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訳だけ! 十八史略+蒙求  作者: ヘツポツ斎
02巻 秦 1 始皇帝

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02-01-10 秦一 項梁・項羽

 項燕《こうえん》の息子「項梁《こうりょう》」は、かつて人を殺し、仇討ちから逃れるため甥の「項羽《こうう》」とともに吳《ご》に逃れていた。


 項羽は子どもの頃書や剣を学んだがどれもまともにこなせないでいた。項梁が怒ったところ、こう返してくる。

「書は名前が書ければ良い。剣は一人と戦うことしかできない。万の敵と渡り合えるようなことを学びたい」

 そこで項梁は項羽に兵法を教えた。


 陳勝呉広の乱が激化していた頃、会稽《かいけい》の長官「殷通《いんつう》」が陳勝に呼応したいと言い出してくる。なので項梁は項羽を遣わせて殷通を殺害、その印綬を奪い取り、対陳勝の軍を立ち上げる。軍はあっという間に八千人規模となり、項羽はその中の一部隊長となった。時に項羽、二十四歳。


 当時七十才となっていた「范增《はんぞう》」は軍略を好んだ。項梁の元に赴き、言う。

「陳勝が不首尾に終わったのは、楚を名乗りながらも楚王を立てなかったゆえ。今楚の人々はあなた様が王を立てると信じているからついてきているのです」

 そこで頃梁は楚の懐王《かいおう》の子「熊心《ゆうしん》」を探し出して擁立。さらなる民望を得るに至った。


 項梁は章邯《しょうかん》との戦いのさなか、死亡。戦いの前には「宋義《そうぎ》」がその敗死を予言していた。秦《しん》が趙《ちょう》に攻撃を仕掛けると、懐王は宋義を上将、項羽を次将に任じ救援させようとした。

 このとき宋義が驕り高ぶっていたので、項羽は宋義を斬り、その兵を吸収した。そのまま秦軍と激突、大破した。これが「鉅鹿《きょろく》の戦い」である。この戦いで王翦《おうせん》の孫、王賁《おうほん》の子である「王離《おうり》」らを捕らえ、また章邯らが降伏してきた。この戦いで項羽は諸侯の上位に立つ将軍となった。

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