01-06-01 魯 周公旦・伯禽
「魯」。
周公旦が封じられるも、周公旦は都に留まって幼い成王の教育に携わった。魯の運営は息子の「伯禽」に一任した。
ちなみに成王の教育に当たり、王に過ちがあると伯禽を鞭打ったという。
伯禽が魯に向かう時、周公旦は言う。
「私はこれまで周の尊き血を引く者として政務に携わってきた。人材を得るため、ひとたび髪の毛を洗う間にも三度応対に出、一食の間に三度口の中のものを吐き出し、応対に出た。それでもなお賢人を取りこぼしたのではないかと恐れている。あなたも魯にて慎み、驕ることのないように」
周公旦は斉に封じられた太公望とともに、魯と斉の政務を比較して言っている。いわく、斉の政務は簡潔、魯の政務は煩瑣。これではいつか魯が斉に遅れを取ることになるであろう、と。一方で斉の「賢人の功労を尊ぶ」スタンスにより、いつか臣下が君主を殺すものがでるだろう、と予言した。
太公望が魯のスタンスを聞いてくる。周公旦は「賢人を重んじこそするが、親族関係を重んじる」と答えた。太公望は「それでは国運は次第に衰微しましょう」と答えた。
伯禽から数えること十三代。前 722 年の隠公就任から、魯の歴史書「春秋」の記述は始まる。
蒙求:
周公握髮 蔡邕倒屣
『韓詩外伝』に、周公旦は来客があれば、例え洗髪中でも髪を握ったまま応対に出たと書かれている。それだけ人材を逃したくなかったのだ、と。
一方の蔡邕は後漢末の文人トップオブトップ。そんな蔡邕がたくさんの人の訪問をさばく中、幼少ながらすでに抜きん出た文才を放っていた「王粲」の訪問に気付き、下駄を踏み外しながらも駆け寄り、その才を激賞した、と言うもの。王粲は後に曹操曹丕の元で建安文学を花開かせる「建安七子」の一人として讃えられる。
得難い人材のためになりふり構わぬ二人、という感じですね。




