。
いや、それにしては少し濡れすぎているような気もするが、しかし着ている黒のワンピースは見たところ乾いている。
防水の魔術加工でもされているのか、あるいは単純に着替えたのか。
いずれにしてもそんな私の疑問を余所に、少女の言葉にバニーが答える。
「おや、ということはお客様が進行役でございますね。でしたらええ、ぜひ。口頭での説明はまた後日ということで、今回はまず、起きている方々に実際に見ていただいたほうがよいでしょうから」
少女が頷く。そしてその紫銀色の瞳が、不意に。
「ん。じゃあ君、悪いけど相手になってくれる?」
マリモジュナを射抜いた。直後、少女は軽やかに私との距離を詰め、もうあと半歩でゼロ距離というところで左手を突き出し、私の胸を押した。
「え――」
強い力ではなかったはずだ。
なのに、どうしてか抗えなかった。まるで体重が無くなってしまったかのように、私の身体は軽々と押し出され、ビロード張りの座席に手を突いてしまう。
瞬間、座席が開いた。
「――えぇっ⁉」
さながら内開きの扉のように押し込まれた座席の上部、一寸先は闇――あるいは伽藍。私は座席の中に落下した。
まだ、まだ何か起きるというのか。もう本当に、驚く気力がなかった。
一秒後。暗闇の中で壁にぶつかり、落下は比較的すぐに止まった。
手足を伸ばし身体をねじり、可動範囲を把握しながら何となく状況を理解する。
「ッ……今度は箱の中……?」
判明したのはそれだけじゃない。
顔や手などの露出した肌をくすぐる感触と、濃密な植物の香り。
種類までは分からないが、何かの花が敷き詰められているようだ。
そしてこの、やたら横幅が狭く、縦長のスペースを持つ箱。
花を入れる……いや供える、人ひとりが入る大きさの箱ときたか……。
思い当たるものなんてもう、ひとつしかない。
「まさか、棺桶なの……これ」
押してもびくともしない上蓋。がこんがこんと連続する機械音。
列車に揺れられているのとは違う振動に、なんとなく、本当になんとなく感じる、下へと降りている感覚。
この、嫌な、予感は……。
『――出柩いたします。葬儀の間、この列車は停車いたしません』
そのアナウンスによって現実のものとなった。
出柩。それは棺に入った故人を火葬場へと送る、ある種の儀式。
がこんッ――と一際大きな機械音が分厚い木板の向こうで鳴り渡る。
途轍もない浮遊感と風切り音が、息つく間もなく襲い来る。
ああ……どうも柩の中に入れられた私は、眼下に広がっていたあの果ての無い一面の海へと、投下されてしまったらしい――。




