出来損ないの公爵令息(中)
老人はゆっくりと椅子から立ち上がった。
見た目はどこにでもいる老人にしか見えない。
だが、その動きには無駄がなく、長年研究に没頭してきた者だけが持つ独特の落ち着きがあった。
「その本を貸してみろ。」
アルフレッドは本を差し出した。
老人は数頁をめくると、ふっと鼻で笑う。
「やはり間違っておる。」
「……何がでしょうか。」
「今の学会が訳した古代語だ。」
老人は一節を指差した。
「この単語を『循環』と訳しておるが、本来は『共鳴』に近い意味だ。」
アルフレッドは眉をひそめた。
「ですが、その訳では前後の文章が成立しません。」
「今の理論に合わせようとするから成立せんのだ。」
老人は机に本を広げ、紙を引き寄せる。
「ここを見ろ。」
さらさらと古代文字を書き写していく。
「この語尾は受動ではない。状態変化を示している。」
「……そんな文法は。」
「存在した。」
老人は即答した。
「後の時代に失われただけだ。」
アルフレッドは思わず身を乗り出した。その解釈なら、これまで意味不明だった一文が繋がる。
彼は急いで別の文献を取り出し、照合を始めた。
一冊。二冊。三冊。すべて読み返す。
やがて彼は息を呑んだ。
「確かに……。」
古代文献に残る複数の記述が、一つの理論で説明できる。
これまで誤訳だと思われていた箇所も矛盾なく読める。
「驚いたか。」
「ええ……ですが、どうしてそんなことをご存じなのですか。」
老人は肩をすくめた。
「昔、少し研究しておっただけだ。」
それ以上は語らない。
アルフレッドも深くは聞かなかった。
目の前の知識の方が遥かに興味深かったからだ。
老人は本を閉じる。
「坊主。」
「はい。」
「名前は。」
「アルフレッド・フォン・アルヴェインです。」
「公爵家か。」
「……ご存じでしたか。」
「知らん。」
即答だった。
「興味もない。」
アルフレッドは苦笑する。
普通なら貴族の家名を聞けば態度を変える。
だが、この老人にはその様子がまるでない。
「では、お名前を伺っても?」
「エゼキエル。」
「姓は。」
「忘れた。」
「……忘れた?」
「五十年以上使っておらん。」
本気で忘れたらしい。
アルフレッドは呆気に取られた。
王都では有名な変人でも、ここまで自由な人物は見たことがない。
司書が苦笑して近付いてきた。
「気を悪くするな。」
「え?」
「その人は昔からああなんだ。」
司書は肩をすくめる。
「王国最高の賢者と言われた人だが、今じゃ偏屈老人として有名でね。」
「賢者……?」
「宮廷魔導師長も務めた。」
アルフレッドは思わず老人を見る。
老人は欠伸をしていた。
「面倒になって辞めた。」
あまりにも軽い。
「……本当に?」
「肩書きほど退屈なものはない。」
司書がため息をつく。
「この人は全属性の魔導を使える。」
アルフレッドは目を見開いた。
全属性。理論上は可能とされながら、実際に扱える者は数えるほどしか存在しない。
「ただし全部そこそこだ。」
老人は笑う。
「一つの属性を極めた連中には敵わん。」
それでも十分すぎる。
複数属性を自在に扱えるだけでも国家級の魔導士だ。
「どうしてそんな方がここに?」
「研究だ。」
「何を研究しているのですか。」
老人は窓の外を眺めた。
夕日が王都を赤く染めている。
「この世界はな。」
ぽつりと言う。
「便利すぎる。」
アルフレッドは意味が分からなかった。
「魔導があれば大抵のことはできる。」
「ええ。」
「だから誰も考えなくなった。」
老人は静かに続ける。
「火が欲しい?」
「火魔導だ。」
「水?」
「水魔導だ。」
「運搬?」
「浮遊魔導。」
「治療?」
「治癒魔導。」
「皆、それで終わる。」
アルフレッドは黙って聞いていた。
「魔導があるから工夫しない。」
「理論を突き詰めない。」
「仕組みを理解しようともしない。」
老人の声には、どこか寂しさが滲んでいた。
「道具も発展しない。」
「技術も育たない。」
「新しい学問も生まれない。」
「魔力が多い者が偉い。」
「それだけの社会になってしまった。」
アルフレッドは思わず口を開く。
「ですが、魔導は十分に発展しています。」
「発展ではない。」
老人は首を振る。
「洗練だ。」
「……。」
「既にあるものを磨いているだけだ。」
「根本が変わらない。」
その言葉は、アルフレッドの胸に深く刺さった。
彼自身も感じていた。
魔導学会は新しい理論を嫌う。
昔から伝わる術式を少し改良する研究ばかりが評価される。
根本原理を問い直す研究は「実用性がない」と退けられる。
老人はそんな彼の表情を見て、小さく笑った。
「お前も同じことを考えておったな。」
「……はい。」
「だから本ばかり読んでいる。」
図星だった。
老人は机の上の論文を一枚手に取る。
そこにはアルフレッドが数年間書き続けてきた研究メモがあった。
「魔素の自律安定性、か。」
「未完成です。」
「いや。」
老人は静かに首を振る。
「面白い。」
その一言だった。
アルフレッドは思わず息を止めた。
これまで誰一人として、自分の研究を面白いと言ってくれた者はいなかった。




