第23話『――だって人工呼吸は』
☆
空には銀河。眼下には紺碧の海。
そして目の前には、ふわりふわりと浮かび上がる、投影機の群れ。
歳月の幻灯――走馬灯のように駆け巡る過去の記憶を映し出すその泡には、ハイネ・ヨハネス・ヒルデブラントの罪と後悔が記されていた。
彼が葬送機関の刺客であると直感したのは、同じモノを感じ取ったからだ。
それは機関という底知れぬ闇を知る者特有の冷淡な雰囲気……ではなく。
罪を、人を殺したことのある者が纏う、匂いのようなモノ。
それは身体に、魂に染みついて振り払えなくなった血の臭いとも言えるし。
虫を踏み潰して殺してしまった時のような命の脆さを、人で実感したがゆえの諦念や、背負った業、抱いている罪悪感から来る精神的疲労によって変化した体細胞が放つ香り、と言えるかもしれない。
ゆえに彼の過去――父親を殺した罪、弟の代わりに二度目の生を手に入れた罪悪感を目にしたところで、大した驚きは無かった。
あったのはむしろ、機関の情報を何も持っていなかったことへの拍子抜け感と。
そして。
「……探るべきはアーノルド・ヒルデブラントか」
養子として迎え愛情を注いできた子供に暗殺を命じた大人に対する、懐疑。
少なくとも少年の視点では、養父の愛に嘘偽りはなかった。
養父は少年を人殺しにするべく引き取ったのではない。
愛すべき家族を作るため、幸せを掴み、それを未来へと繋げるために、大人は子供を選んだのだ。
ならばなぜ、その温かな願いは今、このようなことになっている……?
組織に属する者が個人より集団を優先した、というだけなのか。
今まで見てきた光景には本当に、一切の欺瞞はなかったのか。
「――いずれにしても」
刹那――灰の雪が舞い上がる。
やがて水面に降り注いだそれは、花を咲かせた。
ハイネとクロヴィス、両者のアトロポスの輪を形作っていた花だ。
――柩在列車が警笛を、アナスタシスの福音を鳴らす。
……もし、彼らが本当の意味での復活を遂げたのだとするならば。
私は響き渡る福音に乗せて、誰に言うでもなく呟いた。
「ハイネ、君の罪が赦されることを祈ろう。そして君の幸福が、弟の無念を晴らすモノであることを……」
資格などないことは理解している。冒涜であることも、無価値であることも。
それでも……これまで、多くの命を摘み取ってきた。
そこには届かなかったモノと、今なお変わらぬモノがあった。
前者は貫き通された選択。そして後者は――誕生の祝福だ。
それがたとえ……数分後にはこの手で摘み取っている命だとしても。
生まれ出づることは、無条件に祝福されるべきであるという、祈り。
そうだ。私は自らの生を拒絶する転生者を、その二度目の誕生を、なら生まれてこなければなどと否定したことは、一度だって無かった。
ゆえにこそゴドー・アダムズは祈りを捧げる。
生まれたばかりの、生まれ直したばかりの命に向けて、等しく。
――――どうかその生に、たくさんの幸福が降り注ぎますように、と。
「…………」
私は無意識のうちに、閉じた目蓋を開いた。
祈りは終えた……はずだ。
けれど境界が曖昧になるほど、私の意識は急き立てられていた。
なぜならば、とある疑問が、突如として胸の内に去来したから。
「今、何分経過した……?」
記憶を遡る。
一度目のアナスタシスの福音が鳴り響く前。
クロヴィスとハイネの決着が付く前。
自らアトロポスの輪を断ち切り。
それから今この瞬間に至るまで。
一体どれほどの時間、彼女はこの月の海に入水し続けている――――?
♰
それは、列車がアナスタシスの福音という名の警笛を鳴らした直後のこと。
すべてが不意で、突然の出来事だった。
魂に刻み込まれた使命に私の思考が支配されたのも。
向かいの席に座っていたバニーさんが勢いよく立ち上がったのも。
「あれは――――いけないッ!」
その表情は、師匠さんが持ち込んだお茶と菓子物に舌鼓を打っていたさっきまでとは一変している。
目を見開かざるを得ない驚愕と、早急に対処しなければならない事態に陥った切迫さが混在した、まさしく余裕を失った表情で。
身構える暇もなく言葉は続けられる。
「マリモさんが干渉を受けています! 三度目の葬儀、二度目の死、空想展開による干渉――いずれか或いはそのすべてを引き金に、冥府が誤作動を起こしている!」
そして次の瞬間、
「――――――」
ずっと視界の端に捉えていたはずの師匠さんの姿が、消えた。
♰
一瞬――何かが変わった気がした。
自分か、世界か、すぐには分からないけれど確実に。
些細な、けれども決して看過できないその違和感は。
「おい、オッサン」
背後からかけられたその声により、決定的なモノとなる。
「ッ、なんだ――?」
私は即座に振り返る。見ればそこには……着物姿の女が居た。
一秒前までは間違いなく存在しなかったその気配。
クロヴィス・ヴェルターが師と仰ぐ彼女は、気怠そうにもたれかかっていた。
何に? 直立した柩に。
そしてそれは、数十メートルは離れた地点に放置されていた私の柩だ。
それだけじゃない。列車の位置が……変わっている。
月の海を環状に周遊する列車は、先ほどまで私の正面を走っていたはず。
それが今は、背後を移動している。
走行速度を考慮しても理屈が合わないと直感が囁く。
ならば……逆だ。逆なのだ。
それで最初の違和感にも説明が付く。
――移動したのは、私のほうなのだ。
ここには建物一つ無いため、景色の変化が乏しく気付くのが遅れたが、そうとしか考えられない。
そして彼女の現れ方。
その、時の隙間を潜り抜け、存在を差し込んだような出現には既視感があった。
私が聖剣の能力で瞬間移動を行ったときに似た……しかし、それ以上の……。
いずれにせよ――彼女は何らかの手段で私と柩を、この地点に瞬間的に転移させたのだ。
だが、それがどうした、と。そのような些事、今気にするべきことではないだろうとでも言うように、彼女は真っすぐに私を射抜く。
「マリモが死に引っ張られてるんだと。アンタ、迎えに行ってやれ。今すぐに」
「――は?」
あまりに端的な説明。それはつい先ほど抱いたばかりの懸念が、当たってほしくない予感が当たってしまったことを示していたが。
私は思考が追い付かず戸惑うばかり、けれど――なおも彼女は視線を外さない。
急かすでもなく。苛立つでもなく。
ただ真剣に、その紫色の瞳で、私の選択を待ち続けている。
『もし万が一、あなたのアトロポスの輪が切られた場合――福音は鳴ると思う?』
「…………………………ッ、!」
虚数空間から漆黒の剣を顕現させ、私はその刃を右手首に向けた。
白百合の花が形成したアトロポスの輪へと。
「まさしく切り札、だな」
なぜこの剣の名を、という疑問は、浮かんだ途端に思考の奥へ追いやられた。
まるで天から下された警告のように降り注いだある言葉が、ゴドー・アダムズの意識を上塗りしたのだ。
私の脳が、私の胸の、心臓よりももっと深いところに問うている。
これは信仰に反する行いか――?
目蓋を閉じて、天を仰ぐように、そっと息を吐く。
『忘れないで。たとえ柩の中に入っても。……私はあなたのこと、見ているから』
これは自殺行為だろうか――?
「……いいや。断じてこれは、殺すための刃ではない!」
アトロポスの輪を断ち切る。
花が散り、水面が波立つ。さざ波はやがて柩を呼び起こし、蔓の鎖が四肢を拘束、内部へと引きずり込まれる。そして天板が閉じられる――その、僅かな間隙。
「浸水後、五秒で外に出な。気ぃ張れよ」
柩の内部に末期の水が満ちていく。
白百合の何とも言えない香りが、その蔓と共に身体中を捕らえて離さない。
だが――五、四、三、二、一、ゼロ!
「――ッ、‼」
歯を食いしばり、全身に力を込めて天板を突き破る。蔓の鎖を引き千切り、柩の外へと脱出する。冥府を眼下に望む。 ――――あれか!
『マリモジュナ――‼』
視認した彼女の名を叫ぶ。
かろうじて展開されている結界の影響だろうか。
声は喉の奥底から出たようにも、どこか別の場所から響いたようにも聴こえて。
けれど……返事は無い。
彼女はこちらに背を向け、無数の黒い帯のようなモノに手足を掴まれ、今この瞬間にも沈み続けている。
その先には――人影。
何者だ。一体誰が彼女を死に誘っているというのか。
私は正体を確かめるべく目を凝らし、そして目撃した。
見紛うことなくハッキリと、この網膜に焼き付いた。
彼女を抱擁せんと両腕を広げていたのは。
――かつて私が手に掛けた者たちだった。
『な――――ッ、⁉』
者たち。そう、それは一人分の影でありながら、一人ではなかった。
まるで万華鏡のように代わる代わる投影される顔。
なぜ自分を殺したのかと、なぜお前のような存在が世界に在るのかと、この世すべての憎悪をかき集めたようなどす黒い呪いの顔が、じっと私を捉えて離さない。
『――――――、』
――心臓が止まる。
胸に刃を突き立てられ、かき混ぜられる。
犯した罪の記憶が、脳天から全身を貫いて。
必死に泳ぐまでもなく水底へと引っ張られていく。
だが。
『……………………違う』
そうであったならどんなに良かったかと、幾度となく思った。
声の無い慟哭と共に。流れない落涙と共に。祈らない懺悔と共に。
だから違う。あれは偽物だ。願望の反映。ただのまやかし。
冥府が死者を招き入れるための手段の一つに過ぎない。
――覚えている。最期の瞳を。その想いを。
私が手に掛けてきた者たちはみな、決まってある感情を遺していった。
それは怒りや憎しみなどではなく。
どこまでも純粋な……感謝だった。
終わらせてほしいという懇願と、願いを叶えてくれたことへの感謝。
そこには恨み言の一つもありはしなかった。
『私は、私を殺し続けてくれたあなたに……感謝している』
想起した彼女の言葉は、同時に彼女のモノではない言葉。
だからこそ私は――――『僕』は、この罪を背負っていくと決めたのだ‼
『……ぐッ⁉』
影が伸びてくる。四肢を拘束されて、さらに水底へと引き込まれる。
このままいけば生きながらに死ぬことになると本能が警鐘を鳴らしている。
死の引力。
その手触りに背筋が凍る。心臓が跳ねて、指先がどうしようもなく震える。
一秒でも身を委ねれば到達できる至高の快楽/解放を前にして、喉が鳴る。
だが、誘惑に乗るつもりはなかった。
なぜなら先に取り結んだ契約があるから。
なぜなら胸に怒りの炎が灯っていたから。
望まぬ死は誰にでも訪れる。
他者に死を贈る罪人だっている。
自らの生を肯定できない者だっている。
不条理は当たり前のように存在していて。
それは消せない、消してはならない真実で。
それだけにどうしたって、認めたくなかった。
『死そのものが、生きる意志のある者を連れて行くなど! ふざけるな――ッ‼』
聖剣を顕現させ、手を伸ばすように、必死に彼女のもとへと放る。
体力も魔力も消耗したままだ。能力を使えるのはギリギリ一度のみ。
タイミングを見極めるため、焦がれるような熱視線を注いで……刹那、【五番目】の能力を発動する。
聖剣との位置の入れ替え。
それにより死の拘束から逃れた私は、即座に聖剣を遠隔格納。
翳した右手に再顕現させ、影より深き漆黒の刃を振り下ろす。
狙いは彼女を拘束する影の鎖。
感触は……無かった。本当に実体のない影を切り付けたような手応え。けれど。
『ッ――‼』
分離に成功する。
私は彼女の小さな身体を引き寄せ、抱き締め、全力で浮上を開始。
目指すべきは光の差し込む水面。
甘美な闇に背を向けて、ただひたすらに上を目指す。
『――が、⁉』
がくん、と世界が揺れる。
足を掴まれた。だが構うものか……!
死の干渉で意識こそ失っているが、彼女の中には反逆の意思がある。
だから水面まで押し上げてしまえば、きっと湖に戻れる。
そう祈り、己に言い聞かせ、この希望を絶やしてなるものかと、彼女を抱えた両腕を必死に伸ばした。
そのときだった。
『――――――、――ッ』
ぼやけて戻らない視界が、新たな色を捉えた。
水の中を揺らめいたのは、純白ではなくストロベリーピンク。
まるで差し出すように掲げた彼女の身体を受け取った、その色の名は。
――ルカ・フローレンス。
……ああ、と安堵する。
彼女が柩の外に居るという事実に。
彼女であればこの希望を託すのに相応しい。
『…………?』
しかし一秒後、安堵は驚きへと転じた。
なぜならルカ・フローレンスが、手を、伸ばしていたのだ。
彼女を抱えた腕とは反対の手を。水面にではなく……この私へと。
恐れを抱いていたはずだ。
殺人という行為に手を染めた私を心の底から忌避していた。
無視をして、己の世界から徹底的に存在を排除する姿勢だった、はずなのに。
なぜ、どうして。
答えはない。彼女からの言葉はなく。私からの言葉もない。
ただそれでも事実として、彼女は今にも泣きそうな、決して恐怖が消えたわけではない瞳で、ゴドー・アダムズという存在を認識して――その腕を掴み取った。
『――――――』
瞬間、身体の中に何かが流れ込んでくる。
それはなんていうか……どう言い表せばいいのだろう。温かくて心地の良い、まだもう少しだけ頑張ろうと思える、活力のようなモノで。
順当にいけば、彼女が治癒魔術を使ったと考えるのが自然かもしれない。
けれどなんとなく、マリモジュナ、ルカ・フローレンス、そして私と――繋がり廻った、魔的法則とは別の、もっと茫漠とした法則のようにも思えて。
だから、この場ではっきりしていることは、ひとつだけ。
サザンクロスに再び灰の雪が降り、新たな花が咲いた。
二人の白百合と、一人の藤の花。
それだけは直接見なくとも分かった。繋いだ手が――教えてくれていた。
♰
波の音を聴いていた。
ちゃぷちゃぷと静かに、寄せては返す波の音。
それは優しく鼓膜を揺らし、身体の中で乱反射するように響き続けて。
わたしは今、湖畔にいるのだと……所在なく思った。
だってきっと、海だったらもっと、心が落ち着かない怖い音のはずだから。
今は遠い記憶――『ここ』に来る前に聴いた潮騒は、激しく無情で、奪い去り押し流すようで。波間の寂寞には、音の無い絶叫が埋め尽くされているような、鬼気迫る虚空が存在していた。
だから違うと分かった。
わたしの揺蕩うこの場所が、海ではないと。
けれど……どうしてだろう。
湖がなびくたび、安心ではなく郷愁が去来する。
湖がなびくたび、海の波音が重なって聴こえる。
呼ばれているのか。あるいはわたしのほうから向かっているのか。
恋しいのとは違うはず、だけれど。
でも、今のわたしは――――、
「……ッ、マリモ! マリモジュナ――!」
声が響いた。
遠いような、近いような場所から。男の人の声が。
……そうだ。そうだった。柩の外に出たわたしは、あの人に背中を押されるようにして、ひとりで水面を目指していて。
だけど何か嫌な予感がして、一度だけ後ろを振り返ると。
黒い影のようなモノが、あの人の身体を抱擁していた。
異常事態であることはすぐに察しがついた。
だって、わたしを迎えに来てくれたあの人が死の引力に負けるなんて、そんなおかしな話があるはずない。
だから助けに戻ろうとした。浮かび上がっていく身体に必死に抗った。
その瞬間――白百合の柩が、わたしを追い越していったのだ。
「そんな、死なせてたまるか……く、ッ……落ち着け――軌道確保、速やかに胸骨圧迫を開始――ッ、深度はおよそ五センチ、三十回ごとに二回の人工呼吸……!」
やがてあの人は助け出されて。
水底からあの男が這い上がってきて。
祈るように、届くようにと差し出されたあの人の身体を、わたしは受け取った。
それで、満足そうに力尽きていくあの男を一瞥したわたしは。
――手を伸ばしていた。ほとんど無意識だった。
怖かったはずだ。恐ろしかったはずだ。今にも泣き出しそうだったはずだ。
けど身体が勝手に動いていて、掴んでから意識が追い付いて。
きっといつか、またどうしようもない断絶を突きつけられて、傷付くことになるのだろうと悟った……けれど。
そうするべきだと、そうしたいと思った。
信じたかった。報いたかった。
繋がれなくても手を伸ばしてくれた、あの人の想いに。
「許せ……!」
ぼんやりとした意識の中、その光景を見た。
転生者狩り――生きる意志の無い転生者を殺してきた男が、白い髪の少女に、人工呼吸を施している光景を。
胸を貫かれる。
この身を、心をじわじわと焼き付くさんとする嫉妬に。
何か、見てはいけないモノを見ているような背徳感に。
今あそこに居るのがわたしではない悔しさと、何もできない無力感に。
そして、それらを上回る。
――――死なないで。どうか、どうかお願いします……。
切実な願い。
それはいったい、誰への、何への懇願なのか。
それはいったい、何処に届いたというのか。
穏やかな波間。静謐なる束の間。
知らず溢れた涙が流れ耳を伝った、そのとき。
警笛が……残響した。
「 んぐ、ごほッ‼ ごほ、ごほッ――――ぁ、はッ――はぁ、はぁ、はぁ――――――……」
ひとりの呼吸が再開され、ふたりの呼吸が僅かの間、止まる。
「……っ、ゴドー…………?」
声の出し方を確かめるような、掠れた音。
か細く、しかし確かに手繰り寄せられた、命の証明。
……ああ、良かった。……本当に、本当に良かった……。
「…………ッ……」
その事実を噛み締めるように目蓋を閉じて、背を向ける。
……わたしは馬鹿だ。
ただ一言、無事でよかったです、とか。
わたしも帰ってこられましたって、言えばいいのに。
そうするだけであのふたりの時間は終わり、みんなで大団円を迎えられるのに。
わたしは、抱いた胸の苦しみを、それでもそのままにしておくことを選んだ。
だって仕方ない。
わたしの大切な友人が、せっかく好きな人と良い雰囲気になりそうなのだから。
邪魔、したくないよね。
――今ならば、あの潮騒を聴いても、怖がらずに済むだろうか。
うん……何となくだけど、そんな気がしている。だから。
――今はただ、あの潮騒を以て、すべての音を掻き消してほしかった。
☆
意識を取り戻し、呼吸が安定してから最初に感じたのは。
口内に満ちた――血の味だった。
重い目蓋をどうにか開けて、何とかぼやけた焦点を合わせる。
空から私を見つめるのは、青白い月と、水に濡れた黒髪の男。
「……っ、ゴドー…………?」
名前を呼ぶと、彼は一瞬だけ微かな笑みを浮かべた。
あの日と同じだ。助かったのは私のほうなのに、救われたのは自分のほうだと言わんばかりの、その表情。眼差し。それにどう反応すればいいか、わからなくて。
私はおもむろに、頭を動かして周囲の様子を探った。
そうして少しずつ状況を把握する。
ここがノーザンクロス湖の畔であること。
ここから十メートルほど離れた地点に、クロヴィスとハイネが倒れていること。
仰向けになった私の横にゴドーが座っていることと。
その向こうに親愛なるストロベリーピンクが見えること。
ふと、彼女が静かに背を向けた。
じっと黙しながら、自分も無事であると私だけに示すように。
「…………良かった」
大切な友人と共に帰ってくることができた事実に安堵し、声を漏らす。
すると。
「それはこちらの台詞だ」
声音を落として言うゴドー。
さっきまでとは違う悲壮を湛えた面持ちで、手を握られる。
私はその大きな手を握り返し、上体を起こそうとした。
束の間だった。肩に腕を回されて、抱き寄せられたのは。
「――――――、」
「お前は生きることを贖いとしたのだろう? だったら……無闇に危険に飛び込むな。自ら死に近づくな……」
諭すような。祈るような。泣いているような。懺悔するような。
そのすべてが混じり合った、痛切な声だった。
途切れ途切れの息遣いが波間に響く。
私を抱き締めるゴドーの腕は逞しく、簡単には壊れない頑丈な檻のようで。
何にも奪わせない。どこにもいかせない。そう言われているみたい。
けれど、これ以上力を込めれば壊れてしまう。
けれど、これ以上力を抜けば攫われてしまう。
そんな葛藤に揺れるように、彼は長い間、停滞を続けて――そして。
それに抗わない私を見つめ、果てなどないような沈黙の果てに、告げるのだ。
「どうか……自分を大切にしてくれ」
その祈りを絞り出すまでに、どれだけの相克と超克があったのだろう。
どうしようもなく嬉しさを感じてしまって、同時に申し訳がなかった。
こんなにも心配してくれて。心配をかけてしまって。
だけど。
「自己犠牲は、本当の幸せではない……」
その言葉には、小さく首を振った。
「……なら、あなたのは……?」
ゴドーだけじゃない。キリエやベルナデット先輩。ルカや寮長、お屋敷の方々……私と関わり、私に光をくれた人々の行いは、生き方は、その選択は、自己犠牲だったのだろうか。
私はそうは思わない。
だから『利己的利他主義』という言葉を、理想と流儀に捧げた。
それだけでは包み込めない断絶にも、手を伸ばすことを決めた。
なればこそ、否定しなければならなかった。
「確かに、献身ではないかもしれない……でも決して、自己犠牲ではないわ……これは、それらの間にあるモノよ……きっと」
救いや幸福に繋がるか、善悪の彼岸に立てるモノなのかは、分からないけれど。
否定と同時に肯定も内包する、まだ名も無きソレを守り抜くように、私はそっと言い返した。
「――――――、」
彼が私を見ている。眉間に皺を寄せて。無理解に打ちひしがれているのか、あるいは必死に、理解をしようと戦ってくれているのか。見てくれている。
「それでも、誰かのために傷つく生き方など……悲しすぎる……」
私が彼を見ている。今度は目を逸らさない。彼だけを世界に映す。
そこで不意にあることに気が付いた。……彼の唇に少量の血液が付いている。
瞬間、まるで共鳴するかのように痛みを走らせる私の唇。
舌先で確認すると、出血しているようだった。
……そうだ、と突如として浮かび上がる記憶。
母の幻影を見たとき、とっさに八重歯で皮膚を貫いたのだ。痛みで自分を保てるように。見失わないように。……まあ努力虚しく、その後すぐに気を失ってしまったのだけれど。そういうわけで、起きてからずっと血の味がしていた。
でもしかし。連鎖するように、止める間もなく思考が走り出す。
彼の唇にあるのが私の血液なのだとするなら、それはつまるところ。
その事実が示しているのは――と、想像して。
どくん。先ほどまで止まっていた、動き出したばかりの鼓動が、今度は早鐘を打ち始めて、痛いほどに苦しくなる。
……熱い。血液が沸騰していると錯覚するほど、唇が、傷口が熱を帯びていき。
何かを言いたい。言わなければならない。そんな衝動が心の中に芽生えて。
けれど同時に、脳の奥が、反比例するかのように急激に冷めていく。
【想うな 告げるな 進むな 貫くな 手を伸ばすな 幸福に生きようとするな】
これまでの私が、罪を咎めるように、私に囁く。
「……、………………」
声が出ない。どうしようもなく届かない。でも鼓動がうるさい。
息を吸うごとに、刃で抉られているみたいに、胸が痛い。
どれだけ冷まそうとしても熱が収まることはなくて。
凍り付いた時間が少しずつ溶け出していくようで。
滲む視界。揺らぐ境界線。歳月の幻灯も無く投影される記憶。マリモジュナの始まりから現在までが走馬灯のように脳裏を駆け巡り。そのすべてに背を向ける。背負って、剣に貫かれる。切り刻まれる。羽をもがれて。なおも彼を見上げ続ける。
そんな永遠の果てに。
やっとの想いで。
「……これが私の生き方なの。受け止めて……くれない……?」
私は自らのエゴを言葉にした。
滑稽なぐらい震えた声だった。
……熱い。水に濡れて身体が冷えているから、余計に。
内側から炎で炙られているみたいに目が、頬が熱くて。
吐き出す息で火傷して、呼吸困難になってしまいそう。
そんな、ひどく焼け焦げている私の内側を、覗き込むようにして。
「なぜだ」
問いかけるゴドー。
私は、あてどなく口を開いて。
もう一度だけ、舌先で血の味を確かめて、こう答えた。
「―――あなたのことが好きだから」
白百合の散った青い夜。
月明かりが降り注ぐ、ノクチルカのような北十字の湖で。
目蓋を閉じて、優しい微睡みに、揺蕩うように。
――――――私は彼に、くちづけた。




