↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
訳だけ! 十八史略+蒙求  作者: ヘツポツ斎
02-07 前漢の黄昏

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
179/600

02-07-07 漢五 平帝・孺子嬰

「平帝《へいてい》」、名は劉衎《りゅうかん》。中山《ちゅうざん》王「劉興《りゅうこう》」の子、元帝《げんてい》の孫だ。哀帝《あいてい》が死ぬと後継者とされたが、王《おう》皇太后と王莽《おうもう》に実権は握られ、百官はみな王皇太后らのほうを向いていた。西暦 1 年に王莽を安漢《あんかん》公とした。


 4 年、王莽の娘を皇后に迎えた。王莽の官位があらゆる侯王より上となった。


 5 年、「孔光《こうこう》」が死亡した。三公でありながら王莽にこびへつらい、漢の災いを拡大した。王莽を讃える上書が四十八万人ぶんにものぼった。王莽に九錫《きゅうしゃく》が加えられた。

 同年末の祭において、王莽は平帝の飲む酒に毒を入れ、殺した。在位は六年。


 王皇太后は宣帝《せんてい》の玄孫である「劉嬰《りゅうえい》」を皇太子とした。王莽は宰相の地位であるまま玉座につき、仮皇帝と自称した。民や臣下は宰相皇帝と呼んだ。「劉崇《りゅうすう》」が決起したが、敗死した。


 6 年、翟方進《てきほうしん》の息子「翟義《てきぎ》」も決起したが、やはり敗死した。


 8 年、ついに王莽は簒奪をなし、国号を新《しん》とした。漢の太皇太后を新室文母太皇太后と改めた。



蒙求《もうぎゅう》:

石慶数馬《せきけいすうば》 孔光温樹《こうこうおんじゅ》

 前漢《ぜんかん》武帝に仕えた石慶《せきけい》は父や兄たちとともに歴代皇帝よりの覚えめでたく、みな高官につけられていた。武帝《ぶてい》の乗る六頭引きの馬車の御者をしているとき、武帝から「何頭の馬が引いているのだ?」と聞かれ、きっちり一頭一頭を数えた上で報告。一門の中でもっとも大雑把と言われていた石慶ですらこれだけ恭しく皇帝に仕えていたという。

 前漢末に宰相となった孔光は非常に口の硬い人だった。家族にすらまともに仕事についての話もせず、宮殿の一つ温室殿にどんな木が生えているのかを聞かれても答えずに他の話でごまかすほどだったという。

 皇帝に対して恭しさを貫き通した人たち。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。