第3話『親と子/恩と使命』
♰
懐中時計を確認すると、時刻は午後十一時五十分を過ぎていた。
もうすぐだ。もうすぐ、七月二十九日の午前零時がやってくる。
……やってきて、しまう。
森の中に身を潜めたまま、オレ――ハイネ・ヨハネス・ヒルデブラントは、嫌な汗の滲む指先で、懐から一枚のメッセージカードを取り出した。
呼吸が早まっている。唇が渇いている。瞬きの回数が増えている。
カードに目を落とす。何度見直しても、内容が変わることはない。
書かれた文章も。脳内でリフレインする声も。
解釈の余地などないほどに簡潔で……明瞭だ。
天を仰ぐ。祈りを捧げるためではない。神は信じていない。
ただ少しでも呼吸を楽にするために、上体を反らしただけだ。
それにこの世界の天に浮かぶ月は冥府――祈ったところで望む奇跡が与えられることなどないだろう。
目蓋を閉じて、持ち出してきた魔導具である剣の、柄を握る。
意識を集中して、記憶を呼び起こす。転生する以前のこと。転生のきっかけになった出来事のこと。転生してからのこと。
そして少し前の――あの日のことを。
あの日の放課後、オレは学院の男子寮には戻らず、ヘリオスレッタ中央都市西区にある、ヒルデブラント家の屋敷へと帰宅した。
前の晩に、近いうちに帰ってくるようにという旨の手紙が届いたからだ。
乗り込んだ馬車が屋敷に着く頃には、すっかり日が沈んでいた。
出迎えてくれた使用人に荷物を預け、応接間に向かう。
もうすぐ晩餐の時間だ。
富裕層であれば現代技術を生活に取り入れることのできるこの世界で、ヒルデブラント家や以前招かれたロードナイト先輩の屋敷などは――前世の基準で――一世紀近く前の上流階級の生活様式を、その伝統を、今でも保ち続けている。
よってその伝統に従い晩餐の前は、執事が呼びに来るまで応接間で待機するものなのだ。賓客がいても、いなくても。
少なくとも自分は幼い頃からの習慣でそうしている、と以前話していたことを覚えている。
だからオレは、帰宅の挨拶をするべく応接間に足を運んだ。
「ただいま戻りました――アーノルドお養父さま」
「ああ、お帰りハイネ。我が愛しの息子よ」
暖炉の前のソファーに腰かけていた養父――アーノルド・ヒルデブラントは、帰宅したオレの姿を見て、笑顔を浮かべて立ち上がった。
学院に編入してからは寮生活が始まり、顔を合わせない日のほうが多くなってしまったが、落ち着いた声と品のある立ち姿は記憶の中のそれと一切変わらない。
五十近い齢でありながら老化による衰退を感じさせない、どころか精悍な顔付きと正装の上からでも分かる鍛えられた肉体からは、二度目の全盛期を迎えたアスリートのような風格さえ感じる。
若作りしているのとは違う、年月に裏打ちされた、厚みのある存在感。
それを華麗に身に纏う養父が、オレに対しては、まるで赤子の面倒を見る父親のように口元を綻ばせて、肩に優しく手を乗せてくれる。
「元気そうで何よりだよ。さあ、そこに座って話を聞かせておくれ……と言いたいところだが」
「――旦那さま。晩餐のご用意が整っております」
「そういうわけだ。料理を冷ましては料理長に怒られてしまうからな。ひとまず着替えてきなさい、ハイネ。食堂でまた会おう」
「はい。お養父さま」
晩餐の準備ができたことを報せにきた執事と入れ替わる形で、オレは応接間をあとにし、二階へと向かった。
自室の扉を開ける。足を踏み入れるのは冬期休暇以来だ。
だが、たとえ主がおらずとも使用人が毎日掃除をしていることは知っている。
晩餐用の正装が既に用意されていたことを除いて、室内は最後に訪れた数か月前からずっと時が止まっていたかのように、一切変化なく清潔が保たれていた。
素早く、けれど少しの乱れもないよう慎重に着替えを済ませて部屋を出る。
一階へと向かう道すがら、ある通路の前で足を止めたが、結局その先にある部屋に歩を運ぶことはなかった。
きっと自室同様、在りし日の光景が崩れてしまわないようにされているはずだ。
郷愁とすら呼べない自己満足で、それを踏みにじってはいけない。
気を取り直して食堂に向かう。先に着席していた養父と再び軽い挨拶を交わして、向かいの席に座る。
食事のたびに運び込まれるダイニングテーブルは、部屋の大きさからすると少し見劣りする物がチョイスされていたが、それでも六人は広々と使えるサイズだ。
部屋の内装も、卓上の装飾品も、まさしく豪華絢爛といった具合で。
ああ――ヒルデブラント家に、上流階級の世界に、戻ってきたのだなと感じる。
それが普段の学生生活と比べて前向きなモノか、後ろ向きなモノか、決して表情には出さないが……いずれにしても養父と、家族と、このように同じ食卓を囲めるのは心の底から喜ばしいことだ。
ふたりだけの晩餐。運ばれてくる料理。近況報告から始まった団らんの夜。
オレは学院での成績やクラスメイトのこと、先日ロードナイト家次期当主の屋敷に招かれたこと、百年祭での催しなどについて話した。
そうしてゆったりとした夕食の時間を過ごし、食事が一段落した頃だった。
「ふむ、中々楽しそうな学生生活を送れているようで何よりだよ。……アンネリーゼにも教えてやりたいな」
養父はそう言って、グラスのワインを飲み干した。
すかさず執事がボトルを持って傍に寄ったが、養父はそれを手で制する。
表情を見たところ特に酔いが回った様子はなかったが、今夜はもう飲まないようだ。新たなワインが注がれることはない。
オレは、少しだけ声のトーンを落として、養父に尋ねる。
「近頃の……お養母さまのご容態はいかがでしょうか」
訊かないわけにはいかなかった。
おそらくはきっと、それこそが、今回養父がオレを呼び戻した理由なのだから。
「……ふむ」
深く、重く、眉間に皺を寄せる養父。
「お前が悲しめばアンネリーゼも悲しむだろう。ゆえにそれを承知の上で、聞いてほしいのだが…………」
言うべきか、言わざるベきか。
最後まで躊躇うような数秒の沈黙の後、養父は意を決したように告げた。
「――アンネリーゼの病気を治す方法が見つかった」
「ほ、本当ですか……⁉」
言って自分で驚くほど大きな声をあげてしまった。
もし今でもまだ屋敷に、かつて教育係を務めていた男が逗留していたなら、さらに大きな声で叱られた後に罰則を受けたはずだ。
けれど仕方がないだろう。
だってオレは、その真逆の言葉を想像していたのだから。
「落ち着きなさい。過ぎたる期待は絶望を招く。確率は決して高いとは言えないのだ。……だが手術が成功した暁には、アンネリーゼは再びこの屋敷に帰ってくることができる。再発のリスクもないそうだ」
「……魔法が存在する世界でさえ、緩和的治療しかできないと宣告されたあの日の絶望は、今でもまだこの心に残っております。たとえ僅かな可能性だとしても、それが存在すること自体、まるで夢のようなお話です」
静かに、けれども力強く希望を噛み締めるオレに、養父は曖昧に笑って言う。
「そうだな。私もまだ、夢のように感じている」
「日程はもうお決まりですか? 先ほどお話しした新たな『親愛なる光輝』――彼女の力を借りることができれば、手術の強力な一助となるやもしれません」
このような提案、普段のオレのポリシーに反することだが、そしてそれは彼女に要らぬ重荷を背負わせかねない行いだが……それでも今回だけはと思う気持ちは留まることを知らない。
怪我や病の進行を止めることができる、彼女の結界――『絶対無血領域』。
あの結界は魔術を無効化する力を持っているが、それは他者を害する場合に限る。治療行為及び治癒魔術が無効化されないことは、彼女自身が証明済みだ。
これなら少なくとも、手術中の不測の事態……たとえば容体の急変などの対策になるはずだ。
「ああ、それも考慮に入れねばな。……しかし、ハイネ」
吉報に調子づいて舞い上がるオレを諫めるように、養父は目を細めた。
「私たちには何よりも優先して果たさなければならぬことがある。それはアンネリーゼの帰ってくる場所――このヒルデブラント家を存続させることだ」
「はい、お養父さま」
「実は、な。今回お前を呼び戻したのは、ひとつどうしても頼みたいことができたからなのだ」
そこで、ようやく悟った。
養父がオレを屋敷に呼び戻したのは、既に余命宣告を受けている養母を救う、まさしく魔法のような手立てが見つかった報告するため――ではないことに。
話の本題は、ここからなのだということに。
「愛する我が子に頼らざるを得ない私の未熟を、どうか許してほしい」
「そのようなことを仰らないでくださいお養父さま。家族の一員として頼っていただけることは、私にとって誇らしいこと。喜ぶべきことなのですから」
「ハイネ」
「……この世界に転生し、身寄りの無かった私を養子に迎え育てていただいたご恩、誓って片時も忘れたことはございません。ヒルデブラントの次期当主として、どのようなことでも尽力することをお約束いたします」
「ハイネは本当に、できた息子だよ。私たちの誇りだ。――――では」
養父は執事に目線を送った。
直後、終わったはずのディナーに、新たな一皿が運び込まれる。
皿の上には一通の封筒。それがオレにのみ配膳される。
給仕を担っている執事が音もなく退室する。
扉が閉められる。密室が出来上がる。
これはおそらく、誰にも、執事にさえ聞かせられない話なのだと、直感する。
「単刀直入に言おう。ハイネ」
アーノルド・ヒルデブラントは澱みなく告げた。
「お前には――ある人物を暗殺してもらいたい」
養父の名誉のために言っておくが、オレがヒルデブラント家に迎えられてから行われた教育に、人殺しの授業などは断じて無かった。
叩き込まれたのは上流階級で生きていくための礼儀作法が主で、格闘術の訓練もあったけれど、それは自己防衛のために、何より誰かを守る力を身に付けるために自ら望み課した鍛錬だった。
だから養父の頼みは、依頼は……率直に言って、乱心したとしか思えなかった。
だって本当に、理想を体現したような養父だったんだ。
オレをひとりの人間として認め、ときに優しくときに厳しい、しなやかな強さを持ち、誠実で、きちんとした大人で、オレには勿体ないぐらいの……親をやってくれたお方で。
だけど……だからこそ……。
アーノルド・ヒルデブラントから下された暗殺依頼。
それはヒルデブラント家を存続させるため、何より再び家族三人で暮らすため、避けては通れない使命――断れるはずがなかった。
いや、その場では引き受けると頷きながら、後日個人的な調査も行ったさ。
養父が何者かに脅されている可能性を探った。
養母が入院している病院の人の流れや経営状況を探った。
ヒルデブラント家と関わりのある他の上流階級の家のことを探った。
けれど、養父が何をどうして暗殺を命じたのか、はっきりとした理由は出てこなかった。
唯一気になった点を挙げるとするなら、養母の手術の予定が、病院側ではまったく組まれていないという点ぐらいだ。
そこからかろうじて立てた仮説が――通常の治療行為に限界を覚えた養父は、余命僅かな妻を救うべく、闇医者のような存在を頼った。
そしてその医者を取り巻く、裏社会の事情のようなもので暗殺を交換条件に出された……というシナリオだ。
しかし仮にそうだったとして、やはりこれは、養母を救うために実行しなければならない暗殺ということにしかならない。
……ゆえに。オレに残されたのはもう猶予のない日数と、暗殺を実行するという選択肢だけだった。
『――人生にはどうしようもなく、あるいは確固たる信念を抱いて、倫理の壁を超えなければならない機会が一度や二度はある。お前ならよく知っているはずだ』
文字通り、死ぬまで手に入れることのできなかった、親からの愛。
オレだけが手に入れてしまった、親子の情。
失うわけにはいかない。
守らなければならない。
オレは剣の柄を握り直した。
かつて振るった、金属バットの感触を思い出しながら。
在りし日の養父の声を思い出しながら。
在りし日の養母の声を思い出しながら。
最後にもう一度だけ、晩餐で渡された封筒に入っていたメッセージカードに、目を落とした。
――七月二十九日。午前零時。アプステラ魔術学院。ノーザンクロス湖。
対象:―――・――――。
なぜこの人物が湖に現れるのか。
それを疑問に思う思考回路は、もはや焼き付いて動いてくれなかった。




