出来損ないの公爵令息(後)
「面白い。」
たった四文字だった。
だが、その言葉はアルフレッドの胸に深く響いた。
これまで彼の論文を読んだ教授たちは決まって同じことを言った。
「実用性がない。」
「魔導を使えない者の空論だ。」
「実験結果が伴っていない。」
否定されることには慣れていた。
魔導を一つも発動できない以上、理論だけでは誰も評価しない。
それがこの世界の常識だった。
しかし目の前の老人は違う。
論文を一枚読むだけで、内容そのものを評価した。
実験の有無でも、家柄でも、魔力でもない。純粋に「理論」として。
アルフレッドは静かに尋ねた。
「……どこが面白いのでしょう。」
老人――エゼキエルは論文を机へ置く。
「お前は魔導を現象ではなく、仕組みとして見ている。」
「仕組み……ですか。」
「普通の学者は『火球が飛んだ』『氷ができた』で終わる。」
「だが、お前は『なぜ火球が維持されるのか』『なぜ術式が崩れても一瞬だけ残るのか』を考えている。」
老人は紙へ円を描いた。
「多くの者は結果だけを見る。」
次に歯車を描く。
「研究者は過程を見る。」
さらに複雑な線を書き加える。
「本物の学者は構造を見る。」
アルフレッドは無意識に頷いていた。それこそが自分の考え方だった。
魔導とは何か。術式とは何か。魔素はなぜ命令に従うのか。
そうした問いを積み重ね続けた十七年間だった。
「お前には才能がある。」
その言葉にアルフレッドは苦笑した。
「初めて言われました。」
「そうか。」
「私が聞いてきたのは『魔力がない』『出来損ない』『役立たず』ばかりです。」
老人は静かに窓の外を眺めた。
「世の中は結果しか見ん。」
夕焼けが図書塔へ差し込む。
赤い光の中で老人はゆっくり口を開いた。
「わしは昔、別の世界で学問をしていた。」
アルフレッドは首を傾げる。
「別の世界?」
「ああ。」
老人は小さく笑った。
「夢物語だと思って聞け。」
「そこには魔導はなかった。」
「え?」
「火を起こす魔導も、水を出す魔導もない。」
「では、どうやって生活を?」
「考えた。」
「考える?」
「どうすれば火を起こせるか。」
「どうすれば遠くまで荷物を運べるか。」
「どうすれば夜を明るくできるか。」
「何百年も考え続けた。」
アルフレッドは信じられなかった。
魔導なしで文明が成立するなど想像もできない。
「便利な力がないからこそ、人は理屈を積み重ねた。」
老人は机を軽く叩く。
「一人ではない。」
「何世代にもわたり、数え切れない研究者が知識を受け継ぎ、間違え、修正し、さらに次へ渡した。」
「そうして学問が育った。」
アルフレッドはその言葉に強く惹かれた。
まるで壮大な歴史を聞いているようだった。
「こちらの世界には魔導がある。」
「だから、その学問をそのまま持ち込んでも意味はない。」
老人は首を振る。
「世界の法則そのものが違う。」
「魔素も魔力も向こうには存在しなかった。」
「ならば再現できない。」
「その通り。」
老人は笑った。
「わしは現象を知っている。」
「だが、この世界でどう実現するかは分からん。」
アルフレッドの目が輝き始める。
「つまり……。」
「発想だけだ。」
老人は指を一本立てる。
「……発想だけ?」
アルフレッドは思わず聞き返した。
老人は頷く。
「細かい理屈は今は置いておけ。」
「向こうでは、それを証明した。」
「だが、この世界の火魔導が同じ仕組みとは限らない。」
「だから調べる必要がある。」
アルフレッドの頭の中で、様々な仮説が浮かび始める。
火魔導は本当に燃焼なのか。魔素は炎を維持しているだけなのか。それとも全く別の現象なのか。
もし調べれば――。
「……面白い。」
思わず口から漏れた。
老人はにやりと笑う。
「そうだろう。」
アルフレッドは久しく感じたことのない高揚を覚えていた。
これまで魔導学は「こういうものだ」と教えられるだけだった。
しかし、この老人は違う。
「本当にそうなのか?」
そこから始める。
未知を疑い、観察し、仮説を立て、検証する。
そんな学問を語る者に初めて出会った。
老人は椅子から立ち上がる。
「坊主。」
「はい。」
「明日から時間はあるか。」
「授業の後なら。」
「なら来い。」
「どこへ?」
老人は図書塔の窓から王都の外れを指差した。
森の向こう、小さな丘の上。
夕日に照らされ、一軒の古びた石造りの家が見えた。
「あそこが、わしの研究小屋だ。」
「研究小屋……。」
「古い実験設備なら一通り残っておる。」
老人は少し照れくさそうに笑う。
「何十年も一人で研究してきた。」
「だが、そろそろ助手が欲しくなった。」
アルフレッドは即座に首を振った。
「助手ではありません。」
「ほう?」
「私は学びます。」
「ですが、ただ教わるだけでは終わりません。」
「あなたの発想を、この世界の理論として完成させてみせます。」
一瞬、老人は目を丸くした。
そして次の瞬間、大声で笑った。
「はっはっは!」「いい。」「実にいい。」
「その意気だ。」
老人は右手を差し出した。
「では改めて。」
「エゼキエル。」
「ただの偏屈な老人だ。」
アルフレッドも右手を差し出す。
「アルフレッド・フォン・アルヴェイン。」
「出来損ないの魔導士です。」
二人の手が固く握られた。
この日交わされた握手は、後に世界の歴史書で「科導学誕生の第一歩」と記されることになる。
もっとも、このときの二人は、そんな未来など知る由もなかった。
彼らが求めていたのは名誉ではない。
ただ一つ。
『世界の仕組みを知りたい』
その純粋な知的好奇心だけが、二人を結びつけたのである。




