第19話『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』
☆
八月一日。念願だったはずの夏休み初日。
女子寮でエレーナにとある確認をした私は、まとめていた荷物を持って外出。
昼下がりになった頃――北区に存在する、ある宿泊施設にチェックインした。
傍から見れば、夏休みに入って速攻で小旅行を始めた浮かれきった学生のように映っているかもしれないが、今この瞬間からチェックアウト時刻である明日の午前十時まで――私は一歩たりとて外に出ない。ここに缶詰めになる腹積もりだ。
というのも昔から私には悩みを抱えたときに行う、とある『行動』が存在する。
それはずばり――長風呂である。
始めたのは確か、小学五年生の頃だったか。
我が家で唯一、浴室だけが外から鍵を開けられない場所だったこと。
思考に没頭するために必要なリラックス状態を作り出せること。
衣類を纏わないゆえに素の自分と向き合う感覚になれること。
大まかにその三点から、私が瞑想を行う場として自然、浴室が定着した。
そしてその習慣は転生後も廃れることなく続いている……わけなのだが。
学院に入学してからこっち、それを満足に行える環境も時間も、中々揃えることができなかったのよね。
キリエの家はかなり理想的な環境だったけれど、むしろ悩み事のほうが増え続けるというあべこべな状況になっていたし。使用人生活と寮生活においては、共同浴場ということで色々と自重せざるを得なくて……。
つまり持ち家のない私が今『対処行動』をこなすためには、多少の出費をしてでも、個室お風呂付きの宿泊施設を利用するのが一番適切なのである。
まあ今回の議題及びルカと向き合うためならばと、なりふり構わなくなっているところもあるけれど……できることはやっておきたいからね。
「…………さて」
湯船を張り終えるまでの間、私は荷物を整理しながら準備を開始する。
キリエの家で暮らしていた頃はアロマキャンドルやら薔薇の花などもセッティングしていたのだが、ここは規約で許可されていないため、今回はナシだ。
買ってきたゼリー飲料を小さな籠に入れ、保冷カップに氷水を投入。
気分転換用に持ってきたクラゲ型のバスライトを手近な場所に置いておき。
それとすぐに横になりたいときのために買った厚手の大判バスマットも設置。
ダメ押しに、今朝音楽部の生徒から購入したピアノの演奏を録音した魔石を、すぐに手が届く位置に配置しておく。
曲はオリジナルで、儚さや切なさ、寂寞をイメージした繊細かつ叙情的な、心に染み入るモノになっている。
これを自分で選んで流すなんて浸りすぎだろう、と自虐したくなる気持ちもあるけれど、雰囲気作りは大切だ。
これが求める答えに辿り着くための最後の一押しになることだってあり得るのだから、とにかく積み上げられることは積み上げるべしだ。
そして最後に、虚数空間から取り出した【慈愛】の剣――『ミゼリコル・トゥエ・レーヌ』。
この刃の無い純白の剣に、物干し竿代わりに脱いだ服を掛けて、と。
「……こんなところかしらね」
準備は整った。さあ――自分自身に潜る時間だ。
まずは普通にシャワーを浴びる。全身を綺麗にし終えたところで冷水に切り替え、意識を鋭く研ぎ澄ませていく。シャワーを止め、脱衣所に置いていたゼリー飲料と保冷カップに入れた水を浴槽の近くに移動させ、照明を消し、ピアノの音色を流して――いざ、湯船に浸かる。
「――――――」
沈む。目蓋を閉じてゆっくりと、沈んでいく。
お湯の中に。思考の海に。マリモジュナの内側に。
それを十分。三十分。一時間と続けて。
時折息継ぎするように水を飲み、湯船から出て、膝を抱えて床に座り、冷水のシャワーを頭から浴びて、湯船に浸かり直す。
答えが出るその時まで、ずっとこの繰り返しだ。
そうしてとにかく考える。ひたすら己の中で己に問いかける。
一秒でも油断すれば遠のいてしまうそれを捕まえるため、必死で追いかける。
――あの日、ひと振りの剣を掌握した。
慈愛にのみ生き、運命という川を遡り、至純なる起源に到達した。
けれどずっと……引っかかりを覚えていた。
慈愛の剣。それは運命から、【イノセント・エゴ】から与えられた、愛の証明。
だけど私が見上げている星は、きっとそうじゃないはずだ。
与えられたモノによって証明されるものでは断じてないはずだ。
あの方が、己が存在を以て跳ね返してくれたモノは、これではないはずだ。
ゆえに私は、さらなる反逆の意思を抱いて思考する。
ゴドー・アダムズに抱く想いの正体を。
それがたとえ、慈愛の剣を手放すことに繋がるとしても――――。
……ああでも、そういえばいつか、言っていたっけ。
『問いかけるという行いは、自らの信仰心を彷徨わせるモノではなく、星のように輝かせるためのモノだ』――って、教会でさ。
「……ふ」
視界の端。照明を落とした薄暗い浴室の中。
バスライトが生み出した私の影、その顔の輪郭は少しだけ歪んでいる。
それを見て、何気なく思った。
どうして私は笑っているのだろう、と。
表情なんて分からないはずなのに。別に楽しい思い出というわけでもないのに。
……不思議だね。
「――――――」
お湯の中に沈む。普段ならまとめている髪もそのままに。
身に付けているのはアトロポスの輪の素体となる首輪だけ。
それ以外には何もなく、脱力し、ただひたすら考えることだけに専心する。
検討の材料となったのは、あのときのルカの言葉。
――ハイブリストフィリアとストックホルム症候群。
別にルカは、私もだけど、それらを知識として知っているだけで、医学的根拠に基づいた診断を下せる立場にはない。(そもそもストックホルム症候群については、存在自体あやふやなところもあるらしいし)
焦りや苛立ちから衝動的に言ってしまっただけで、本気で断定する言葉ではなかったはずだ。
だがそれでも、基準にはなる。
恋心を抱いているかどうかなんて普通、難しく考えることじゃないだろうけど。
それでも……それを考えようというのだ。正しい作法など分からないなりにね。
ゆえに私は、その二項も思考の焚き木とし、そして。
そこに――――『ファーザー・コンプレックス』も加える。
なぜならそれは、ルカの言葉とは関係なく私が自覚しているモノだから。
私は今より幼い頃、父親と関係がこじれた。
そういった子供の典型……というとこれもまた、安易なレッテル張りになってしまうが、しかし私には、ファザコンと聞いて安直に浮かぶイメージに重なるところが多々ある。
年上の男性に対して興味/好奇心を抱きやすいとか。
同じ空間に居ると精神が安らぐとか。
逆に極端に自己肯定感が薄れるとか。
つい悩みを吐露し助言を求めるとか。
……そんなような傾向が、私には確かにあって。
幸い――と言っていいのかも分からないが――恋愛感情を抱いたことはないものの、私は常々己にファザコンの気配を感じているのだ。たまに指摘もされるし。
それに父とゴドーに対しては、強い罪悪感を抱いているという共通項もある。
……ゆえにこれも疑ってかからなければ。
これはゴドーへの想いを確かめるための第一歩。
そして同時に、もう二度と会えない父の存在に一区切りを付けるための、父性への憧憬から離脱するための、第一歩なのだ。
そうして自分自身と向き合った先で――私は必ず掴んでみせる。
ルカ・フローレンスに届けるための、マリモジュナの答えを。
私はまず、この世界で出会ったゴドー・アダムズという男と、遠い世界に置いてきた実の父親に抱く感情――それを別つための要素を考えた。
直感的に浮かんだのは、性的欲求、というピースだ。
両者に共通しない感情はほかにもあるだろう。
幼い思い出が育んだ家族愛とか。
互いの罪を知り合った時の名もなき心の動きとか。
けれどマリモジュナがゴドー・アダムズに恋愛感情を抱いているかどうかについて考えるなら……やはりこの性的欲求こそが、私にとっては重要なファクターとなる気がする。
ゆえに私は。
まず己の中にそれが存在するかしないかを考える――これは是。
根拠を求められたら逆に困るほどに自然と肯定できる、ので、存在するということで問題ない、はず。
ならば次。
性的欲求には『個人で発散できるパターン』と、『他者との繋がりを必要とするパターン』の二種類に大別できると私は考える。
私にとって前者は、感覚としては排泄に近く、滞ればフラストレーションこそあるものの、あくまでストレス発散手段の一つに過ぎず、慰めたとて別に心から満たされることもなく。
誰に向けるでもないただの生理現象で、むしろ無くなっても構わないとすら思う時だってある、そんな欲求だ。
一方で私にとって後者は、特定の相手とお互いを通じて充足を得たいという欲求……だと思われる。
いまいち自信が持てないのは私がまだそれを抱いたことがないから。
あるいは抱いても自覚できないほどに、慣れていない感情だからだ。
それでも空想と類推を重ねて思考した末、ひとまず出したのが先の考えである。
自分だけが、でも。
相手だけが、でもない。
お互いをお互いで満たし合いたい――という欲求を、一方的に抱くこと。
では私は。
そのどちらかを父に対して抱くことはあるか――これは否。
であればゴドー・アダムズに対してはどうか――これは是。
抱くのは前者と後者のどちらか――これはおそらく、後者。
なにゆえそう判断したのか――個人では完結できない欲求があるがゆえ。
後者の欲求を抱くことのできる相手はゴドー・アダムズのみか――検討。
前者あるいは後者を抱いたとき自慰行為は行えるか。どちらも単なる肉体的刺激で充分だろうか。あるいは仮想の相手を必要とし精神的満足も求めるのか。そもそも自らを慰める行為とは性欲が介在しなくても行えるのではないか。ならば行為ができるできないで判定するのは間違っているのではないか。
積み重なる是と否。そして余白の残る、検討。
「………………ふむ」
少しずつ煮詰まってきたところで、浴槽から出て、冷水シャワーで頭を冷やす。
マリモジュナに後者の性的欲求――つまり『他者』を必要とするパターンの欲求も存在することは分かった。
であれば以降はそちらを軸に、私の求める『他者』が、ゴドー・アダムズでなければならないかを考えるべきだろう。
先の二項を交えながら、徐々に思考の範囲を広げていく。
深呼吸をして。胸に手を置いて。
心臓の鼓動回数を確認してから、再び湯船へと。
さあ――考えろ。深く。より深く。どこまでも深く。思考の海へと沈め。
沈め。沈め、沈め、沈め、沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め沈め――――。
この性的欲求は倒錯した欲望だろうか――検討。
他の殺人者あるいは凶悪犯に性的欲求を抱いたことはあるか――否。
犯罪やスリルそのものに価値を見出しているか――否。
殺人を肯定できるか――否。
殺人を否定できるか――是。
相手を支配して思うように歪めたい願望はあるか――否。
救われたいから救いたいのか――否。
救いたいから救われたいのか――否。
この理解に過剰適応は含まれているか――検討。
生存戦略がもたらした幻覚ではないか――検討。
理想と現実の違いは見えているか――是。
ゴドーへの恐怖心はあるか――是。
ゴドーへの罪悪感はあるか――是。
ゴドーへの好奇心はあるか――是。
ゴドーへの親近感はあるか――是。
ゴドーへの怒りはあるか――是。
ゴドーへの共感はあるか――是。
ゴドーへの同情はあるか――是。
ゴドーへの感謝はあるか――是。
ゴドーへの依存はあるか――否。
ゴドーへの執着はあるか――検討。
これは逃避のための行いか――否。
父から向けられたかった感情の代替行為ではないか――検討。
欲することと手放せないことは異なると理解しているか――是。
自分が性的行為を営む想像はできるか――是。
可能な相手と不可能な相手はいるか――是。
差異が生じるのは好意と理解の問題か――是。
同じ総量の好意と理解を持つ相手なら誰でもいいのか――否。
相手の心身を受け止めたいのか――是。
自分の心身を受け止めてほしいのか――是。
マリモジュナはハイブリストフィリアを内包していると思うか――否。
マリモジュナはストックホルム症候群を内包していると思うか――否。
ゴドーへの感情はファーザー・コンプレックス由来のモノだと思うか――検討。
その傾向があることを認めた上で、プロセスを否定する気持ちはあるか――是。
性的欲求を内包する根源的欲望であるリビドーの存在を認めるか――是。
それは何者にも歪められていないと肯定することを、肯定するか――是。
ならばこの感情を恋心と定義することはできるか――検討。
恋と性的欲求は別のものか――是。
分離していないことはあるだろうか――検討。
ゴドー・アダムズに惹かれている理由は恋とリビドーのどちらか――検討。
リビドーを向けることは恋ではないのだろうか――検討。
リビドーを向けることを恋と呼べるのだろうか――検討。
この世に真実の恋/真実の愛といったモノが存在するのであれば、そこにリビドーは介在するのだろうか――検討。
それは私が追い求めてきた星の光と共存できるのだろうか――検討。
リビドーの介在しない関係こそが純粋で真実の恋愛を掴めるのだろうか――否。
リビドーとは醜く、汚く、穢れていて、否定するべきモノなのだろうか――否。
根拠はあるか――否。
だがそれでも私は――――――と、そこで。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――」
ブレーキを掛けたように、思考が急停止した。
バスライトだけが照らす浴室の天井に、ぼんやりと目蓋を開けて、手を伸ばす。
いくつもの問答の末、輪郭を帯びてきた想い。
だがもしも……もしもそうだったとして。
私はこれ以上進んでいいのだろうか。その感情を祝福していいのだろうか。
ゴドー・アダムズは殺人者だ。私はそこを容認しないし、彼に関わり続ける限り、思考を止めてはならないことだと理解している。
ゆえにストッパーとなったのは。
彼が殺人者である以前に――神父であるという事実だ。
教会から解任され、その肩書きを失おうとも。
彼の心から信仰心が消え去ったわけではない。
彼にとって殺人とは、祈りであり、裏切りだったはず。
ならばこの想いが、本当にそうなのだとしたら。
ソレは彼にとって、新たな裏切りの種でしかないのではないか――?
伝統や戒律はそれを許すのか。
何より彼自身の祈りがそれを許容するのか。
彼の祈りを歪めるぐらいなら、私はソレを永遠にボカすことさえ辞さない。
それは想像するだけで苦しく、実際はきっと、想像以上に辛いだろう。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――」
だがそれでも私は――この衝動を捨てたくないと、心の底で思っている。
まるで、向かい風の中で燻り続ける種火のような、消せない熱が胸に在る。
一度投げ捨て、そして取り戻した身として。
これを以て、運命の奔流に反逆したいという――――エゴが。
私はどうしようもなく、この『私の心が外側と結びついて生きようとするエネルギー』をしかと乗りこなして、月の引力/死の誘惑を振り払いたい。
今度こそ最期まで。
二度目の奇跡を賜った存在として祈りたい。希いたい。
……ああ、ならばきっと、『いいのだろうか』なんて問いは間違っている。
正しい問いはこうだ。
マリモジュナ――お前は真に己のためだけに、その想いを抱くことはできるか。
「ええ――――――きっともう、抱いている」
ならば、ゆえにこそ、貫いてみせるとも。
利己的利他主義ですら包み込めない、このエゴを。
――改めて問い直そう。
ゴドーにリビドーを発揮するマリモジュナは、恋をしていると言えるのか?
なぜ私は、ゴドー・アダムズという男に対して初めての想いを抱いたのか?
答えは既に、この蜃気楼の向こう側に見出している。
あとは順序を間違えないように、組み立てるだけだ。
だから手を伸ばせ――!
待っているだけでは世界は変わらない――!
選べ――! 求めろ――!
でなければ掴むことも、手放すことさえできないのだから――‼
「――――――私は」
……思い違いを、していた。
……出発点を間違えていた。
「求めるから好きなんじゃない。好きだから、求めているんだ」
繋がりを。理解を。二人で分かち合うということを。
つまりだ。
性的欲求を抱くから恋をしていない、ということではなく。
性的欲求を抱くからこそ恋をしている、ということでもなく。
『恋をしているからこそ、相手と身も心も繋がりたいというリビドーを抱く』
――それが、マリモジュナという存在なのだ。
分かり合いたいという祈り。互いを知り合ったことで生まれた親しみ。
相手を受け止めたい、相手に受け止めて欲しいと思う、青いリビドー。
そして今はまだささやかでしかないこの想いの萌芽を、水を与えるように大切に育んでいきたいと思う、愛着にも似た好奇心。これが私の……恋心のレシピ。
マリモジュナはゴドー・アダムズに、慈愛とは違う、恋心を抱いている。
年上の男性であればいいというわけではなく。
犯罪を行う男性ならいいというわけでもなく。
『ほかの誰でもない――ゴドー・アダムズに恋をしているんだ、私』
「答え、用意できたわよ……ルカ」
すべてが正しいと、正確な順路だったと言える自信はない。
解釈を間違えていたり見逃している要素だってあるかもしれない。
だけどそれでも。
これこそが、運命にも神様にも触れさせない……私の結論だ。
「……は……っ……あ」
私はぐったりと浴槽から這い出て、立ち上がることもせず冷水シャワーを浴び、四つん這いになって、脱衣場に敷いたバスマットの上に倒れ込んだ。
「…………はぁ」
ピアノの音色は止まっていた。
魔石に籠めた魔力が切れたのだろう。
それほど長い時間、思索に耽っていたらしい。
……目蓋を閉じて脱力する。
大丈夫。意識は思いのほか、すっきりしている。
このまま寝落ちすることはない。
ただ数分ほど、放熱するように休むだけだ。
「………………」
一度認めてしまうと、何とも不思議な感覚ね。
こうなったのはどこか当然のことのような気もするし。
私って殺されてどうかしちゃったんだ、という気持ちだって正直まだある。
いつからこうだったのかも確かじゃない。
少なくともキリエと一緒に居たときは、彼のことなんて超えるべき巨大な運命としか思っていなかった、と思う。
きっかけがあったとするならば……それは。
歳月の幻灯で私の過去を見た――あのときだろう。
アトロポスの輪を断ち切られた私は、死を迎えた。
そして時の彼方に葬り去られた記憶と共に蘇った。
あの瞬間――目に焼き付いたのだ。走馬灯が。罪を背負わせた罪が。
愚かな私のための日々を構成していた祈りは、決してキリエのモノだけではなかったことを識った。
そうして、想いは生まれた。
あの、誰にも見えない昏い水の底で……ひそやかに。
ああ……それともうひとつ。
ケイジ課の執務室で、私を希望だと言って浮かべた、あの救われたような笑み。
あれを見たとき、より鮮明にこう思った。
己の罪を。あの人の罪を。どうしようもない袋小路の中に生まれた本当の光を。
―――もう二度と離したくない、と。
あなたが私を見続けてくれたように。
私もあなたの罪を、祈りを――この目から、この手から離したくないって。
……この恋情がどこに辿り着くのかは分からない。
これから抑えきれないほど強い衝動に育っていくのか。
あるいは些細なきっかけで自然消滅することだって、無いとも言い切れない。
だがいずれにしても、この事実はルカに届くだろう。
……きっと届かせてみせる。
「………………」
ゆっくりと……目蓋を開ける。
脱力していた四肢を広げて、寝起きのように全身を伸ばす。
見上げれば、慈愛の剣はまだそこに、物干し竿として存在していた。
てっきりもう消えており、再顕現させることも叶わなくなったのかと思っていたけれど、そういうわけでもないらしい。
けど……これで良かったのかもしれない。
もしも剣が消えていたら、私が慈愛の運命から外れたことを分かりやすく証明する形にはなった。
しかしそれは、『慈愛の剣を掌握したがゆえに愛を持つと証明された』と断ずるのと何ら変わりない――本質的には意味のないことのはず。
だからむしろ、在って良かった。
たとえ慈愛の運命下にあったとしても。
疑いによって、問いかけによって自覚したこの恋は、自分の意思で選び掴んだモノなのだと――胸を張れるから。
それにこれ、普通に杖や物干し竿として使えるから、あって困ることはないし。
「……っ、――――」
立ち上がった私は、裸のままベッドに向かい、静かに眠りについた。
そうして数時間の充分な睡眠を経た、翌日の朝。
諸々の片付けを済ませた私は、最後にもう一度だけお風呂に入ってから、宿泊施設をチェックアウトした。
昨日の今日でよく飽きないな、なんて思われるかもしれないけれど。
……なんてことはない。
私はお風呂に入ることが、純粋に好きなのだ。




