偏屈賢者(前編)
翌朝。
貴族院での講義を終えたアルフレッドは、書物を鞄へ詰め込むと足早に教室を後にした。
向かう先は貴族院の北西、森林地区。しばらく歩くと、一軒の石造りの家が姿を現した。
壁は風雨にさらされて黒ずみ、屋根には苔が生えている。
だが、家の周囲だけは妙に整然としていた。
薬草畑、観測用の柱、風向きを測る羽根車、魔素濃度を測定する水晶柱。
どれも実験のために設置されたものらしい。
アルフレッドは思わず立ち止まる。
「……研究所だ。」
魔導士の工房ではない。
貴族の研究室でもない。
まるで自然そのものを観察するためだけに作られた施設だった。
玄関の扉は半開きになっている。
「入れ。」
中から老人の声が聞こえた。
扉を開けると、室内は本と紙で埋め尽くされていた。
壁一面に本棚が並び、その隙間には魔導陣の図面、地図、植物のスケッチ、魔物の解剖図が無数に貼られている。
中央には大きな作業机。
机の上には分解された魔導具や、見たこともない器具が散乱していた。
「驚いたか。」
「……はい。」
アルフレッドは素直に答えた。
「魔導研究室というより……。」
「何だ?」
「自然学の研究所のようです。」
老人は満足そうに頷いた。
「その感想だけで十分だ。」
普通の魔導士なら、術式の刻まれた魔石や魔導書ばかりを見る。
しかしアルフレッドは観測器具へ最初に目を向けた。
それだけで老人は、この青年が本物の研究者だと確信した。
「座れ。」
二人は向かい合って腰を下ろす。
老人は棚から古びた木箱を持ってきた。
中には奇妙な品々が入っていた。透明な板。薄い金属の円盤。歯車。ばね。
そして紙に描かれた、見たこともない図面。
「これは……?」
「アメリカ……いや、地球で使われていた道具の絵だ。」
「アメリカ?地球?」
「昨日話した、魔導のない世界だ。」
アルフレッドは一枚ずつ図面を眺める。
車輪が四つ付いた箱。巨大な塔から伸びる線。羽のない鉄の鳥。
どれも理解できない。
「信じられないでしょう。」
「当然だ。」
老人は笑う。
「わしも最初は信じられなかった。」
「最初?」
「こちらへ来た当時だ。」
アルフレッドは老人を見る。
「やはり……。」
「ああ。」
老人は静かに頷いた。
「わしは転移者だ。」
部屋に沈黙が流れた。
転移者。神話では語られる存在だが、学問の世界では証明不能として扱われている。
アルフレッドはすぐには返事をしなかった。
否定も肯定もしない。
老人の話を聞こうと決めた。
「前の世界、アメリカは国じゃな。地球では。わしは科学者だった。」
「科学者?」
「自然の法則を調べる学者だ。」
老人は一本の鉛筆を持ち上げる。
「これは落とせば地面へ落ちる。」
手を離す。
鉛筆は床へ落ちた。
「当たり前です。」
「では、なぜ落ちる?」
「……。」
アルフレッドは答えに詰まる。
考えたこともなかった。
「皆、『そういうものだから』で終わる。」
老人は鉛筆を拾う。
「だが向こうでは違った。」
「なぜ落ちるのか。」「なぜ火は燃えるのか。」「なぜ水は流れるのか。」
「そうした問いを何百年も積み重ねてきた。」
アルフレッドは静かに聞いている。
「その学問を科学と呼ぶ。」
「ですが、その知識をこちらでも使えるのでは?」
老人は首を横に振った。
「そこが問題なのだ。」
机の上に火魔導の術式を書いた紙を広げる。
「こちらの世界には魔素がある。」
「魔力もある。」「魔経絡もある。」
「向こうには一つも存在しなかった。」
アルフレッドは頷く。
確かに、それだけで前提が違う。
「例えば、地球では水を電気という力で分解できた。」
「電気?」
「細かい説明は後だ。」
「だが、その方法を知っていても、この世界では同じ現象を起こせない。」
「魔素が干渉するからですか。」
「その通り。」
老人は満足そうに微笑む。
「世界の法則が違う。」「だから知識だけでは再現できない。」
アルフレッドは次第に老人の言いたいことが分かってきた。
前世の知識は答えではない。
あくまで「こんな現象がある」という手がかりなのだ。
それをこの世界でどう実現するかは、別問題である。
老人は机に一枚の紙を置いた。
そこには大きく一文だけ書かれていた。
> 「現象を疑え。常識を疑え。」
「これは地球で学んだ、わしの恩師の言葉だ。」
アルフレッドはその文字をじっと見つめた。
これまで魔導学で教えられてきたのは、「先人の理論を学べ」だった。
だが、この言葉は正反対だった。
常識そのものを疑え、と言っている。
彼の胸は高鳴っていた。




