01-06-07 衛七 孔伋
戦国時代に入ると、孔子の孫である公伋が衛に仕えていたことがあった。公伋は衛公に対し「苟変」を将軍にすべきと進言。すると衛公は苟変が昔ひとりに対してふたつの卵を割り当てさせたことを理由に却下した。
「そのような些細な違反を理由に、彼の将才を埋もれさせるのですか?」
そう孔伋は言いつのるが、衛公どころか配下達も苟変の登用を渋る有様だった。
なので孔伋は言う。
「ここからこの国は混迷に向かうだろう。君主が国を運営するのに、その過ちを臣下が諫めない。臣下の過ちを士庶が正そうとすることもない。これでは詩経正月の言う具曰予聖、誰知烏之雌雄そのものではないか! カラスの雌雄も見分けられぬ者どもに聖人とあがめ奉られてどうしようというのか!」
周から分かれた諸侯のうち衛が最後まで残ったのだが、秦が天下統一をなした後、「二世皇帝」が最後の君主「姫角」を庶人に落とし、衛国の祭祀を滅ぼした。
※一点補足。公伋の話は史記には見えません。どこにあるかというと、「孔叢子」。儒家のサブテキスト的な位置づけのものです。「資治通鑑」が孔叢子の「居衛」編「抗志」編に見える2エピソードを接続させて新エピソードをぶち上げており、そして十八史略もそれに倣った、と言う来歴になっています。司馬光、ひいては曽先之が「あえてねじ込んだ」所に、間違いなく彼らの思想が伺えると言えるでしょう。
蒙求:
孔伋緼袍 祭遵布被
やはり孔伋が衛にいた頃、貧乏暮らしをしていた。それを見かねた金持ちが「どうせ捨てるようなものだから」と着物を送ったが、拒否。「ゴミ箱のような扱いされるなら貰わない方がマシだから」とのことだ。
一方の祭遵は後漢光武帝の配下、いわゆる雲台二十八将。挙げる功績は抜群だったが、報賞はすべて配下に与え、自らは質素な暮らしを貫いた。
贅沢暮らしをよしとせぬ、ふたりの偉人を結びつけている。




