5日目 2 私の嫌いな遊園地
薄暗い、鉄錆びの匂いがする通路を走り抜け、二人はまた、巨大な透明ケースに直面した。
立ち止まり、そしてすぐに、方向転換する。
「……」
直視できない。止まりそうな足を必死で動かし、手を引かれて、少年は走り続ける。
ずっと、通路に沿って立ち並ぶ子供水槽は、少年の肺を握りつぶそうとする。
そのたびに、少女の握力を感じては、非情な現実に引き戻される。その繰り返しだ。
そんな状況下でも、少年の中の『良い子』は、冷静であり続けようとする。
ガラスケースの中身は、それぞれ異なっていた。
おもちゃ箱のようにぎちぎちに詰め込まれたケースがあれば、ひとりひとり丁寧に分けられているケースもある。
何が違うんだろう、と湧き上がる好奇心に、少年は身震いした。
少しずつ消えていく疑問に、安心を覚えて、また身震いした。
貧血で倒れそうなときのように、視界に星空が散らばっている。
目が覚めた直後のように、空想にぬれた声が耳の奥に浮かび上がってくる。
少年はそれなりに体力がある。良い子でいるために、良い子になるために、鍛えたからだ。
ではなぜ、今、倒れそうになっているのだろう。まだ、そんな遠くには行っていないのに。
「貴方、しっかり! いまは、ただ、ついてきて!」
はっとして、少年は意識を呼び起こす。考えることをやめ、ただ走ることに集中する。
なぜ走っているのかは、わからない。ただ、必死な表情をした少女に、ついていっているだけだ、と。
ガラスケースの立ち並ぶ道を抜け、少年はどうにか呼吸を整えようとする。
加速したがる心臓を落ち着かせ、焼け付く喉に唾を送り、笑う膝を震える腕で抑え込み。
息も上げず、苦い微笑みを浮かべた少女は、眉をひそめて少年を見下ろしていた。
「は、速い、よ、ねえ……」
「……ごめんなさい。時間がないの」
息を整えながら、少年は首を傾げた。少年が見上げると、頬を掻く少女と目が合った。
「……ですわ」
「?」
少女が笑った。
少年には、その笑みには影があるように見えた。
木馬に跨り、メリーゴーラウンドを楽しむ、あの時の少女とは似ても似つかない笑顔だった。
「ふふふ。もう、『良い子』の振りはやめ。ここから先で、気づかれることはありませんわ」
「振り?」
「……ええ。貴方は、生粋の良い子なのね」
訳が分からない、と腕を広げて見せる少年。
そのままでいいよ、と囁き、少女は歩き出した。
少年はただついていく。たったひとつの光を追いかけて。
ガラスの向こうに広がる、広い空間。
一見何もないように見えるその方向へ、少女が指をさした。
「これ、これが見せ……」
少女が指さした先を覗き込むと……少年は絶句した。
「ごめんなさいね。本当は、見せたくなかったの」
絶句した、が……少年には、何かよくわからない。
ただ、少女の表情から、何か良くない物だとはわかる。
少年が、説明がほしいと思っていると、ふたりのもとにひとりの大人が近づいてきた。
「やあやあ、こ~んにちは。鏡の娘さん。おやあ? ……後ろの子はだれだい?」
少女と同じような、輝く目をした大人だった。
少女は何も話さない。黙ったまま、少年を庇うように腕を横に出す。
少年は息をのみ、少女の厚意に甘えた。
「睨まないでくれよ、君と私の仲だろう?」
「うるさい話しかけないで邪魔なのどっか行って、ねえ」
「あははは、ひどいな、同じ思想同士じゃないか~、仲良くしてほしいな~」
少女の憎悪が、少年にまで伝わってくる。
少年には、輝く目をした大人は、悪い人には見えなかった。
「うるさいのよ。結局何もやらなかった。それに、お父様と私を結びつけないで」
これが反抗期という奴だろうか。少年の中の『良い子』は、そう、納得しようとする。
少年は、汗を吹き出した。
「だから鏡と呼んでいるんだろう? そこの少年に伝わらないように」
今は明るいのに、少女の表情はわからない。それでも、絶対に怒っていると、少年の肌がそう告げる。
鏡とは何だろう、と考える少年がいる。
同時に、鏡というものがあるんだろう、と納得しようとする『良い子』がいる。
思考の放棄を、少年が思い描く良い子は許さない。
話についていこうと、少年は必死で頭を回す。
ガラスの向こうから浸透してくる、気持ちの悪い音に流されないよう、必死で。
「そんな気遣いいらないわ! 何もやらないくせに、馴れ馴れしく夢を偽って!」
「あははは、嫌われても仕方ないか。でもさ、」
目を伏せた大人の瞳が、一瞬黒く濁った。少年には、そう見えた。
「この完璧で不完全な支配制度を、たった一人の非……子供、が変えようとする。そんな笑えない空想を、でも正しいと思える輝く夢を、諦めるのはおかしい事かな?」
「……もういい。私の邪魔はしないで」
険悪な雰囲気の中。少年は、少女の服を引っ張った。
「ね、ねえ? 説明か解説が欲しいんだけど……」
少女が振り返った。目を見開き、息を荒げている。
深呼吸。
大人はゆっくり通り過ぎていった。また、少女の息が上がった。
深呼吸。
落ち着きを取り戻そうとする様子に、少年は何も言えなかった。
「……ごめんなさいね。冷静さを欠いていましたわ」
少女が微笑んだ。
「そ、そっか……」
輝く目の奥には、どれだけの黒いものが隠れているのか。
少年は、目を見て話すことすらできない。
「ごめんなさいね、邪魔が入ってしまいましたわ」
「そ、そっかぁ」
「もう、詳しく説明する時間はありませんの……」
「え、……うん」
「……すこし、恐ろしい話をしても、いい?」
少女の瞳が、揺れていた。
少年は迷わない。
「良い子関係なら、何でも」
「……ふ、ふふふ」
「えーと……」
「『良い子』って言うのは。従順に、疑問を持たず。私たち支配者に尽くす。作られた存在ですの」
そう語る少女は。メリーゴーラウンドの木馬よりも、死んだ目をしている。
少年はいまいち実感を持てなかった。
少年は齢十歳。努力し続けてきたとはいえ、思春期すら来ていない。
そんな少年に、小難しい支配体制の話は、通じるはずもなかった。
「……わからないのなら、分からないままでいいですわ。変わらず、私のお友達のままでいてくれたら」
少女の笑顔を見るのは、久しぶりな気がした。
「私は、満足ですわ。ふふふ」




