第22話『この手を伸ばすよ。繋がれなくても』
♰
三歳年下の弟がいた。名前は――ジャック。
オレたちは野球が好きで、いつか隣町にあるクラブに入って、兄弟そろってスタメンに選ばれることが……夢だった。
父は酒飲みでロクでなしだった。
一人目の母はオレを産んで死に、二人目の母はジャックを産んで出ていった。
まあよくある話だ。
父は金を自分のためにしか使わず、オレたちはなんとか小学校には通えていたけれど、その日を生きるのにも精一杯で。
炊き出しに行ったこともあったし。物乞いに混じったこともあった。
それが学校の連中に見つかりいじめられたことも、大人を頼ったのにどうしてか悪い方向に進むこともあった。
平穏なんて本当に、時の隙間に消え去るほど僅かにしか存在しないモノで。
当然、すり減っていくだけの毎日が長続きするはずもない。
どうしたって限界は訪れる。
だけど親も大人も誰も助けてくれない。
ならどうすればいい? 盗むか? 奪うか?
そうだな。そうしていれば、あるいは……違った道も開けたかもしれない。
だが答えは否――オレは父に土下座して、仕事を斡旋してもらった。
一体あの父にどんなコネがあったというのか。
相手は街中にポスターが張られるような偉い人だった。
きっと心さえも委ねてしまえば世界を変えてくれるだろう悪魔。
それでもオレは……何も選ばなかった。
ただ自分が奪われることを、他人事のように見て見ぬフリしていた。
いつだってそうだ。
オレは弟を守ろうとして。父から逃れようとして。
何かを変えようと思っても、思うだけでいつも中途半端で。
一歩踏み出したつもりが足踏みしているだけで。
きっと、ずっと、心のどこかで諦めていたのだ。
普通の日常への憧れだけ立派に抱いておきながら。
自分は陽の当たる場所にはいけないと、汚れた身体を抱いて泣いたように。
けど、だからこそジャックだけは、明るい場所に送り出してやりたかった。
だってあいつは笑って言ったのだ。
どこかから拾ってきたボロボロのボールで、キャッチボールしながら。
――いつか一緒に野球をしよう、って。
みんなの輪の中に入って。選ばれて。新しい居場所を作って。
降りかかる不幸も助けてくれない大人も世界も全部全部、ホームランで打ち返してやろうって。
その姿はまるで、泥の中に咲く花。嵐の中で輝く灯台。
だからオレは食事も、稼いだ金も、社会と関わる機会も、その全部を譲った。
なのにジャックは、秘かに貯めた金でオレにバットをプレゼントしてくれて。
そしてそのバットで――父に殺された。
仕事を終えて、家とも呼べない薄汚い箱の中に戻ると、酔った父の傍には、凹んだ金属バットと、放り投げられた人形みたいに手足があらぬ方向に曲がり頭を潰された、ジャックがいた。
父は何かを言っていた。
ジャックが口答えしたとか、反抗的だったとか、そんなようなことを。
そしてオレは、こう思った。思ってしまった。
なんでそんな、バカなことをしたのだろう……と、ジャックの亡骸に向けて。
父に逆らえばどうなるか、結末の想像は容易かったはずだ。
だから二人で家を出られる算段が付くまでは、オレが準備を整え終えるまでは、何をされても平気な顔をしていようと、決めていたはずだ。
なのにどうして勝手なことを。どうしてオレを置いて先に。
いや……本当は分かっている。そうだ。どうしようもなく分かっていた。
いつかこんな日が来るという予感があった。だから恐れ、遠ざけていた。
バカなのは、何もしなかったオレのほう。
ジャックはきっと譲れない何かを守ったのだ。
何を奪われ踏みにじられようとも、生きてさえいればなんとかなる。
そんな綺麗事では誤魔化しきれない――絶対に譲ってはならないモノを守るため、戦ったのだ。
なぜそれが分かるのかって?
だって、ジャックを侮辱する父に対して、オレもバットを掴み取ったから。
オレは父に襲い掛かった。だけど容易く反撃に遭った。きっと同じように頭をフルスイングされた。目の前が暗くなった。でもまた目が覚めた。酔いが回って眠った父が居た。オレはまたバットを持って今度こそ、それを振り下ろした。
何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。
全部壊せば無かったことになると思った。
バットを振っていれば、この悪夢は醒めてくれると。
嫌なことなど全部、消えてくれるのだと思い込もうとした。
だから叫びながら、返り血を飲み込みながら、鐘を鳴らすみたいに、ホームランを打つみたいに、全身全霊でバットを振り続けた。
やがて手に力が入らなくなって。なのに指からバットが離れてくれなくて。
視界がぼやけて。立っていられなくなって。意識が遠くなって。
何もかもが赤に染まったまま、暗転。
次に目を覚ましたとき――オレはヘリオスレッタに居た。
見知らぬ街の、見知らぬ路地で生まれ直してしまった。
騎士に保護されたオレは孤児院へと送られ、それからどんな偶然が働いたのか、ヒルデブラント家に養子として迎えられることになった。
子を持たない上流階級の家に、引き取られる。
最初に聞いたときは渇いた笑いが零れたものだ。
死してなお、汚れた魂は穢れた大人を寄せ付けてしまうのかと、呆れたような、諦めたような、そんな笑い声が。
でも蓋を開けてみれば、養父も養母も使用人たちも……みんな本当に優しくて。
涙が出るくらい綺麗で、輝いていて、温かくて。
ヒルデブラント家の英才教育はストリート育ちには厳しい部分もあったが、選んでくれたその期待に報いたいと、必死に頑張ることができた。
ただひたすらに努力を積み重ねる時間でさえ、愛おしく思えた。
学院に入学してからもそうだ。
かつて憧れた普通の日常を送ることができ、青春と呼ばれるような思い出を作ることができた。
オレの存在をこれ以上ないほどに認めてくれる、逆境に立ち向かう強さを持つ、『ジャックに似た存在』と知り合うことだってできた。
満たされていた。紛れもない幸福の日々だった。
……でも、だからこそダメだと思った。
これはダメだと、今でも思い続けている。
だってオレは人殺しで。
それなのに二度目の命を授かってしまった、奇跡の簒奪者で。
この世界に来てからのオレの日常には、常に罪悪感が付きまとっていた。
ここに居てはいけない感覚。異物感。居心地の悪さ。
手折られた花のように首の曲がったジャックから、常に侮蔑の視線を向けられている光景が頭から離れなかった。
『なぜ自分ではなく、何も選ばなかったお前に奇跡が降り注いだのか』――と、頭の奥で怨嗟の音が響き続けていた。
にも関わらず、オレは平和な日常を享受し続けて。
二度と失いたくないと、今がずっと続けばいいのにと、停滞を求めてしまって。
そうしてまた、何もかもが失われそうになって。
そうしてまた、何も選べないまま終わりそうになって。
なあ、誰か――教えてくれないか。
オレはどうすればよかった? どうするのが正解なのだろう?
繋がりたいのに繋がれない。
選ばれたはずが何も選び返せず。
誰の手も掴めないまま、先の見えない闇の中を彷徨うばかりで――。
『――だけど、私はこの手を』
……なんだ?
『これが私の答え――――――』
歳月の幻灯じゃない。
柩の外から、声が、聞こえる――?
☆
ゴドー、クロヴィス、ハイネが三つ巴の戦いを繰り広げている間。
ひとり柩を押して目的の地点に到達した私は、そっと胸に手を置いた。
瞬間、ガラスが割れるような音と共に、虚数空間から聖剣の柄が出てくる。
――引き抜くは『ミゼリコル・トゥエ・レーヌ』。刃無き純白の聖剣。
それを、己の首元に添える。
「今度は答えを持っていくわ――ルカ」
白百合の花で作られた輪を、私は断ち切った。
すると柩から蔦が飛び出してきて、私の四肢を拘束し、中へと引きずり込む。
閉じられる天板。沈んでいく柩。末期の水に浸かっていく私の身体。
「―――、ッ……ぁ」
苦しい。呼吸が整わない。思考が霧散していく。身体の奥底、内蔵よりももっと内側がどうしようもなく震えて、底冷えて、思わず両腕で自分を抱き締める。
目蓋を閉じているはずなのに視界が真っ白になっていって。抗えない虚脱に包まれて。自分が自分じゃなくなっていく感覚に貫かれて。一刻も早く逃れたい、楽になりたいという衝動が脳内で絶叫して。
そして私はそれらに対し――――反逆する。
歯を食いしばって。零れ落ちそうなほど眼球に力を込めて。
必死に。ゆっくり、少しずつ……ひたすらに耐えて、浅い息を繰り返し。
そうしてたった一発分の、全神経を集中してかき集めた気力を総動員して、柩の天板を――思いっきり殴りつけた。
「……ぁぁぁああッ……‼」
何度味わっても慣れるモノじゃない、死の引力。
怖い。恐ろしい。今回こそは無理なのではないかと、情けないぐらい涙が出る。
だけどまだ――苦しくても、辛くても、私にはまだ、やるべきことがある‼
現実押収、空想展開。
「『絶対無血領域』――‼」
私は聖剣を振るい、空色の青空の下に具現化した結界を開く。
水の中、私の背には魔力で編まれた真白の翼が顕現し、周囲には無限に等しい羽根が舞う。
それはまるで、海に降る雪――命の証のように。
魔の法則によって一時的に呼吸を不要とした私は、手を伸ばす。
指先に触れたのは、閉ざされた天板。
それは前回の葬儀からずっと、これ以上沈むことも浮くこともなく月の海の中に留まり続けている柩――ルカ・フローレンスを冷たく抱擁する檻だ。
私は天板に手のひらを置いて、心の中で言葉を紡いだ。
『ルカ、久しぶり――この声をあなたが聴いているかは分からない。けど、きっと耳を傾けてくれていることを願って、続けるわ』
この声は、私が新たに結界に付与した効果だ。
かつて経験した心と心が通じ合う感覚を下地にした、意識を共有できる法則。
それはこれまで、結界など無しに起きていた現象で。
そしてきっと、ルカとは結界が無ければ起こり得ない現象で。
……この行為が。
相手の聖域を踏み荒らす、侵略であり蹂躙である暴力だと、理解している。
何を言っても取り繕えない、かつて私が唾棄した、エゴを貫くという開き直りであることは理解している。
だけどこれもまた、隠すことはできない、私からあなたへの答えだから。
『あれから、色々考えたの。いつもみたいに自分の中に籠って、それで、私なりに答えを出したわ』
柩に額を付けて、私は密かに囁くように、続ける。
『あなたの言った通り――私はゴドーに惹かれている。恋を、している。この気持ちはまだ萌芽のようなモノだけれど、大切に育んでいきたいと、そう思っている。伝えられるかどうかは、またちょっと別の問題だけどね』
反応はない。
『それから、ルカの記憶を思い出して……思い知った。私とルカには、決定的に分かり合えない部分があるということに』
返事はない。
『笑っちゃうくらい、当たり前のことよね。でも、恋を理解できないあなたの想いと、恋の芽生えた私の心を並べてみて、やっと実感できたの』
応答はない。
『―――私は、あなたのことを、理解できない』
分からない。分かるはずがない。
有る私と無いルカでは、どうしようもなく通じ合うことができない。
それは断じて優劣を表すモノでも善悪を決めるモノでもなく。
ただ事実として、決して埋められない断絶があるということ。
私は思考の海で、その結論に辿り着いた。
無論、これはそういうロジックなのだなと、分からないなりに感覚や行動を類推することは、不可能ではないだろう。
だけどそれは理解ではなくて。決して知った風になってはいけないことで。無かったことにするのは欺瞞で。
だから、埋めないことでこそ尊重される――断絶とはそのような面も持っているということを、見落としてはならない。
『だけどね……』
それを理解したからこそ、その上で、できることがあるはずだ。
『覚えてる? この間、ハンバーガー屋さんに行ったときのこと。私とあなたは同じ物を頼んだわよね。あれ、私はすごく美味しいと感じたわ。ルカはどうだった? もしも、ルカも美味しいと思っていたなら……それじゃあ、ダメ?』
………………。
『私とルカは、お互いに相容れない部分を持っている。多分無いほうがずっと良くて、でも失くすことはできない嫌なところ。でも――それでも同じモノを食べて、美味しいと感じられたなら。分かり合えないところがあっても、そうじゃない部分だってあるのならば……そんな友達では、ダメかしら……?』
断絶を自覚してなお友達でいたいと思うことは、荊の道だろう。
何も変えず今のままで……そうすればこの先、また何度もぶつかると思う。
互いに傷付けあって、少しずつズレが生まれて、そのうち愛想が尽きて、いっそあのとき、あっさり縁を切っていればって後悔することになるかもしれない。
ならばきっと最初から、あなたとは価値観が合わないからさよならしましょうと、距離を置くほうが楽ではあるのだろう。
でもそれは楽であって、楽しいとは限らない。
嬉しいとは、喜ばしいとは――――幸福とは限らない選択だ。
『…………………………………………………………………………………なんで』
声が、聴こえた。
結界を介して脳に、あるいは心に直接響き渡る、幼い少女の声。
ルカ・フローレンスの想い。
『なんで簡単に、答え出しちゃうんですか……⁉』
ルカが耳を傾けてくれていた事実に安堵するの同時に、私はその叫びを無言で受け止める。
逃げてはいけない。否定してはいけない。少なくとも今だけは、絶対に。
柩に軽い振動が加わる。私が天板に手を添えているのと同じように、ルカもまた内側から手を置いている。
声だけでなく身体でも、自らに渦巻く感情を訴えている。
『分からないじゃないですか、まだ……! わたしたちは分かり合えるかもしれない! そうしたらわたしが恋心を理解して、何にも負けない、代えられない、本物の関係を作れる未来だって!』
ルカは自分を理解してほしかった。
だけどそれ以上に、理解したかったのだ。
親友である自分を追い越してしまった……恋心というモノを。
知って。理解して。友情にも恋情と同じ価値があることを求めて、安心したかった。戻りたかった。
幼い頃から永遠なんてないと知っていた彼女は、それでも手を繋いでいられる本物の関係があることを願っていた。
だけどルカはその証明に失敗し続けた。失敗し続けることを許容された。
そうして歯車はズレて、狂い続けて、築かれたのが……複数の恋人関係。
『うん。ルカもいずれは恋心を抱く日が来るかもしれない。それは誰にも否定できない、決めちゃいけないことだと思う。だけどあなたの不特定多数との関係は、やっぱり分からない。私の恋は特定の個人に対するモノで、それ以外には向けられない、向かないモノだから……』
『どうして分かってくれないんですか⁉ わたしたち、こんなに似通っているのに……!』
同じことを、私も思う。
『本当にごめんなさい。だけど……分かり合えないところがあったとしても、友達でいたいと思っているわ』
『……そんなの、辛いだけですよ……。これは逃げているんでしょうか? 苦痛を負わなければ本物ではないと、本当の幸福ではないんでしょうか……?』
『分からない。分からないけれど、きっと何にだって意味はあるわ。大切なのは、私たちがどうしたいかで――私はルカと友達でいたい。理解できなくても、傷付きあってでも、それでも』
『なんで、どうしてですか……?』
『……どうしてかしらね。けど、理由なんてなくてもいいのよ。今この瞬間一緒に居たい……ただそれだけでもきっと……』
祈るように呟いて、目蓋を閉じた。そのときだった。
――――ああ、この人も、同じだ。
不意にルカの心が、私の中に流れ込んできた。
――わたしが特定の個人に恋愛感情を抱けないのも。この人が特定の個人にしか恋愛感情を抱けないのも。本質的には、同じなんだ。
――恋に憧れていた。何にも負けない特別な繋がりだと、そこになら永遠があると信じたかった。
――でも見つからなかった。
――だから余計に光を見て、追いかけて、置いていかれることに疲れて。
――だけど見方を変えれば、恋は呪いだ。相手がどんな善人でも罪人でも、恋に落ちてしまえば、その一個人に心を縛られて。たとえ報われないとしても、容易く想いを捨てることなどできないのだから。
――どれだけ他者と分かり合うことを望んでいても、そこに恋が絡んでしまえば、繋がれない誰か、選ばれない誰かを生み出してしまうのだから。
――恋に憧れていた。はずだった。でも今、まるで天啓のように不意に、それは酷く不自由なモノのようにも見え始めていた。
――この人を見つめることで、わたしは恋を理解できない代わりに、だからこそ他者と繋げた手があったことを、振り返ることができた。
――繋がれないこと。繋がれてしまうこと。他者には理解されず。想いを手放すことなどできず。わたしにもこの人にも、きっとどちらにも苦悩は存在していて。
――ただそれでも、わたしはやっぱりこの人の恋を理解できなくて。この人はわたしの好きを理解できなくて。相容れない感情は時として強い摩擦を招いて。
――なのにこの人は、それでも、という。
――そのために傷付くと。そのために傷付けると。
――それはなんて、なんて。
『わたし、あなたのことが怖いです』
柩の中で、今にも泣き出しそうに、ルカは声を響かせる。
『ええ』
『わたし、あなたのことが嫌いです』
溢れ出る涙を止められないまま、ルカは声を響かせる。
『ええ』
『わたし、痛いのも苦しいのも、分かってもらえないのも分からないのも嫌です』
か細い両腕で自分を抱き締めながら、ルカは声を響かせる。
『ええ』
『それでもわたし…………わたしも、あなたと友達でいたい。手を伸ばしてくれるあなたの気持ちに、応えたいです……』
こつん、と音がした。
ルカが天板に額を付けたのだ。私も同じようにする。
分厚い板に阻まれながら。それでも互いの想いが通じることを祈り合いながら。
『ルカ――私たち、友達になりましょう。今度こそ、きちんと』
『マリモさん……!』
首を振る。
『どうか、名前で呼んで。私があなたのことをルカと呼ぶように』
――毬萌樹奈/マリモジュナ。
それは咎人の名前。名付けの親を殺した子供の名前。
そう思って、ずっと逃げ続けていた。
その名前は自分に相応しくないと。私なんかが背負っていいモノではないと。
けれど今一度――私はマリモジュナという名前に、祝福されようと思う。
そうしないことを受け入れてくれた人たちに感謝を捧げて。
より多く傷付くために。より多く手を伸ばすために。
私は私になる。ありのままの私でルカと友達になり、関係を結び直す。
永遠ではないかもしれない。
祈りよりももっと素朴で刹那的かもしれない。
だからずっとは一緒に居られないかもしれない。
――だけど私は、この手を伸ばすよ。繋がれなくても、何度でも。
これが私の答え。
言葉より記憶よりも確かに示せるモノ。
静かに、ゆっくりと……柩の天板が開かれる。
死の引力を振り切って、ルカが手を伸ばしてくれる。
あれが無いから。これが欲しいから。
そんな風に無邪気に手を伸ばすのではなく。
あれは手に入らない。そうなることはできない。
そう、叶わない自分を受け入れて、その上でなお、望むことを選択する。
諦めるのとは違う。開き直るのとも違う。
本当の意味での自己肯定――これはきっと、それを成し遂げるための第一歩だ。
「……帰りましょう、ルカ」
「……うん。迎えに来てくれて、ありがとう……ジュナちゃん」
見た目よりもずっと幼い純真を残した子。
暗がりの中で身体を縮こまらせて泣いていた子。
それでも伸ばしてくれた小さな手を掴み取って、その身体を確かに抱き締めた。
やがて私は、ルカを送り出すようにそっとそばを離れる。
一瞬ルカは困惑したように、心細そうに私を見たけれど。
普段の彼女に倣った花のような笑みを浮かべると、小さく頷いてくれた。
大丈夫。柩を開けたのは私じゃない。ルカ自身なのだ。
私の答えはルカの視点に別の見方を示しただけ。
その強さはルカが元から持ち合わせているモノだから。
繋がりたくても繋がれない部分があるように。
繋がってなくとも繋がっている部分はある。
それさえ見えていれば、きっと大丈夫。
自分の意思で、ひとりでだって歩いていける。歩いていった先でまた会える。
本当に、答えはいつも簡単なのに、相変わらず難しいことばかりだけれど……これでひとまず、ここでやるべきことは終えられた。
私も帰ろう。できればあの三人の葬儀がどうなったのかも知りたいが、さすがに月の海だと勝手が違うというか、結界が不安定な感じになっている。
長居は無用だと、私も水面に向けて手を伸ばした。
刹那。
「え」
身体が、沈んだ。
肩を引っ張られる感触がして水面が遠のいた。
振り払ったはずの鎖。私を死に繋ぎ止めようとする引力。
何かがおかしい。明らかに正常ではない。異変が起きている。
私はとっさに、水の中を舞う髪をかき分けながら後ろを振り返った。
すると、どうしてだろう、昏い水の底では。
「――――――なん、で」
七年前に亡くなった母が、冷たい笑みを浮かべて、私を手招いていた。




