02-01-05 秦一 始皇帝 中
前 216 年、韓人の「張良」の先祖は五代にわたって韓の宰相であった。そこで復讐を志し、始皇帝が東に巡遊するところを狙うことにした。始皇帝一行が博浪沙にさしかかったところで力士に鉄の杭を始皇帝めがけて投擲させる。杭は始皇帝の隣の車に命中。始皇帝はこの暗殺に驚き捜索させたが、犯人は見つからずじまいであった。
前 215 年、年末の祭を周の時代の呼び名「臘」から殷の時代の呼び名「嘉平」に戻した。
前 214 年、始皇帝は北の地をめぐって回った。方士の「盧生」が海より帰還し、預言書を献上。そこには「秦を滅ぼす者は胡である」とあった。そこで始皇帝は「蒙恬」に三十万の軍をあずけ派兵、匈奴を討伐させ、「臨洮」から「遼東」に至る一万里あまりの長城を建設させる。匈奴は秦に大いに脅威を覚えた。
前 213 年、李斯がいわゆる「焚書」を実施すべく上奏。現代を学ぶための学問のみを残し、過去の学問はみな破棄せよ、従わぬものは見せしめに殺せ、がその大要である。この法令が実施されると、翌年に「侯生」「盧生」が始皇帝を批判し、逃亡。始皇帝は激怒し、咸陽じゅうの儒者全体に怒りを拡大させ、都合 464 名の儒者を穴埋めとした。この振る舞いを始皇帝の長子「扶蘇」が諫めるも、却って始皇帝の怒りを買い、蒙恬の元に飛ばしてしまった。
蒙求:
蒙恬製筆 蔡倫造紙
秦の将軍蒙恬が筆を開発した、と言うことになっているらしいのだが、いやどう考えてもそれ以前にもあっただろとツッコミも入っている。「ただまぁその呼称が定まってなくて、蒙恬の時にようやく呼び名が統一されたとかなのかもね」とは言われている。
後漢和帝の時代に仕えていた宦官の蔡倫、竹帛は重いわ布帛はコストがかさむわで、もうちょっと記録媒体どうにかならんのかいと考えたそうである。そこでいろいろ工夫して紙を開発した。
文房具を開発した二人。




