第68話 抗う手段と崩れゆく防壁。ヤマトの撫子が残した最後の忠誠
シャルロットとベアトリスという、僕の人生においてかけがえのない二つの光が世界から完全に消え去った。
冷たい地下の制御室に響くのは、マザーAIの無機質な稼働音だけだ。
悲しみと絶望に心を押し潰されそうになりながらも、僕はギリッと唇から血が滲むほど歯を食いしばって立ち上がった。
ここで立ち止まって泣き崩れている暇などない。
教室にはまだ、リズとサクラが残っているのだ。
世界のシステムが歴史の修復という名目でバグの排除を続けるのなら、彼女たちにもすぐに魔の手が迫るはずだ。
「絶対に、もう誰も失わせない」
僕は左腕の天界の端末を起動したまま、螺旋階段を一気に駆け上がり、三年生の教室へと全速力で戻った。
「アレン殿!どうしたのだ、そんなに血相を変えて!」
息を切らして教室に飛び込んだ僕を見て、サクラが驚いたように駆け寄ってくる。
「アレン、どこに行ってたの?シャルロットって人は見つかった?」
リズも不思議そうに首を傾げている。
二人の姿がまだそこにあることを確認し、僕は安堵で膝から崩れ落ちそうになった。
しかし、猶予はない。
「二人とも、僕から絶対に離れないでくれ!今すぐここに、最高の結界を張る!」
僕は端末のインターフェースを空中に展開し、凄まじい速度でタイピングを開始した。
「【物理障壁アプリ】最大出力で起動、教室の周囲に絶対不可侵の結界を展開!」
「【電脳防壁プログラム】起動、ローカルネットワークを遮断し、マザーAIからのシステム干渉を完全にブロックしろ!」
僕の魔力が猛烈な勢いで消費され、教室の壁と窓が何重もの光のグリッドで覆い尽くされていく。
物理的な攻撃だけでなく、概念的なシステムからのアクセスすらも弾き返す、僕の持てるすべてを注ぎ込んだ最強のファイアウォールだ。
「アレン殿……一体、何と戦っておるのだ?貴殿の顔が、見たこともないほど恐怖に歪んでおるぞ」
サクラが心配そうに僕の顔を覗き込む。
彼女の黒曜石のような瞳には、僕を案じる深い愛情が宿っていた。
ヤマト国から海を渡り、僕を主君と定め、その剣と心をすべて僕に捧げてくれた誇り高き少女。
彼女の純粋な思いすらも、この世界はエラーとして排除しようとしている。
「サクラ、リズ。聞いてくれ。この世界は今、僕たちを……君たちを消し去ろうとしているんだ」
僕はタイピングの手を止めずに、震える声で二人に事実を告げた。
「消し去るって……誰が?魔族の残党はもういないはずでしょ?」
リズが剣の柄に手をかけ、周囲を鋭く警戒する。
「魔族じゃない。この世界を管理しているシステムそのものが、歴史を強制的に修復しようとしているんだ。僕が君たちを救い、幸せな未来を作ったことが、歴史上のバグだと判定されたんだ」
僕の言葉の意味を、二人がどこまで理解できたかは分からない。
しかし、僕の必死さと悲痛な表情から、事態の異常性は十分に伝わったはずだ。
「主君が某を救ってくれたことが、罪だというのか……!そのような理不尽、某の剣が断ち切ってみせる!」
サクラが刀を抜き放ち、見えない敵に向かって正眼に構える。
その凛とした横顔は、愛する者を守ろうとする武人の鑑だった。
だが、運命という名のシステムは、そんな彼女の誇りすらも嘲笑うかのように、無慈悲に牙を剥いた。
ジジジッ……!!
空間そのものが軋むようなノイズ音が教室に響き渡る。
「なっ……!?」
僕が構築した何重もの絶対防壁が、まるで薄い紙のように光の粒子となってポロポロと崩れ落ち始めたのだ。
『エラー。』
『上位次元からのアクセスを検知。』
『ローカル防壁が突破されました。イレギュラーな事象の削除を再開します。』
マザーの冷酷な音声が、僕の端末から直接鳴り響く。
「させない!アクセスを拒否しろ!防壁を再構築!」
僕が泣き叫ぶようにコマンドを入力した、その瞬間だった。
「あ……」
サクラの口から、小さく弱々しい声が漏れた。
構えていた彼女の刀がカランと音を立てて床に落ちる。
「サクラ!?」
僕が振り返ると、サクラの足元から腰にかけて、激しいノイズが走り、空間に溶け込むようにブレ始めていた。
「サクラちゃん!どうしたの、体が透けてるよ!」
リズが悲鳴を上げ、サクラに駆け寄ろうとする。
しかし、彼女の手はサクラの体をすり抜け、ただ空を切るだけだった。
「リズ殿……触れてはならぬ。これは、斬り結ぶことのできる敵ではないようだ」
サクラは自分の体が消えかけているという絶望的な状況にあって、驚くほど静かに、そして穏やかに微笑んだ。
彼女の心は、すでにこの理不尽な現象の正体を悟っていた。
「ダメだ、サクラ!消えちゃダメだ!僕が今、プロトコルを書き換えるから!絶対にお前を助けるから!」
僕は端末を操作しながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を彼女に向けた。
ヤマト国で一緒に食べたお米の味。
春休みに泥だらけになって笑い合った田植えの記憶。
これから一緒に最高の卵かけご飯を食べる約束はどうなるんだ。
「主君よ……泣かないでくれ」
サクラの体が、胸のあたりまでノイズに侵食されていく。
彼女の心の中に渦巻いているのは、死への恐怖ではなかった。
大好きな主君を、愛するアレンを、深い悲しみと孤独の中に置き去りにしてしまうことへの、胸が張り裂けるような申し訳なさだった。
(某は、ヤマトの武人として、アレン殿の背中を一生守り抜くと誓ったのに……)
サクラの瞳から、一筋の美しい涙がこぼれ落ちる。
彼女は消えゆく両腕を必死に持ち上げ、僕の頬を包み込むような仕草をした。
物理的な感触はない。
しかし、彼女の魂の温もりが、僕の肌を優しく、愛おしく撫でていくのがはっきりと分かった。
「アレン殿。貴殿に救われ、貴殿と共に歩んだ日々は、某の人生における最高の誇りであった」
サクラの声は、ノイズに混じって途切れ途切れになりながらも、揺るぎない忠誠と愛情に満ちていた。
「某はここで散るが……心は、魂は、永遠に貴殿の剣として共にある」
彼女は僕から視線を移し、隣で呆然と立ち尽くすリズを見つめた。
「リズ殿……。某の愛する主君を、どうか、どうか頼む。某の分まで、この不器用で優しい人を守り抜いてくれ」
サクラの言葉に、リズはハッと我に返り、大粒の涙を流しながら何度も何度も頷いた。
「うん……!わかった、約束する!サクラちゃんの分まで、私が絶対にアレンを守るから!」
その力強い返事を聞いて、サクラは本当に嬉しそうに、花が綻ぶような極上の笑顔を見せた。
「ありがとう……。アレン殿、愛しておるぞ」
ヤマトの撫子が残した最後の言葉。
それは、武人としての忠誠ではなく、一人の恋する乙女としての、純粋で真っ直ぐな愛の告白だった。
そして、サクラの姿は無数の淡い光の粒子となり、春の陽射しの中へふわりと溶けて消え去った。
「サクラぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
僕は誰もいなくなった空間に向かって手を伸ばし、喉が裂けるほどの悲痛な叫びを上げた。
シャルロット、ベアトリス、そしてサクラ。
僕の愛した三人の乙女たちが、運命という見えないシステムによって無残に消去されてしまった。
僕はその場に四つん這いになり、床に崩れ落ちて号泣した。
無力だ。
チート能力を持っていようが、正規管理者になろうが、結局僕は誰も守ることができなかった。
「アレン……」
僕の背中に、温かい手がそっと添えられた。
振り返ると、そこには涙で頬を濡らしながらも、瞳の奥に烈火の如き強い光を宿したリズが立っていた。
「泣かないで、アレン」
リズは僕の隣に膝をつき、僕の頭を力強く、そして優しく抱きしめた。
「私がいる。前世からずっと一緒にいた私が、アレンのそばにいるよ」
リズの温もりが、僕の凍りついた心に少しだけ熱を取り戻させる。
彼女は僕を抱きしめたまま、床に落ちていた自分の長剣を拾い上げ、チャキリと音を立てて鞘から抜いた。
その剣先を、誰もいない教室の空間、すなわちこの世界を支配する見えない運命の強制力へと向けて真っ直ぐに構える。
「世界がアレンをいじめるなら、私が世界をぶっ飛ばす。サクラちゃんとも約束したからね」
リズの黄金の闘気が、悲しみと怒りを養分にして、かつてないほどの激しい光を放ち始めた。
仲間が次々と消えていく圧倒的な恐怖と絶望の淵にあって、僕の幼馴染は決して折れることなく、前を向いていた。
「私が、アレンを守る」
残された最後の剣聖の誓い。
それは、運命という絶対的な敵に対する、僕たちのたった一つの、そして最も強く美しい反逆の狼煙だった。




