第4話『月を乞う、夜泣きの歌』
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七月二十八日。午後十一時四十五分。
今日も今日とて消灯時間を過ぎてから男子寮を抜け出した俺――クロヴィス・ヴェルタ―は、本日の目的地であるノーザンクロス湖へと足を運んでいた。
校舎の東側まで行き、そこから北の森に入る。
草木も眠る丑三つ時――には少し早いが、辺りの空気は既に静まり返っていた。
枝葉の揺れる音どころか動物の立てる物音すら聞こえないというのは、それはそれで不気味な気もするが、長丁場を覚悟し夜食を摂った今の俺からすれば、なんとも眠気を誘って仕方がない静謐だ。
「ふぁあ――あ、ったく師匠ってば、マジでどこに居んだよ……」
欠伸をしながらぼやく。この眠気の原因は単なる食べ過ぎ以外にも、近頃睡眠不足だというのもあるだろう。
特に昨日なんか学院の敷地から出て、噂が立っていた墓地まで出向き、四時間は張り込んだのだ。その疲労が抜けきっていないというのは、充分あり得る話だ。
「無理言ってこいつの携帯許可取り付けたのに、全然反応ないじゃん……もうすぐ夏休み始まっちまうぞ」
言って俺は腰に提げた魔導具――工学部の連中によって様々なパーツが外付けされた機械刀を小突き、魔力探知機能がきちんとオンになっていることを確認する。
「ま、昼間のやつは探知できてたから、ポンコツじゃあないんだろうが……」
それで言うと、隣の席の女子ことマリモさんはなんで察知できたんだろうな。
こういった道具に頼らない魔力探知は高度な技術で、しかもマリモさんは魔導の初心者すぎて一学年下に編入してきた人だ。修得しているとは到底思えないが。
まあそれでも入学して一週間で『親愛なる光輝』の称号を授かったとんでもない人だし。例外中の例外を宿していることは確か。
その何かしらが作用している、というのは全然あり得る話……か。
以前は身の丈に合わない力を宿していると妬み、嫉み、僻んだこともあったが、周囲の期待に応えようと自ら責任を負う最近の姿は、普通にすごいと思う。
いよいよとなったら、噂のケイジ課とやらを頼ってみるのも悪くないかもな。
人探しの報酬……何を返せばいいかちょっと考えておこう。
マリモさんのことだから無報酬でもやってくれそうだけど、そういうところはきっちりしたいし――と思考を無軌道に走らせていた、そのときだった。
左耳に付けたイヤーカフ型デバイスから、電子音が鳴った。
「ん、なんだ?」
何かが感知に引っかかった。魔力の揺らぎ――誰かが付近で魔的法則を行使、あるいは今まさに起動しようとしている。
ソナーの性能から推測するに、丁度この先の湖が感知圏内に入ったその矢先にこれだ。もしかしたら当たりを引いたのかもしれない。
俺は急いで湖に向かった。
まるで中空に浮かぶ月に誘われるかのように。
そして、森を抜けた湖の畔で、静かに足を止める。
「――――――」
――少女がいた。
不確かで青白い夜の世界。月光が枝垂れる湖の水面。
まるで月へと続く入り口のような……その光の中に。
――水浴びをしている、少女がいた。
濡れた淡い紫色の髪。その毛先はまるで月光の色が移ったように青白く。
滑らかな曲線を描く身体、水滴が滴るその肌は、森に囲まれた湖というこの自然の景色の中で何よりも不自然な、造り物めいた真白と極美を宿していて。
――知らず、見惚れていた。
今にも消えそうなほど儚く、幻想的なユメでも見ているような。
瞬間を切り取って閉じ込めた、永遠の絵画に圧倒されるような。
己が生きているのか死んでいるのかも定かでない、時間だった。
この静寂は、この停滞は、少女のために――あるいは少女自身によって、夜が止まってしまったからなのだと、そんな馬鹿なことを当たり前のように思った。
だが、幽世を映したようなあり得ない光景は、次の瞬間。
ふと――少女が肩越しに俺を振り返ったことで、あっけなく崩れ去った。
「ぁ――――」
目が合う。視線が重なる。
月の欠片を埋め込んだような紫銀色の瞳が――オレの存在を認識する。
それから少女はおもむろに水音を立てて。
無造作に身体をこちらに向けようとして。
その、一糸纏わぬ裸体が俺の目に晒されようという刹那、我に返る。
「ッ――悪い!」
少女に合わせるように、即座に身体を百八十度反転させる俺。
軽く頭を振る。脳裏に焼き付いた光景を振り切るように。
まるで今まで止まっていたみたいに、心臓の鼓動が早くてうるさかった。
何やってんだ俺は……普通に覗きじゃねえか、これ……。
「その、俺、人を探してて……」
覗くつもりじゃなかったんだ、と言おうとした、が。
それが見苦しい言い訳であることに気付いて、言葉が途切れた。
すると背後から再び水音が響いて、そして。
「……誰を探しているの?」
声が聴こえた。不思議な声だった。
ともすれば聞き逃してしまいそうなほどか細いのに、冷たい指先で背筋を撫でられるような、脳に直接響いているような、魂を優しく刺激する声。
その妙な感覚にくすぐったさを覚えつつ、俺は必死に言葉を探した。
顔が熱くて、油断すればすぐに散らばっていってしまう思考を、どうにかこうにか手繰り寄せて繋ぎ合わせようと努力する。
落ち着け。覗いちまった事実は変わらないが、嘘は言ってない。
どうなるにせよ、とりあえずありのまま話すんだ。
「黒い着物を着た女の人……見てないか? 背丈は俺と同じぐらいで、髪は長くて色は黒……いや、たまに金色になってることもあるんだけど」
「…………」
答えは、すぐには返ってこなかった。
何とも言えない静寂。俺はその間、師匠がナイトウォーカーであること。普段は授業をサボり部屋にも戻らず放浪しているから捕まらないこと。『親愛なる光輝』への推薦を蹴った人であること。それから夏休みの宿題のために師匠を探していること等々……補足情報から探している理由までを追加で話そうとして、けれどかえって混乱させるだけだと思い、ただただ押し黙った。
そうして一通り思考が空回りし、落ち着いて待つことを決めた直後。
小さく吐息の零れる音が聞こえた。
「知らない。ごめんね」
平淡だけれど、申し訳なさが伝わってくる声色だった。
「いや、謝るようなことじゃねえよ。こっちは邪魔した立場だしな」
そうだ――邪魔。自分で言って思い出した。
そもそも俺がこの場を訪れたのは、魔力の揺らぎを感知したからだ。
裸の女子を前にして――いや、後ろなんだけど――すぐにこの場を去らないのは自分でもおかしいと思うけれど、あり得ない状況も間延びすれば、いくらか慣れてくるもんだ。
理性の手綱を取り戻した俺は、少女に質問を投げかけることにした。
「……ところでアンタ、高等部の生徒か? あ、俺は高等部一年のクロヴィス・ヴェルタ―だ」
まずは自分から名乗るべきだと思い、名乗る。
すると再び、少女は思案するような静寂を招き、その後に呟いた。
「……ペイル」
「え?」
「――ペイルライダー」
……告げられた名前に、違和感を覚える。
いや、あまり人の名前にどうこう言うものじゃないけど……なんていうか、それは女子に、人に付けるような名前には到底思えなかったのだ。
そう名乗った少女の声の、感情の無さからも。
まるで何かの道具か、それこそ魔術詠唱のように、俺には感じられた。
「あ……もしかして通り名みたいな感じか? 『さざ波の止まり木』みたいな。まさか『親愛なる光輝』じゃねえよな……?」
学院に七人しかいない特別生――それが『親愛なる光輝』だ。その称号に与えられる特権は強大で、同時に立場に振り回されることも多いと聞く。
よって大半の『親愛なる光輝』は、その素性を秘匿している。
初等部から学院に通っている俺でさえ、知っているのはケイジ課の周知をするために叙任式を開いたマリモさんと、うっかりバレたキリスキリエだけ。
だから、目の前の浮世離れした少女が実は『親愛なる光輝』であるというのは、あながち的外れな推測でもない気がした。
が、そんな考察を余所に、ぼんやりと少女は続ける。
「……あと、ルナール……それと、ロッテ」
「あー……つまり『ペイル・ルナール・ロッテ』って名前か。ああいや、『ペイルライダー・ルナール・ロッテ』……」
言葉を整理するように呟く。すると。
「……ペイル」
ほんの少しだけ、熱の、感情の籠った声で少女は言い直した。
まるで、ペイルライダーという名乗りを撤回するかのように。
「ペイルだよ。クロヴィス」
「お、おう。じゃあ……ペイルって呼ばせてもらうよ」
……なんだこの会話。
少女――ペイルの意図もそうだが、俺は別に仲良くなりたいわけでもないのに。
気を取り直そう。横道に逸れてしまったが、俺は少し強引に本題を切り出した。
「ええと、つまり何が言いたいかっていうとだ――なんかの儀式をやってるっぽいけど、こんな時間にあんま派手なことしてると教師がすっ飛んでくるぜ? 月と湖の組み合わせに水浴びってことは……未来視か交霊でもやってるのか?」
「月を呼んでる。落ちてきてほしいの」
ぽやーっとした声でとんでもないことを言うペイルだった。
「おいおい、マジだったらかなりヤバいじゃねえかよ……」
いくら何でも不可能……だとは思う。しかしペイルの声は平淡ながらに凄みがあるというか、嘘や誤魔化しが入っているようには聞こえなかった。
それに少なくとも、ペイルの内的魔力、そしてこの場の外的魔力が励起されているのは本当だ。
外的魔力まで使ってるならそれは魔法……常識や理屈など通らない。
もし、もしも本当に、比喩でも何でもなく月が物理的に墜ちてくるのだとしたら、わりと真面目に世界の危機なんじゃないか――?
「…………」
悪いと思いつつ、周囲を確認してから、目蓋を閉じて先ほどの光景を想起する。
……とりあえず視界に入った範囲には、学院の制服は見当たらなかった、多分。
つまりそれは、結局ペイルが学院の生徒なのか分からないということだ。
……これ、なんか止めたほうが良い気がしてきたな。
月の浮かぶ夜の湖。不思議な雰囲気を持つ少女との運命めいた出会い。
要素のみを抜き出せば青春履行委員会が好きそうなシチュエーションだけど、どうにも不審者との接近遭遇という方向に針が傾いてきたぜ。
俺は再度少女に問う。
「それってもう終わったのか? ずっとそうしてたら夏とはいえ風邪引くぜ?」
「風邪……風邪って死ぬ?」
「え、まぁこじらせて肺炎とかになったら結構危ないイメージはあるよな……? 免疫力の低下した高齢者ほどは罹らないだろうが、気を付けるに越したことはないと思うぜ」
「じゃあ早く終わらせるね。ん……始めるのかな?」
「え、ちょ――」
マジかよ……⁉
様子を窺ってうまいこと止めるつもりが、逆に背中を押しちまった……!
思わぬ失態に歯噛みしつつ、こうなったら力ずくにでも止めに入るべきかと、引き金に指先を添えた――刹那。
『――終の銀 世界梯子 翔け上がる 回帰の海』
ペイルの声が聴こえた。
それは、先ほどより鮮明に、より脳に響いて。
それは、一言では、一息では留まらなかった。
なぜならそれは――――歌だったのだ。
俺は、ペイルが裸であることも忘れて、振り向いていた。
月を見上げ、月に向かって両腕を広げて歌う……ペイルライダー。
少女の髪が、まるで風に棚引くカーテンのように、広がっている。
『別つ水面に 飛び 泣き 濡れた 七つの十字架 抱き直される 泡――』
意識が釘付けにされていた。
文字通り儀式めいた、少女の行動に。
美しく音色を奏でる少女の後ろ姿に。
そして何より、
「なんだ、この歌――どっかで聴いた覚えが……」
遠い記憶をくすぐられる感覚があったのだ。
月を乞う、月を落とすという、この歌に――――。




