偏屈賢者(後編)
研究小屋は、それから数日間、毎日のようにアルフレッドが通うようになった。
授業が終われば王都を出て森へ向かい、日が暮れるまで議論を重ねる。
最初の数日は実験らしい実験すら行わなかった。
机を挟み、ひたすら問いを投げ合うだけだった。
「魔素とは何だ。」
「術式はなぜ命令を伝えられる。」
「魔経絡は生体器官なのか、それとも魔素を制御するための器官なのか。」
「属性とは魔素そのものの性質なのか、それとも術式によって与えられる状態なのか。」
一つの問いに答えが出れば、新たな疑問が生まれる。
老人は決して自分の考えを押し付けなかった。
「どう思う。」
必ず最初にそう尋ねる。アルフレッドが答える。
老人はさらに質問を返す。
答えを教えるのではなく、自分で考えさせる。
それが老人の教え方だった。
ある日のことだった。
老人は紙に大きな円を描き、その中央へ一点を打った。
「これは何に見える。」
「魔導陣でしょうか。」
「違う。」
老人は笑う。
「ただの円だ。」
さらに紙へ線を一本加える。
「では今は?」
「……何かの図形です。」
「そうだ。」
老人は頷く。
「人は意味を与えた瞬間、見え方が変わる。」
今度は机の上へ魔石を置いた。
透き通った淡い青色の結晶だった。
「これは何だ。」
「魔石です。」
「では魔石とは何だ。」
アルフレッドは答える。
「魔素を蓄積する鉱物です。」
「それは結果だ。」
老人はすぐに返した。
「なぜ蓄積できる。」
「……。」
「なぜ石だけが。」「なぜ金属ではない。」
「魔素はどこへ保存される。」「保存とは何だ。」
アルフレッドは再び沈黙する。
これまで常識として受け入れてきた知識が、一つひとつ揺らいでいく。
老人は満足そうだった。
「良い。」「答えられないことを恥じる必要はない。」
「答えがないから研究するのだ。」
その言葉は、アルフレッドの肩の力を抜いた。
貴族院では、知らないことは恥とされた。
だが、この研究小屋では違う。
知らないことこそが研究の始まりだった。
その日の帰り際、老人は一冊の分厚いノートを机へ置いた。
革表紙には何も書かれていない。
「これは?」
「わしの研究日誌だ。」
アルフレッドは驚いて顔を上げた。
「見せていただけるのですか。」
「全部ではない。」
老人は笑う。
「読んで理解できる部分だけ読め。」
ページを開く。
そこには見慣れない言葉が並んでいた。
『重力』『電磁』『熱放射』『波』『粒子』
そのほとんどが意味不明だった。
しかし、それぞれの横には必ず赤い文字でこう書かれていた。
「この世界では未確認」
あるいは、
「魔素の影響により成立しない可能性あり」
さらに、
「要検証」
と。
アルフレッドはページをめくる手を止めた。
「……先生。」
「何だ。」
「これは理論書ではありません。」
「当然だ。」「仮説集だ。」
老人は平然と言う。
「証明できていないことばかり書いてある。」
「だから読む価値がある。」
アルフレッドは目を見開いた。
普通の学者なら、完成した理論しか残さない。
だが、この老人は違う。
失敗も、間違いも、思いつきも、すべて記録している。
未来の誰かが続きを研究できるように。
「学問は一代で完成せん。」
老人は静かに語る。
「わしが証明できなくても構わん。」
「百年後でも、千年後でも、誰かが続きをやればいい。」
「それが学問だ。」
アルフレッドは胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼はこれまで、自分一人で証明しなければ意味がないと思っていた。
だが違う。知識とは積み重ねるものなのだ。
一人で完成させるものではない。
老人は窓の外を眺める。
夕焼けに森が染まり、小鳥のさえずりが聞こえる。
「アルフレッド。」
「はい。」
「わしは発想を示せる。」
「だが、この世界の魔導はお前の方が詳しい。」
「術式も、魔素も、魔経絡も、わしより理解している。」
アルフレッドは首を横に振ろうとした。
しかし老人はそれを手で制した。
「事実だ。」「だから役割を決めよう。」
老人は机の上へ二本の羽ペンを置く。
「わしは問いを持ってくる。」
一本を自分の前へ。
「お前は、この世界の理論で答えを探せ。」
もう一本をアルフレッドの前へ。
「互いに一人では完成できん。」
「だから共同研究者だ。」
アルフレッドはゆっくりと羽ペンを手に取った。
その重みは、ただの道具とは思えなかった。
師弟としてではない。対等な研究者として認められた証だった。
「……よろしくお願いします。」
「こちらこそだ。」
二人は握手を交わす。
その日から研究日誌には、それまで一人分だった署名の欄が二つになった。
発想・エゼキエル
理論検証・アルフレッド
まだ「科導」という名は存在しない。
しかし後世の歴史家は、この日を「新たな学問が生まれた日」と位置付けることになる。




