出来損ないの公爵令息(前)
王都の北部、小高い丘の上に建つ王立貴族院。
この国において最高峰の学び舎であり、将来の貴族や宮廷魔導士、学者たちが集う場所でもある。
今日も広大な演習場では、若き貴族たちが魔導の鍛錬に励んでいた。
風が唸る。炎が踊る。土壁がせり上がり、水流が蛇のようにうねる。
それらを操る若者たちは皆、自らの魔経絡へ魔力を流し込み、大気中に満ちる魔素を支配していた。
魔導とは魔力によって魔素へ命令を与え、自然現象を引き起こす技術である。
魔力を持たぬ者に魔導は扱えない。
それは子供でも知る、この世界の常識だった。
そんな演習場の隅で、一人だけ魔導を使わず本を読んでいる青年がいた。
「……また本か。」「本を読んで魔導が使えるなら苦労しない。」
「知識だけは主席なんだがな。」「惜しいよな。公爵家の嫡男なのに。」
嘲笑が聞こえる。
青年は顔も上げない。
慣れていた。生まれてから十七年間、何度聞いたかわからない言葉だった。
青年の名はアルフレッド・フォン・アルヴェイン。
アルヴェイン公爵家の長男である。
本来なら王国でも最高位の魔導士となるべき血筋。
だが、彼には致命的な欠陥があった。
魔力が存在しないのである。
正確には、体内を循環する魔力がまったく生成されなかった。
しかし奇妙なことに、公爵家の血統ゆえ、魔導を発動するための魔経絡だけは完全な形で備わっていた。
魔経絡とは魔力を流し、魔素へ命令を伝える器官である。
普通なら魔力が流れることで初めて意味を持つ。
だがアルフレッドには流す魔力そのものが存在しない。
立派な水路だけがあり、水源は枯れている。
そんな状態だった。
結果として彼は「出来損ないの魔導士」と呼ばれるようになった。
魔導が使えない以上、貴族社会では半人前以下の評価しか得られない。
それでも彼は毎日貴族院へ通っていた。
理由は一つ。魔導の研究だった。
演習が終わると学生たちは酒場や庭園へ向かう。
アルフレッドだけは図書塔へ歩き出した。
王国中から集められた魔導書が眠る巨大な塔。
彼は司書に軽く頭を下げる。
「また来たのか。」
「はい。」
「今日は何を調べる?」
「第三紀以前の魔素循環理論についてです。」
司書は苦笑した。
「君くらいだよ。そんな古い論文を読む学生は。」
「昔の理論ほど面白いんです。」
そう言ってアルフレッドは分厚い書物を抱えた。
数時間後。机の上には十冊近い文献が積み重なっていた。
彼は黙々と読み比べながら紙へ式を書き連ねていく。
「やはりおかしい。」
小さく呟く。
「現行理論では魔素が自律的に安定している理由が説明できない。」
魔導学では、魔素は自然に存在するエネルギーとして扱われていた。
しかし、それだけでは説明できない現象が数多く存在する。
術式が乱れても一定時間は現象が維持される理由。
魔導同士が干渉し合う理由。
複数属性が重なる際の安定条件。
どれも経験則だけが積み重ねられ、理論化されていなかった。
アルフレッドはそうした矛盾を一つずつ洗い出していた。
魔導は使えない。だからこそ理論だけを極めた。
誰よりも多く文献を読み、誰よりも多く実験記録を分析し、誰よりも深く考え続けた。
彼の頭の中には王国中の学者にも匹敵する知識が蓄えられていた。
しかし、それを評価する者はいない。
「魔導を撃てない学者なんて意味がない。」
「理論だけでは魔物は倒せない。」
「知識だけなら司書で十分。」
そんな言葉ばかりが返ってくる。
アルフレッド自身も理解していた。
この国は魔力至上主義である。
どれほど理論を語ろうと、魔導を実演できなければ誰も耳を貸さない。
だから彼は諦めていた。
自分の研究は、一生日の目を見ることはないのだと。
その日の夕方。
図書塔の最上階へ向かう階段を歩いていると、一冊の本が頭上から落ちてきた。
「っと!」
反射的に受け止める。革張りの古い本だった。
表紙には見慣れない文字が刻まれている。
「読めるのか?」
突然、しわがれた声が響いた。
振り返ると、長い白髪を後ろで束ねた老人が椅子へ腰掛けていた。
ぼろぼろの外套。
無精ひげ。
靴も擦り切れている。
だが、その鋭い眼差しだけは異様な知性を宿していた。
「その文字が読めるのか、と聞いている。」
アルフレッドは本を見つめた。
「古代西方魔導文字ですね。第三紀初頭の書式です。」
老人の眉がわずかに動く。
「ほう。」
「発音までは失われていますが、文法だけなら解読されています。」
アルフレッドは迷うことなく一節を読み上げた。
老人は静かに笑った。
「面白い。」
その笑みは、まるで長年探し続けた宝物を見つけたようだった。




