01-06-02 魯 歴代公
隱公の弟が「桓公」となり、その子が「莊公」となる。
莊公には弟が三人いた。この三人の子孫が「孟孫氏」「叔孫氏」「季孫氏」として魯の宰相を司ることとなる。
そこから代は「子班」「閔公」「僖公」「文公」「宣公」「成公」「襄公」「昭公」と移っていく。ここで昭公が季孫氏を征伐しようとしたところ、却って三孫氏連合からの反撃を受け、「乾」の国に逃亡。逃亡先で没した。
弟の「定公」が立った。この頃「孔子」が中都という町の長官となった。就任後一年で周辺地域を帰服させたため、その功績から司空、大司寇と昇進した。
この頃隣国の斉との間で領土紛争があった。その調停のため定公と「斉の景侯」が会談することになる。孔子の取り仕切りにより、「鄆」「汶陽」「龜陰」の返却が決定した。
また孔子は中央で幅をきかせていた三孫氏の権限の削減にも成功。代わって宰相として任じられ、就任七日目にして政を乱していた「少正卯」を処刑。三ヶ月も経てば魯は大いに治まるようになった
これを聞いて脅威に思ったのが、斉だ。そこで女性ばかりの楽士を「季桓子」にプレゼントした。その楽団で定公を享楽に溺れさせ、政や祭祀を疎かにさせた。この有様を見て孔子は魯を去った。三孫氏の権勢も復活した。
定公が死ぬと「哀公」が立つ。かれは南国の越の力を借りて三孫氏を討とうとしたが失敗。「悼公」「元公」を経て「繆公」に至った。孔子の孫「孔伋」が賢人であったため登用を志したが、これも失敗。
更に代が「共公」「康公」を経て「平公」に。こんどは「孟子」を採用したがったが、やはり失敗。「文公」ののち「頃公」の代となり、楚の「考烈王」によって滅ぼされた。
蒙求:
陵母伏劒 軻親斷機
劉邦の配下将、王陵の母親が項羽に囚われた! 人質として交渉しようとする項羽であったが、辱めに遭うくらいならば、と、王陵の母はみずから剣の上に身を投げ、死んだ。
孟子の本名は孟軻。その母は教育熱心であり、孟子の教育環境改善のために二度の引っ越しをした。それほどの熱の入れようなのに、息子に進捗を聞くと「まぁまぁかな」などとほざく。なのでママ氏、いきなり自らの機織り機をぶち壊し「お前の学が断たれるのは、私の機織り機が壊れるのと同じなのよ!」と絶叫。よくわかんないけど迫力に負けた孟子、それからは学業に打ち込んだそうな。
息子のために異常なまでの迫力を示すママ氏お二方がノミネートでございます。
孟軻養素 揚雄草玄
孟子は士官を志したけどことごとく失敗した。そんな孟子が著書に「我善養吾浩然之気」、素朴ではつらつとしたエネルギーを養ってるよ、と語った。
一方の揚雄は前漢末の人。当時の貴顕にもおもねることなく、儒教華やかなりしころ道家の教えを貫き、太玄経を起草した。
時流にうかつに乗らず、己が学問を貫いたふたりだ。




