偏屈賢者(中編)
アルフレッドは机の上に置かれた一枚の紙を見つめ続けていた。
「現象を疑え。常識を疑え。」
短い言葉だった。
しかし、その一文は彼がこれまで学んできた魔導学の在り方とは正反対だった。
貴族院で教えられるのは、先人が築いた理論を正確に理解し、より効率よく術式を組む方法である。
術式の精度を高めること。魔力消費を減らすこと。発動速度を上げること。
そうした改良こそが研究とされていた。
根本原理そのものを疑う者はほとんどいない。
老人はアルフレッドの表情を見て満足そうに頷いた。
「良い顔だ。」
「え?」
「今のお前は知識を覚える学生ではない。」
「知らないことを知ろうとしている研究者の顔をしている。」
アルフレッドは少し照れくさそうに咳払いをした。
「ですが、一つ疑問があります。」
「言ってみろ。」
「先生はアメリカ……地球では科学者だったのですよね。」
「そうだ。」
「それほど多くの知識をお持ちなら、この世界でも誰も思いつかなかった技術を次々と生み出せたのではありませんか。」
老人は苦笑した。
「その質問は、この世界へ来て百回以上聞かれた。」
机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出す。そこには複雑な図が描かれていた。
円と線が幾重にも重なり、その間に細かな文字がびっしりと書き込まれている。
「これは火魔導の基本術式だ。」
「ええ。」
「では、この一番外側の環が何をしているか説明できるか。」
アルフレッドは迷わず答えた。
「周囲の魔素を捕捉し、術式へ供給するための循環制御です。」
「正解。」
老人はさらに中央を指差した。
「ここは?」
「魔力を魔素へ変換する位相調整。」
「その内側は?」
「燃焼維持。」
「その中心は?」
「着火核です。」
老人は静かに紙を畳んだ。
「これが答えだ。」
「……?」
「わしには最初、この術式が一文字も理解できなかった。」
アルフレッドは目を見開いた。
「魔導はこの世界だけの学問だ。」
「だから科学者だったわしには、基礎知識がなかった。」
「火は知っている。熱も知っている。燃焼も知っている。」
「だが、魔素とは何かが分からない。魔力場とは何かも知らない。」
「それでは術式を作れない。」
「わしは全属性の魔導が使える。だが使えるだけだ。」
「魔導を完全に理解することはできなかった。上級魔導は一切使えん。魔導士としては中途半端じゃ。」
アルフレッドは静かに頷いた。
逆の立場なら自分も同じだ。
どれほど魔導理論を知っていても、地球で科学で再現しろと言われてもできないだろう。
「つまり。」
老人は続けた。
「わしには発想しかない。」
「『こんな現象がある』とは教えられる。」
「だが、この世界でどう実現するかは分からない。」
アルフレッドは机に広げられた術式を見つめる。
その意味が、ようやく腑に落ちた。
老人の知識は答えではない。
問いを生み出す知識なのだ。
そして、その問いに答える役目は――。
「私ですか。」
老人は満足そうに笑った。
「ようやく気付いたか。」
アルフレッドは胸が熱くなるのを感じた。
これまで自分の知識は役に立たないと思っていた。
魔導を使えない以上、理論だけでは何も生み出せないと。
だが違う。
老人の知識と、自分の知識。
どちらも単独では不完全だ。
しかし組み合わせれば、新しい何かが生まれるかもしれない。
「一つ試してみよう。」
老人は窓を開けた。
外には一本の枯れ木が立っている。
老人は右手を軽く掲げた。
魔力が流れる。
空気中の魔素が集まり、小さな火球が生まれた。
ごく基本的な火魔導だった。
炎はゆっくりと枯れ枝を燃やす。
「見えるか。」
「はい。」
「これは何が起きている。」
アルフレッドは即答する。
「火魔導です。」
「違う。」
「……え?」
「それは名前だ。」
老人は真顔だった。
「わしが聞きたいのは現象だ。」
アルフレッドは炎を見つめる。
赤い炎。揺らめく空気。枝が黒く焦げていく。
「燃焼……でしょうか。」
「そう思う理由は?」
「炎だからです。」
「炎とは何だ?」
アルフレッドは黙り込んだ。
老人は畳みかける。
「本当に木が燃えているだけなのか。」
「魔素は何をしている。」
「術式はどこまで関与している。」
「魔力供給が止まった瞬間、なぜ炎はすぐ消える。」
「燃え続ける火と何が違う。」
次々と投げかけられる問い。
アルフレッドは答えられなかった。
いや、考えたことすらなかった。
老人は火球を消す。
「これが研究だ。」「答えを覚えることではない。」
「答えのない問いを見つけることだ。」
アルフレッドは胸の奥が震えるのを感じていた。
この世界では誰も疑わなかった当たり前。
それを一つずつ解き明かす。
そんな学問が本当に存在するのだ。
そして、その瞬間。
アルフレッドは、自分が初めて「魔導を学びたい」と思った日のことを思い出していた。
魔導を使いたかったのではない。
魔導とは何なのかを知りたかった。
その初心を、老人は思い出させてくれたのである。




