第16話『理解できない愛と恋』
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七月三十一日。金曜日。目が覚めた。時刻は午前五時ジャスト。
昨日に引き続き随分な早起きだが、寝覚めはむしろ快適。
快眠ゆえの早起きというやつね。
硬くなった身体を伸ばして起き上がり、向かいのベッドで寝ているルカと、その間に敷かれた布団で寝ているペイルに目をやる。
昨夜行われた寝前会議にて、こうして一人ひとつの寝具を使う方針があっさりと決定した。どうやら二人も、同じ布団を三人でというのは、実際に体験してみて思うところがあったらしい。
するとあとは私とルカの譲り合い精神の行き場なのだけれど、そこは一日ごとに寝床をローテーションするというルールを制定し、折り合いを付けた。
今の季節だと寝汗が気になるかもしれないが、逆にそれが毎日きちんとベッドメイクするモチベーションにも繋がる。
そんなわけで、睡眠問題に関しては平和的解決が成されたのであった。
私はシーツを外して折り畳み、あとで二人の分も持っていくので一旦放置。
昨日と同じく朝シャワーを浴びるべく、準備を整えて廊下に出た。
――青白い窓の外。遠くそびえる古城のような校舎を眺める。
あの人も今頃、ベッドで快適に眠れているだろうか。
昨日……ケイジ課の執務室を去った後、師匠さんはあっさり見つかった。
なんと教室に向かう途中、踊り場でペイルと二人で話していたのである。
会話の内容は分からない。
私の足音に混じって微かにクロヴィスの名が挙がっていたのは聞こえたが、問い質すわけにもいくまい。話もすぐ終わったっぽかったし。
何にせよとんでもない偶然。決して逃すわけにはいかないチャンスだ。
私は隙を見て、迷える子羊のことを師匠さんに報告。
そして無事、夜に再び秘密の部屋へと案内してもらえる運びとなった。
念のため私も同行することを決め、そうして本当に複雑な、まるでゲームの隠しコマンドじみた道順に挑み終えた、午後九時過ぎ。
ついにゴドー・アダムズは――一日ぶりの帰還を果たしたのである。
部屋に入っていく疲れきった男の背中を謎の達成感に包まれながら見届け、寮に戻った私はルカとペイルと三人でお風呂に入り、そして寝前会議へ――というのがあれからの流れであった。
シャワーを浴び終えて部屋に戻る。すると丁度、扉を開けてルカが出てきた。
その手には三人分のシーツ。今から洗濯に預けに行くところだろう。
「あ、おはようございます。マリモさん。シーツ、回収しておきました」
「おはよう、ルカ。ありがとね」
「えへっ、今日はマリモさんのベッド、わたし色に染め上げちゃいますよ♡」
「はいはい。沢山可愛がってあげて」
……ルカとの関係に変化はない。
いつも通りで何もない。ちょっと、怖いぐらいに。
昨夜、エレーナとのことが話題に上がるのかと多少身構えていた。
けれど特に話を切り出されることはなく。そして私もどうするべきか、そもそも何か言うべきなのか迷って……何も言えないままで。
当事者であるエレーナが相談を撤回したなら、和解し問題が解決したというのなら、それは私にとっても喜ばしいことだ。
だからこの話はこれでおしまい……でもいいのだろう。
けどそれじゃあルカとの関係の疑似体験とやらもなぁなぁのままで、彼女のことを理解したとは言い難くて。
やはり、また近いうちに、じっくり話す機会を作るべきなのかもしれない。
そんなことを漠然と考えた数時間後、その機会は期せずして訪れた。
ともすれば永遠の別れにも繋がりかねない――最悪の形で。
四限目。グループを作り課題をこなす、半ば自習のような授業中のことだった。
「……課題、終わっちゃいましたね」
机に突っ伏したルカが呟き、私もそれに頷く。
「夏休み前の消化試合みたいなものだからね」
私とルカ、そしてペイル。グループを組んだのはこの三人だ。
課題の難易度的に、初心者の私が授業の段取りなども含めてペイルに教え、それをルカが監督する……この形がベストだろうという判断である。
そしてその目算は的中した。というか順調すぎて、授業時間を二十分は残しながら課題を片付け終えてしまった。
「お昼はどうする? 学食か、寮に戻って自分たちで用意するか」
午後の授業も似たような感じだろう。それを乗り越えれば終業式。念願の夏休みの開幕だ。何だったらお昼を節約して、放課後にまた皆で街に繰り出してもいいのではないか。そんなことを考えながら尋ねてみると、ペイルが曇りなき眼で言う。
「今日はケイジ課? に行かなくていいの?」
「――――」
時間が凍り付いた。気がした。……もちろん錯覚だ。
「……ええ。抱えていた案件は……その、ひとまず解決したから」
一拍遅れてそう返し、私は前髪の隙間から、ルカの表情を窺った。
動揺とか気まずさとか、そういった具体的な何かを期待したわけではない。
ただ、初めてエレーナに関することが話題に出たから、文字通り顔色を窺ってみたのだ。
「…………」
――ルカは、微笑んでいた。まるで野に咲く色鮮やかな花のように。
それが決して、特別なモノではないことを、知っている。
あの眩しさはルカ・フローレンスの平常運転であると。だからこそ彼女は親しまれ、愛され、副委員長に抜擢されるほど認められていることを。
これ以上伝わり様がないほどに、私は知り尽くしている。
だから――私は一度、クラスを見渡してから、それから再びルカに向き直った。
「エレーナと話したみたいね、ルカ」
言ってすぐ、じわりと全身に熱い波が走った。
押すべきではないスイッチを押したような感覚だ。
私のモノかルカのモノかは分からない、けれど。
「はい。だめでしたか?」
即答するルカに、私は平常心を装いながら続ける。
「止める権利なんかないわ。けれど、あなたとの共同生活中は休戦状態のようなものだと勝手に思っていたから」
「そもそも戦ってませんよ?」
「……ルカとの関係の疑似体験というのも、できているのかよく分からないし。このままであなたの掲げる相互理解が果たせるの?」
「わたしたちの、ですよね? まあそう急いてはいけません。というか……マリモさんのほうこそ今、わたし以上に関心を抱いている人がいますよね。昨日はペイルさんの監視役を放ってまで密会してたみたいですし?」
「どうしてそれを……いえ、言わなくていいわ」
私とゴドーが一緒に居るところを目撃できたのは、おそらくエレーナだけ。
ならば彼女が話したのだろう。マリモジュナが年上の背が高い男性と一緒にいた、と雑談の種程度に。そしてルカはそれがゴドーだと直感した。
……特に口止めとかもお願いしなかったし、それは仕方ない。
密会というのも結果的にそうなっただけだが、間違いではないからね。
そこは否定できないので素直に認める。すると。
「――好きなんですか? あの人のこと」
ルカはかつてないほど大真面目な表情で、声で、そう言った。
「はい?」
――が、本当に意味が分からなかった。
「違うけど……何をどうしてそう思ったの?」
だからつい、身が入らない声で訊き返してしまった。
それは自らの真剣な問いを、軽くあしらおうとする態度に見えたのだろう。
「じゃあなんで平然と話せるんですか?」
今度はルカが、スイッチを押した。
「どうして分かり合ってるみたいに打ち解けてるんですか? 相手は人殺しですよ。あなたを殺そうとしたんですよ? 無視するか、軽蔑して、離れるべき存在じゃないですか」
初めて聴くルカの声だった。まるで今にも泣き出しそうな。無条件でこちらが悪いと感じさせるような、切実な声。加えていつもは可愛らしく映っていたストロベリーピンクの瞳は今、激情を湛えて揺れる炎のようで。
「……んだよ、喧嘩か?」
「…………」
ルカの異変を察知したらしく、近くの席で課題をこなしていたクロヴィスがこちらを向いた。その反対の席には、なぜか表情を強張らせているハイネ。
ルカはそれを無視する。
何らかの揺るぎない意志を以て私の顔を、瞳を、その奥を鋭く射貫くように見つめ続けている。手は出していないが、殴りかかってくるのと同じぐらいの衝動が、その眼差しには籠められているように思えた。
……眉をひそめる。
ヒートアップしたルカ――多くのクラスメイトが、それを突然のことのように感じていた。何をいきなり、堰を切ったように、と。
そして私に視線を向けている。一体どうしたらこの短時間で、普段温厚なルカをあそこまで怒らせることができるのか、と。
だがきっと……そうではない。
ルカはずっと、学院長室で私とゴドーの会話を見たときからずっと、想いを募らせていたのだろう。
兆候はあった。ルカはゴドーを恐れていた。学院長室では私の手を握り、列車の中では一番離れた席に座っていた。徹底して警戒心を抱いていた。
そして、それほどまでに忌避していた存在に何気なく接する私を見て、ルカは想いを抱いた。それが、どのような類いの想いかは分からない。
けれど今解き放たれているのは、そうして溜め込んだ感情の奔流なのだ。
先ほどの私の言葉が、態度が、ルカの心のコップに一滴ずつ溜まっていっていた水を溢れさせてしまった。……おそらくは同じように、たった一滴の雫で。
「普通の精神状態とは思えません。危険ですよ。ハイブリストフィリアとかストックホルム症候群とか、そういうものを疑うべきではないんですか?」
その勢いに、熱に、私も気が引っ張られるのを感じる。
「それ、なに?」
首を傾げるペイルに、私は声を低くして答えた。
「……ものすごくざっくりと言えば、前者は凶悪な犯罪者に倒錯的に惹かれてしまうこと。後者は身の危険を感じた相手に対して、自己防衛のために親身になってしまうことよ」
「うーん。それはあまり……言っていいことじゃないね」
「ルカ。あなたの心配は分かる。私も頭からそれを否定して、自分が普通だなんて言い張るつもりはない。普通というのがどれほど薄く脆いモノかは知っているつもり。ただそれでも、そうやって言葉での定義を求めるのは早計だと思うわ」
大切なものは目には見えないという。
そして言葉は意図しない形を与えてしまうことがある。
ならばそれは、それこそ倒錯的な行いなのかもしれない。
けれど言葉は目印にもなるし、そこに切実さが宿ることだってあるだろう。
それこそルカの所属する青春履行委員会がそうだ。
途切れた青春のやり直し。青春と定義される行いの履行。
そういった様式美、言い換えれば伝統を己の柱に据えて、報いを得る者が居ることは知っている。
だけど。
「個人と個人の関係は、ジャンルやシチュエーションに収まりきるものでは決してないはずよ。そうすることは、あなたが思う相互理解とは違うのではなくて?」
私も、内から出てくる衝動のままに言葉を紡いだ。
その衝動とは――怒り。
そうだ。私はルカに怒っていた。
そしてその怒りの根源は、未知への恐怖。自己を守るための奮起でもある。
……怖いと思ったのだ。
今朝、笑顔でルカに挨拶をしたクラスメイトたちを見て。
きっと昨日のうちにルカ側からもエレーナ側からも、和解したことを広めていたのだろう。それがゆえの光景は、不和が起きても相手と対話し、和解し、それまで積み上げた信頼と共に元の日常を取り戻す、ルカの流儀と在り方を表していた。
そこはいい。むしろ私も見習うべきところだと思っている。
だから、怖いと思ったのはそこじゃない。
私が恐怖を、あるいは不気味さを覚えたのは――ルカが私の知らないところで和解を行ったこと。その一点に尽きる。
要は、とても傲慢な言い方になってしまうのだけれど。
ルカのそのやり方は――私の理解を欲した者の行動には思えなかったのだ。
道行きの差はあれど、お互いに目指している場所は同じだったはずなのに。
実際にルカが果たした行動は、水面下の和解と、素知らぬ顔をして私やペイルと日常を笑って過ごすことだった。
分からなかった。だから怖いと思った。結局ルカが複数の恋人を作る心情も、それを受け入れさせてしまう対話能力も、私には一切実感できないままで――しかし他者には確実に発揮されてるという事実が。
そしてそれを私にも分かってほしいと言いながら、姿勢だけ見せて、取りつく島もないという事実が。
ルカの考えていることが理解できなくて。
まるで未知の現象に遭遇したような恐怖を覚えて。
無意識のうちに恐怖を誤魔化す怒りを抱いて。
それすらも有耶無耶にする――平気な顔をしていた。
そんな私に対して、ルカは言う。
「だとしても、自分を殺そうとした殺人鬼と親密になるなんて、ちょっと物語じみてますよ。立場も年齢も性別も超えた愛ですか? いいですね、素敵です。けど、それって何もかもを検討し尽くした先に辿り着くモノなんじゃないですか? マリモさんはそれが本当に恋じゃないか、考えたんですか?」
「は――?」
いよいよ本当に、ルカの言っていることが理解できず、声一つで問い返す。
するとルカは淡々と続ける。
「あの式典の日、キリエ先輩が言ってました。あの白い羽根は、マリモさんが慈愛の剣を抜いたからなんだって。至純なる起源に辿り着いたからだって」
「…………」
「起源を――己が歩む運命を、マリモさんは掌握した。神性を手にした。だからあんなデタラメな魔法が使えるようになった。でもそれって逆に、運命に縛られたとも言えますよね? 慈愛に束縛された今のマリモさんの感情は、本当にマリモさん自身が選んだモノなんですか?」
――あり得ないと、私は即座に脳内で否定した。
けれど、すぐに思考が走り出す。自身の感情が無意識のうちに慈愛に寄っている――それを肯定し切る証拠をルカが持たないように、否定し切る証拠もまた、私の手にはないと気付いたから。
だがそんなの、一体どうやって証明すればいい……?
悪魔の証明を。選ばなかった運命を……。
「…………」
私が黙り込んでしまったそのとき、ルカはぽつりと呟いた。
「わたしは考えましたよ。少なくとも……たくさん」
「……その結果が、何人も恋人を作ることなの?」
「だって分からなかったんです。ひとりじゃ全然、恋心なんて……どれだけ出会っても、まだ出会えてないだけで、いつかそれが来るって願ってても……特別を、感じられなくて……」
「何を……言って」
心の底から悔しがるように、欠陥を抱えているのは自分のほうだと卑下するように、声を零すルカ。初めて触れる彼女の心の端に、私は目を細めて、ルカ・フローレンスという人間を測ろうとする。
今のルカを形成するに至った過去の思い出やトラウマを、仮説の名のもとに捏造しようとする。
それを。
「……歌ってください。ペイルさん」
俯いたまま糺すように、ルカは言った。
それから彼女は姿勢を正し、毅然と、もう一度。
「歌ってください――葬儀をします」
怒りに身を任せている風には見えなかった。
だってルカは、その胸に抱いた確固たる目的を、宣言してみせたのだから。
「マリモさんには悪いですが、今度はわたしの目の前で全部を曝け出してもらいますよ。そうしてわたしが見極めます。――あなたの想いの正体を」
それはまさしく、宣戦布告だった。
『――終の銀 世界梯子 翔け上がる 回帰の海』
これは一体、何を葬るための儀式なのか。
何と決別し、何を新しく始めるための弔いなのか。
定まることを待たず、歌い始めるペイル。真昼の月に乞う彼女の歌に、クラス中から『なんだ』、『どうしたの』と声が上がり、好奇の視線が向けられる。
その中で。
「おいおい今やんのかよ……」
「…………」
怠そうにぼやくクロヴィスと、何かを見定めるようにじっと無言を貫くハイネ。
二人の、そしてクラスメイト達の視線を背に受けて、私はルカを見つめ返した。
「振り上げた拳を、下ろすつもりはないみたいね」
「わたしを理解したいなら、どうか受け止めてください。それがマリモさんのやり方ですよね……?」
『別つ水面に 飛び 泣き 濡れた 七つの十字架 抱き直される 泡――』
立ち上がったルカは背後にそびえる窓を開けた。
舞い込む夏の風。棚引く白いカーテン。四角く切り取られた空の向こうに、やがて空を翔ける列車が飛び込んでくる。
そして窓枠に足を乗せたルカは、落ちるように列車に飛び乗った。
「――受けて立つわ、ルカ」
私は颯爽と駆け出す。
かくして三度目の葬儀は、夏休みを目前にしてその幕を開け――。
――私が最も望まない形で、終わりを迎えた。




