第17話『落ちたストロベリーは戻らない』
♰
初等部五年生の春。一番の親友でいようと誓い合った女の子がいた。
同じ年の夏。その女の子に好きな男の子ができた。
―――わたしは、二番目になった。
次第にわたしたちは疎遠になっていった。
……なんてことはない。悪いのはわたしのほうだ。
わたしが恋愛と友情の好きを区別できず、一年かけて育んだ絆を、桜の下で握り合った手のひらを、自ら振り解いてしまったというだけの話なんだ。
そしてそれは、今も変わらず。
わたしは幾度となく大切なものを―――取りこぼし続けている。
子供の頃。永遠があると思っていた。
親からの愛。親友の情。先生からの理解。社会からの許容。
何を言っても信じてもらえた。誰にでも声をかけて友達になれた。助けてと泣いたら助けてもらえた。無条件で見捨てないでもらえた。
だけどいつからだろう。
わたしは普通に生きていただけのはずなのに、誤解という名の喪失が積み重なって、気が付いたときには、孤独を抱えていた。
妖精を見たと興奮して両親に伝えると、他愛ない見間違いだと笑われた。
毎日一緒に遊んでいた友達は、クラスが変わっただけで会話もしなくなった。
男の子に意地悪をされたと先生に泣き付いたら、相手の嘘でわたしが怒られた。
誰も教えてくれなかった公共の規則を破ってしまったら、陰で悪口を言われた。
もちろん、いつもそうだったわけじゃない。
真剣に話しているのに取り合ってもらえなかったのも、何も言わないまま距離が空いてしまったのも、言い訳をするなと頭ごなしに怒鳴られたのも。
割合でいうならたぶん、十回のうち一回のこと。
だけど、それはひっくり返せない一回で。
誤解を解くことを許されなかった一回で。
まるで真水の中に垂らされた透明な毒のようにわたしの世界に広がって、歳を重ねるごとにその数が増えていく――致命的な一回だった。
どうしてあの人は、わたしを理解することを放棄してしまっているんだろう。
どうして、やり直したいのにやり直せないすれ違いがあるんだろう。
そんな想いは、現実は、溶けない雪のように降り続け、募るばかりで。
だから必死に――相互理解を求めた。
こちらから歩み寄れば、知る姿勢を見せれば、落ち着いて話し合うことさえできたなら、あんなすれ違い無くなると思った。
誤解なく分かり合うことのできる――本当の関係を構築する。
そのためにわたしは努力したし、それは実際、できていたと思う。
嘘でも勘違いでも思い上がりでもなく、純然たる事実として、わたしは本当に、他人のあらゆることを理解できていたんだ。
あの――――夏の日までは。
同じ年の冬、隣の席の男の子から告白された。
わたしにも恋人ができた。
でもそれは、お互いを一番と言えるほどの特別な関係ではなかった。
わたしは相手のことを理解できなかった。
相手はわたしのことを理解しようとしなかった。
あの子は『彼女』が欲しかっただけで、わたしは要らなかった。
わたしは『あの子』を理解したかっただけで、恋心が理解できなかった。
そのうち、初等部六年生になった頃――別の男の子から告白された。
わたしはその告白を受けた。
断る考えがなかったわけではない。むしろ最初は断るつもりだった。
だけど、二重交際になってしまう状況を、相手の男の子が了承した。
それでも構わないからと――わたしの恋人になることを求めた。
判断に困ったわたしは最初の男の子に話を通した。
するとその子もまた、そうなることを容認すると言った。
代わりに自分も別の彼女を作っても構わないかと言われ、わたしは頷いた。
それが普通の、常識に沿った関係の形ではないことは分かっていた、つもり。
だけど、別れたくない、繋がっていたいという感情がわたしたちの間には存在していて。それを損なわないよう尊重した結果がこの形なのであれば、それこそが特別であることの証左だと思って、わたしもそれを受け入れた。
やがて男の子からも女の子からもたくさん告白を受けて。
そのたびにお話しをして。繋がりを作り続けて。
青春履行員会として『青春』を履行しながら……相互理解への道を歩み続けた。
けれどわたしは――いつまで経っても、恋心というものを理解できずにいた。
手を繋いでも。キスをしても。抱き合ったりしても。歯型を残してみたりしても。それ以上を想像してみても……ほかのみんなみたいに頬が赤くなることはなかったし、恥ずかしくもなければ、胸が高鳴ることもなかった。
最初は、行為自体が目的なのか、その先にある理解が目的なのかで、噛み合わない部分が出てきているのだと思ったけど――実際その部分もあったんだろうけど――わたしの中で友情と同等以上の特別が生まれることはなかったし、ゆえにこそ、誰もわたしのことを唯一の特別にはしてくれなかった。
――わたしには恋人という関係の人が、たくさんいる。
そしてそれ以上に、元恋人という関係の人が、たくさんいる。
好きという感情はあるはずなのに。
それが恋というモノに繋がらないから。育つことがないから。
繋がりを得るのと同じかそれ以上に、繋がりを失う人間になっていた。
出会えていないだけだと、思おうとした。
きっと、時間が解決してくれるものだと。
だから青春履行委員会が用意する『形式』を履行することによって、恋心を理解しないままに、恋人を作り続けてみたわけだけど。
それゆえにわたしは、『形式』を外れたその先へと行くことができないでいて。
いつまで経っても出会いは訪れず。また待ってもくれず。
みんな、わたしよりも特別な人を見つけて、離れていってしまった。
……そうだ。いつだってわたしは、置いていかれる側なんだ。
あの幼馴染が、あの子に惹かれているように。
あの人が、あの―――に惹かれているように。
やっぱり、わたしの好きとは違う種類の好きが原因で。
それは一瞬でわたしを飛び越えて、わたしとの繋がりを奪い去ってしまう。
――理解、したかった。
理解して、あの子と手を繋いでいたかった。
だから一番の繋がりを欲した。たくさんの恋人を作ってみた。
誰もが一番で唯一の、特別な繋がりのはずだった。
けれど繋がれば繋がるほど、それは遠のいていった。
正直もう途中から、何を求めていたのか、最初の願いはなんだったのか、忘れてしまった感覚さえあった。
ただ確かなのは。
一人きりの孤独よりも、誰かと一緒に居る孤独のほうがずっと辛いということ。
……どうして、こんなことになってしまったんだろう。
わたしにも恋心があれば、こんなことにならなかったのかな?
でもいっぱいいっぱい探してみたけど、見つからなかったんだよ……?
何回も何回も見つからなかったって絶望して、そのたびにずるずると足を引きずりながらまた探し始めて、また見つからなかったって泣いて、泣きながらも仕方なく手を伸ばして、それでも無かったんだよ……?
まるで……神様が入れ忘れてしまったみたいに。
そしてそれは、まったくあり得ない話でもなかった。
ヘリオスレッタに敷かれた運命と囁かれている『起源論』のことは、わたしも知っている。
それに則って考えれば、魔的法則が使えるということはわたしも何かの起源/感情が欠損しているということで――もちろんそれは転生する前からで、起源なんて関係ないという可能性もあるけど――本当に、わたしの恋心が運命の壁に仕切られた向こう側にしか存在しないのなら。
そんなのもう、どうにもできないことだ。
どうしたって辿り着けるはずないものだ。
それこそ運命に――反逆するぐらいでなければ。
……ふと、反逆者の姿が脳裏をよぎった。
自らの運命を掌握してみせた、あの人の姿が。
そしてわたしは、ルカ・フローレンスの中に存在する、ある矛盾を拾い上げる。
あるいは、それこそが致命的だったのかもしれないと、今さらながらに思って。
わたしは、幼い頃から相互理解を求めてきた。
恋心というどうしても理解できないモノにぶつかるまで、ぶつかってからも、話せば分かり合えるという姿勢でいた。
だから学院内でも学院外でも信頼を築いて、副委員長という立場を認められた。
でもわたしは――真実すべての人に向き合ってきたわけではない。
だって、そう……どうしたって話が通じない人も、いたから。
自分より弱い子を虐めるのが好きな人。簡単に暴力を振るう人。人を殺す人。
そういった、どうしても分かり合えない人たちは、無視するしかなかった。
無視すれば、そんな人たちは世界から消えてくれた。
転生前はSNSで暴力や自殺の動画が流れてきても、そんなの全部ツクリモノのニセモノで、現実にはそんなこと起こってないんじゃないかって思っていたし。
この世界に来て、新聞や噂で事件の話を聞いても、知らないフリをした。
だって実際にこの眼で見たわけではないし……ってそんな感じに。
だけど、わたしは出逢ってしまったんだ。
あの人―――マリモジュナに。
透き通るような白い長髪に、水晶のような紫色の瞳。
まるで時を止めてしまったかのように幼い体躯と、それに似合わない、死を経験した人特有の憂い、あるいは諦念を湛えた表情が特徴的な女の子。
……初めてだった。
あのキリエ先輩が自身の友人を紹介してくれたのも。
現実で確かに進行している事件の被害者に出会うのも。
そして何より、自分に似ていると、他者に感じたのも。
ううん、正確には出会ってすぐそう思ったわけではない。
最初の最初、あの人は死の縁に立っていたから。だから最初は多くの委員会所属者と同様に、『形式』を拠り所にしてあげようと接した。
そうしているうちにいつの間にか、あの人は事件を解決に導き、学院への入学を果たし――わたしと似た雰囲気を纏っていた。
分かり合えなかった過去からくる物腰や考え方、理想とする祈り。
それは同じ志を持つ運命の人を見つけたような、この人を通して、今まで分かり合えなかったモノへの突破口みたいなものが開ける予感を、わたしにもたらした。
気付いたら自然と、気持ちが吸い寄せられていた。
他の人には感じないモノがあった、はず、なのに。
なのにあの人は――殺人鬼に惹かれてしまった。
わたしには無理だと無視した種類の人と、理解し合ったような目をして。
そしてその同じ目が、わたしのことは理解できないと……言っていた。
たまらなく怖かった。
違ってしまうことが。すれ違ってしまうことが。失ってしまうことが。
わたしと似ているはずなのに。似ているからこそ、ほかの誰よりも、分かり合えないという事実が心の底から苦しかった。
辛かった。妬ましかった。いっそのこと嫌いになってしまいたかった。
どうしたって分かり合えない人として、今までみたいに無視して、遠ざけてしまいたかった……のに、できなかった。
――友達で居たかった。
どうしようもなく、この人の近くに居たいと思った。肯定されたかった。
そうすれば正しい生き方をできて、正しい自分に変われるように思えたから。
……ううん、やっぱりそうじゃない。
多分そんな理屈なんかどうでもいいぐらい、ただ傍に居たいと、一緒に学生生活を送りたいと、そんな単純な気持ちだったんだ……これは。
そしてきっと。
この小さな矛盾が、致命的に、わたしをこの終局へと追いやったのだろう。
よせばいいのに。今度こそはと期待して、結局、また……。
それでもわたしは、また期待して手を伸ばすんだ。
いっそのこと、そうし続けることに幸せを見出せればいいのにと思うほどに。
後悔しながら、無様を晒しながら、また、何も学ばずに。
そうしてわたしは、手を伸ばした。
白髪の少女の次に手を伸ばした相手。それは人ではなかった。
一度わたしのことを包んだくせに、手放してしまったそれが。
もう一度わたしを見てくれたものだから、わたしもつい見つめ返してしまった。
その相手は――――死。
死とは、どんな想いも平等に受け止めてくれるモノ。
これまで積み上げてきた記憶も、人格も、苦しみも、悲しみも、すべてを虚無に還し、終わりを、永遠の極楽をもたらしてくれるモノ。
……だから。
――ああ、なんて冷たい抱擁。
心の底から気持ちがいい。
こんなにも痛苦から解放された終焉を、受け入れないなんて、嘘だ。
反逆の意思なんて抱くわけもなく。
わたしは死と分かり合うように、水底に沈む柩の中で、安らかに息を止めた。
☆
――ルカが、出てこない。
藤の花で形作られた指輪……ルカのアトロポスの輪が断ち切られ、柩と共に水底に沈み、燃え盛り、歳月の幻灯による記憶の投影が始まって、五分は経った。
無数の泡に断片的に映し出されていた記憶は今、終わりを迎えた。
走馬灯の上映を終えてなお、ルカはまだ……柩の中から出てこないでいる。
「ッ、――ルカ! ルカ……‼」
灰の雪が降らない、花が咲くこともない月の海に、膝を突く。
そうして土下座するように顔を伏せて、必死に水面を叩いた。
……特別な過去なんて、なかった。
鮮烈な思い出も。悲劇的なバックボーンも。
彼女は転生者だ。一度死んでこの世界にやってきた子だ。
だからそこに、今の彼女を形作る起因となるような物語があると思った。
けれど、違った。
彼女はきっと誰もが抱くような普遍的な思い出を携えて、極々平凡な人生を歩んで、そうして自然に今のルカ・フローレンスになったのだ。
そこに、他者の悪意や運命によって曲げられた想いなどなかった。
……少なくとも私にはそう思えた。
ただ、生まれたときからそうだったのだ。
誰に決められたわけではない。ルカが選んだわけでもない。
自然とそうであったという、本当にそれだけのことで。
ゆえに理解できた。
私にはルカ・フローレンスのことが理解できないのだと。
どうしても埋められない溝があるのだと。
よく……分かった。
そしてそれは多分、ルカも同じで。だからこそ彼女は、絶望した。
……それでも……ッ、それでも……!
「まだ一回よ‼ それがどうしようもないモノでも……私は、まだ一回……! 見切りを付けるには早すぎる! そうでしょう、ルカ‼」
その一回が、何回も何回も積み重ねてきた一回だという事実は認識している。
これまで積み重ねてきた小さな断絶が、重く伸し掛かって、ルカの手足を鎖のように縛り付けて、錨となっていることも。
だけどそれでも、私にとってはまだ一回なのだ。
どれだけ辛くても走り続けたルカなら、きっとまた歩き出せると信じていた。
何回でも私を諦めなかった人たちが居たように、私もまだ諦めたくなかった。
だからとにかく叫んだ。彼女が柩から出てくるように。大きな声を出して、祈るように、煽るように。それでも届かなかったから剣を執った。けれど。
「ッ――ミゼリコル・トゥエ・レーヌ……‼ ルカを――ルカ、を……」
手が――止まる。
これを使ったところで、きっと意味はない。
だってルカは、この【慈愛の剣】を否定するために戦ったのだから。
彼女に示さなければならないのは空想ではなく、確かな現実だ。
だがそうなってしまえば、今の私に一体何ができるというのか……。
「ぐっ……うぅ……ぁ――――ああああああああぁぁぁ……ッ‼」
どうしようもなく、成す術なく、みっともなく叫んだ。
それから。
「――ッ、――――‼」
私は即座に聖剣を、首元に沿えた。
刃の無い慈愛の剣――だがこんなものでも、アトロポスの輪を自ら断ち切り、この水底へと潜ることはできるはず……‼
新たに形作られた白百合の首輪。
それを断つため、思いっきり力を込めた手を。
「――――よせ」
……自分よりずっと大きな手が、包み込んで止めた。
「葬儀はまだ続く。彼女の死はまだ確定したわけではない。あの乗務員が、そう言っていた。……だから今は、冷静になるべきだ」
顔を上げると、彼が居た。
ゴドー・アダムズが、今回の葬儀が開かれた理由を知ってか知らずか、曖昧な表情を浮かべて佇んでいた。
「ゴドー……私は……」
私はあなたのことが好きなの――?
それが分からないから、ルカをどうしようもなく傷つけてしまったの――?
そう問いかけようとして、言葉を呑んだ。
だってきっと、この答えは誰かから与えられるモノじゃない。
――私自身が辿り着かなければならないモノなのだから。
『マリモさんの感情は本当に自分で選んだモノなんですか?』
分からない。すぐに答えなんて、出せない。
だから……考えよう。逃げないで、向き合ってみよう。
かつて私が、他者を通して自らに赦しを与えたように。
今度は自らの理解を通して、ルカにもう一度、手を伸ばしてみせる。
だから置いていかないで。
私も必死に、置いていかないように抗ってみせるから。
……ほんの少しだけ、待っていて。
ルカ・フローレンス。マリモジュナの―――――。




