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訳だけ! 十八史略+蒙求  作者: ヘツポツ斎
01-06 魯(孔子老子)・衛・鄭・陳

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01-06-03 魯五 孔子上

 孔子《こうし》について語っておこう。

 名は丘《きゅう》、字は仲尼《ちゅうじ》。元々は宋《そう》の家門である。

 宋にいた「正考父《せいこうほ》」というものが慎み深く宋公に仕えていた。宋公より三度に渡り直接の昇進命令があったが、それを受けるたびに謙譲ぶりが増したという。日頃使っている食器に「平身低頭を心掛けよ、この食器で職を得るのみで十分なのだ」と刻んでいた。

 宋の孔氏は滅んだが、その子孫が魯《ろ》に移り住んだ。「叔梁紇《しゅくりょうこつ》」が顔《がん》氏の娘を嫁に迎え、孔子を産んだ。幼い頃から礼祭にまつわるまねごとを遊びとした。やがて季孫《きそん》氏の穀物庫管理人、家畜管理人として大きく功績を挙げた。

 周《しゅう》に赴いて「老子《ろうし》」より礼を学び、帰還した頃から弟子がつき始めた。斉《せい》の景公《けいこう》は魯で言う季孫氏と孟孫《もうそん》氏との間ほどの待遇で孔子を召し抱えようとしたが、果たせなかった。孔子は魯に帰還。定公《じょうこう》のもとで大司寇にまで出世する。


 定公と齊景侯との間で紛争調停の会談が開かれるに際し、孔子は定公に兵力も動員するよう進言。実際に会談になってみれば、宴と称して斉が定公を捕縛しようと目論んできた。

 孔子が進み出る。

「両国のよしみを結ぼうという場で卑俗な楽を掛けるとは何事か!」

 そう言って楽士を追い出し、或いは首を刎ねさせる。裏で糸を引いていた景侯は孔子を恐れ、過日の戦争で魯より奪っていた「鄆《うん》」「汶陽《もんよう》」「龜陰《きいん》」の返却を約束した。


 その後も孔子は魯の国政のために働いたのだが、斉の謀略によって定公が政を顧みなくなったことに絶望、魯を脱出した。



蒙求《もうぎゅう》:

嵇呂命駕《けいりょめいが》 程孔傾蓋《ていこうけいがい》

 魏晋交代期の名士、嵇康《けいこう》と呂安《りょあん》はお互い遠いところに住んでいたが、しょっちゅう駕に命じて遠路はるばる会っていた。

 また孔子も、「郯《たん》」と言う地で出会った賢人の「程子《ていし》」と意気投合して、車を止めて蓋、つまり屋根を傾けて話し込んだ。

 意気投合する二組の賢人ペアの、車にまつわるエピソードを引き合わせた感じだ。

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